膠固常常数落
甘棠に明るい月亮が見える。
同じ月光が、離宮でも降り注いでいるに違いない。
純黒の字で書き出せば、詩の如き玉女の佇いが、宮城にある。
もっとも、朱蕣の心目にあるのは、妹が無事に紅人の模倣ができているかであって、月光の輝きを鑑賞していたわけではなかった。
固然、妹の才能があれば、できることは分かっているが、姉としての質が担心させるのだ。
「杜娘君、後宮には、なんの変わりもございません」
「ありがとう」
朱蕣は、室内に入ってきた女兵馬銀花に微笑み、頷き返した。
いずれ後宮の主となる身であれば、女兵には謝謝ではなく、行と言うべきところだが、まだそこまで慣れていなかった。
顔面に煩苛な紅女史は、そういった容止は欠佳と考えているようだが、頂く妃の位が明らかになっていないこともあり、朱蕣の庶人らしさは放過されていた。
やがては変わる――変わるはずだと思っているのだろう。
「紅女史、そんな難しい顔をしないで下さい。担心は分かります。でも韶華のことですもの、設法しているはずです」
「そうでなくては、困ります」
女官の声は、どこまでも認真だった。
「彼女の素養については、わたくしも信じているのです」
紅人の鍛錬と称して、韶華が覚えさせられた書籍の数は、膨大であった。
現に使えたかどうかは、戻って来てから後果を聞くしかないが、少なくとも宮城では、女官の問いに全て正答したのだ。
「わたくしより正確に、そして多くを、記得しているわけですから」
「読書だけではありませんよ。杜監の児女ならば、胡乱な輩など、難なくあしらうでしょう」
「そこ! そこが難点だと思っているのですよ、わたくしは! 胡乱な輩が胡乱なら良いのです胡乱なら!」
銀花の言を受けて、女官が嘆きを露わにする。
胡乱、胡乱と叫ぶ情分は、よく分かる。胡乱ではない者にも、胡乱な扱いをする可能性――その点については、女兵たちも朱蕣も、否定できなかった。
「杜監なら、認錯しないでしょうけどねえ……そういえば、あれ、どれだけになりました?」
「両天で五人までは覚えていますが……もう、五倍は越えているかもしれません」
「そろそろ風聞になっても良いと思いますが」
ささやき合う女兵たちが指折り数えるそれは、杜家の女主である杜淑英が、宮城で処理した不審者の人頭だった。
本来、固守されている宮城に闖入者など、あり得ない。それがどういうわけか、いるのである。
しかも明らかに、最近になって増えた。
「杜娘君を狙う刺客でしょうか」
眉を寄せる韋翠雀に応じて、馬銀花が否定した。
「刺客にしては、外行のようですよ。ただの変質者かも。後宮に憧れる愚人は多いでしょうし」
辛酸な言である。しかし、正しくもある。
紅女史は離宮に飛ばした心を戻し、表情を引き締めた。
「こちらの風波で、皇上を煩わせるようなことがあれば、離宮の紅人どころではありませんね。わたくしたちが守るのは、ここです……どうしたのです、馬女士」
「後宮、いえ、宮城内のことでは、ないのですが……」
言を濁しつつ、銀花は翠雀をちらと見た。
「韋女士が、気になっていることがあると」
朱蕣はためらう翠雀を見つめた。宮城内でないなら、気になるものはひとつだ。
「あの……杜娘君、西街では馬女士より兒のほうが醒目しませんから、上街ついでに巡回をしているのです。そこでどうも、見たことのある者が多いように思って。つまり同じ男たちが、几次となく西街に来ているということなんですけど、それを特別に古怪であると言うのは……難しいのです。商人ですから」
「でも、キュウの商人なのね?」
「……薄い髪色をした北方の者であるのは、明らかです。界隈の酒楼や妓楼に尋ねましたが、確かによく見かけると言います」
ただし、翠雀にも西街の者にも、彼らがキュウかどうかは判断できなかった。
「語言は拙いながらも、棠梨のものを使います。でも名乗ろうとはしません。胡人で支吾しているようです。銭などは、西方のものですから、老板はそれで構わないようで……あまり詳しく訊いた者はおりません」
「ですが翠雀の話を聞く限り、わたくしは、彼らがキュウであると思います」
キュウに近い生まれである銀花は、言い切った。
「矩歩を見れば、明らかです。恐れながら、わたくしにとってキュウは……訂婚の生国でもあり、彼らが自身に使うように、クシと呼ぶ国ですから、笑いはしませんが、彼らが棠梨の庶人の模倣をして靴を履くと、とても……分かりやすいのです」
「キュウ……いえ、クシは自身の靴を履かないのですか」
「夏令ですから」
朱蕣の当然の疑問を聞いて、銀花は微笑んだ。
キュウの民は、北方の寒さゆえに毛皮のついた長靴か、材の多さに支えられた柔らかな魚皮の鞋を履いている。どちらも、棠梨の炎天には向かないものである。
とはいえ棠梨で使うような草で編んだ履や鞋は、彼らにとって固すぎた。柔らかさを求め、絹鞋を選んでしまうと、商人と思ってもらえない。
宮都に入るのを許されているクシは、商人だけなので、辛いと分かっていても、草履や草鞋を履くしかない。そうして慣れない鞋で歩いているうちに、疲れて小幅になるのである。
「それはまるで貴族の女人のように。そうなったらあのひとは、いつも父に投げ飛ば……いえ、まあとにかく。西方の商人が屯する南市から、西街まで少しあります。醒目しないよう歩きで来て、矩歩で醒目してしまうのは、避けようもないのですよ」
「真に商人であれば、良いのですが……」
紅女史が呟くものの、応じる者はいない。
すでにこの場では、彼らがキュウのなんらかの命令を下された者として、西街に来ているという理解がなされている。
女たちが考えているのは、なにを目的にしているか、である。
「夜察に西街の守りを固めるよう、頼みます」
「紅女史……でも、できるのですか?」
「軍には、幺妹の訂婚者がおりますから」
紅女史は淡泊に言った。
「娃娃のためでしたら、私下な商量にも、応じてくれるでしょう……姑丈の勧めで訂婚しましたが、こう言ってはなんですが、姉のわたくしの目から見ると、あまり伸手にならない男子なのですけどねえ」
大息を吐く紅女史の長姉としての表情が、近しいものに思え、朱蕣は微笑んだ。
姉という者は、双親とは別の意思で、妹たちの対手に、厳しい目を向けてしまうものなのだ。
「心煩しますよね」
甘い焼栗色の髪の妹の旁に並ぶ男に求めるものは、己の丈夫に対するものより、多いかもしれない。
「まずは、ついて行けるひとよね……」
朱蕣の呟きは、その場の誰の耳にも届くことはなかった。
***
とぼとぼと歩く少女を、噴嚏が出迎えた。
宴の片づけもほとんど終わり、使わなかった座具を庫にしまいに行くところである。
噴嚏をした大きな影が誰かと考えることもなく、韶華は笑った。
「誰かが、悪聞言ってるのかもね?」
「悪聞で決まりなのか」
静影が灰心したように言う。紫石の双眸の上で、黒い天弓が雨に打たれたように下がっていた。
「成心で着直したようだけど、静影の任はこれから?」
澡堂で見た時は、戎衣は解いていた。それが平素と同じに戻っているのは、また甲を身に着けたということだ。
「わたしたち紅人は、今天は、これで終わりだって。それで行が終わったら、温泉に入っていいんだって。静影たち武人は、入る暇はあるの?」
「主持する刻が終わったらな。俺たちの次舎は水芳宮の外にあるが、温泉ではあるので、松気するのを楽しみにしている者もいた。這次は、まあ……」
静影の端整な容貌に、僅かな翳りが見える。殊方の使節を迎え入れて、気を緩めるわけにはいかないのだろう。
「弄月大人には、禁軍のひとがついてるんだよね。ずっと?」
「そうだ。ただ……彼らが慣れているのは、武具を持っての防護だから、少し労心している」
「武具……」
話題の不一致が気になり、韶華は首を傾げた。
韶華の尋ねたのは、帰途までか、という意思だ。做法については、考えてもいなかった。
「武具で防護って、どこも古怪ではないでしょう?」
「いや……ここは温泉で、皇上には寛いで頂くためにある。だから、温泉を楽しまれる間は、みだりにひとを近づかせないようにしている。旁に控えさせた国手と、小相の役を勤める太監くらいで、武人は周りで防護するだけだ。なのに、どうも彼らは……選ばれた者ではあるようだが、武具を持って近くにいたようだ」
考えたくないが、考えてしまった。
澡堂にずらりと並んだ、戎衣の武人たち。高強な身段を黒衣に包み、結舌したまま揺るぎもせずに立っている。そして、いかなる動静も見逃さないよう、主を見つめる。
「寛げないね……だいたい浴衣で不穿衣服じゃないんだから、小刀の一把でも持って入ってもらえば、構わなくても済むと思うけど」
「その小刀さえ不用とするような、守りをしなければならなかったんだ」
「そっか……」
「しかも、クシに対しても、同じことをしようとした」
考えるまでもなく、考えていた。
澡堂にずらりと並び、客人の動静を見つめる黒衣の武人たち。鼻息で揺れる熱気まで、不審に思われそうだ。
禁軍の武人は、それで寛げるのかと尋ねてみたいものである。
「そこまでは必要ないと言ったんだが……古板だからなあ」
「黒風って、静影に固いって言われるようなひとなんだ……!」
紫石の双眸が瞬刻、惑いを見せた。
「もしかして、知らないと思った? あの禁軍のひとが、水芳宮に来ていること」
「おまえが気づかないとは……思っていなかったが……」
禁軍を率いているのは、体躯も大きな壮年の男だった。名だけの達官ではないとしても、末端に加わっていた苛烈な目光の男に対する情態で、誰が上に立つ者か、明らかであった。
「晨晨は、香青路にいるよ。置いていかれたってわけじゃあ、ないみたい。灰心してないし」
「謝公も彼がいてくれると、動きやすいだろう」
そうだねえと頷いてみるものの、禁軍の若き武人を、みんなの使丁扱いするのはどうかと思わなくもない。
短い沈黙ののち、韶華はずっと抱えていたものを口にした。
「静影も……見たよね。クシの……あのひとの目」
「ああ」
紛うことなき碧眼。
「わたしが青い目に言及しても、驚かないんだ?」
「謝公が話したんだろう?」
韶華を見つめる紫石は、できるなら話を逸したい、という情分を抑えているのが分かる。
だったら逸してしまえば良いのに、と言うは易い。真卒な武人は、話さなくてはいけないということも、理解している。
韶華はゆっくりと首を横に振った
「いいよ、静影に情由があって、言わなかったことくらい分かってる。瑠璃の青い目がクシでは大事になるかも、とは老公公も言ったけど、理由までは言ってくれなかった。でも」
碧眼を持つクシの男の口から、それは語られた。
「あのひと……クシの王族なんだってね」
「そこまで知ったのか」
「静影は前に言ったね。禁軍を動かせるのは、皇帝だけ。それは、禁軍を動かした者が、皇帝であると言える、と。クシの碧眼も同じなんだ」
王族だけが、碧眼を持つことを許される。異国の血によるものであっても、クシの国では、殺されてしまう。
それが意思するのは、碧眼こそ王族を表すものである、ということだ。
「瑠璃は棠梨で生まれたのに、お父さんは、逃げなくてはいけないと……泣いたんだって。ただのクシの民だったら、国から出たあとのことで、悩む必要はないはずだよ。お父さんが、そこまで自身の子に碧眼を望まないのは」
「彼が……クシの王族だから、だろう」
「やっぱり、そういうことになるんだ」
韶華は大息を吐いた。
「ちゃんと応えてくれて、ありがとう。みんな知ってるらしいのに、清楚に話してくれないから、困ってたんだ。わたしだって……お父さんを提審しようにも、泣かれたらと考えてできないんだから、情態は分かるんだけど」
「すまない……」
「いいよ。弄月大人は、行幸を借口にお姉ちゃんから逃げたみたいだし、老公公にはねえ……待つとか言っちゃったし、老人は慰労するものだと言われたら、逆らえないわけで」
「でも俺には、なにをしても良いと」
紫石が昏くなる。
「そんなことは! だってほら、ほかに知ってそうなひと、いないし。たとえば、黒風は見つけるのも労苦で、訊こうにも訊けないわけで。同じ禁軍でも、晨晨は知らないみたいだから」
「おまえくらい、晨風と呼んでやれ。そもそも黒風になにを訊くというんだ」
「突如、瑠璃を張望しろと言われた理由が分からなく……て」
終いまで言わずに、韶華は膠固な武人を見上げた。冷たくはないが、ひどくこわばった気息には、覚えがあった。
黒風が盗んだ封信を再現し、けれどその内容は忘れてくれと言われた時。
ゆえに、再、忘れろと言われるのだろうか。
韶華の視線を正面から受けて、静影の表情は、迷いだけが露わになっていた。
「忘れて欲しいなら、忘れるけど」
「いいんだ。あいつが瑠璃を……張望しろと言ったのだから、知らない振りは……必要ない」
「じゃあ、なにを顧忌しているの。誰に、って言うほうが、正しいかな?」
「おまえは鋭いな」
静影の自嘲に頷くのは、自尊が過ぎるような気がした。
真に文官の家門なのか疑いたくなるほどに、静影の質は武人である。上下に拘らず、干城であれば決不、悪く言わない。互いに命を預ける者を、疑いはしない。
「きっと静影の思い浮かべているひとは、万世には、坏人と言われているんだね。でも、そうじゃないって……考えてる。あの黒衣のひとも、静影も」
「韶華……」
もう言わないで欲しいという静影の要求は、退けられた。
「ねえ……静影は、黒風がしていることと、わたしは係わりないと言ったけれど、今、それを改める必要があると思ってない?」
封口が、肯定を表す。同時に、それを語るには、まだなにかが足りないことも。
「今は話さなくてもいいよ。わたしとしては、まず瑠璃を守らなくちゃいけないから。だけどさ、あんまり考え込まないで。送料してるだけじゃあ、真実は分からないんだから」
「そうだな」
「考えてるだけ、無用だし」
「……」
「そこは、そうだなって言わないんだ」
「沈思より動武、固守より回撃、住口ずば投案してみせよう杜鵑が条理なおまえに、軽易に争いを煽るようなことは言わない」
言いたいことは紛紛あれど、反駁しにくかったので、韶華は紫石の上方、暗い空に満たされつつある月を見た。薄い雲さえかかっておらず、ただ、輝いている。
「……雨が降るのは、まだだなあ」
静影も夜天を見上げた。
「甘棠よりは、湿っているな」
「温泉の熱気があるから……だと思うよ。でも、天色は変わりそうだね。風の向きが違ってきた」
韶華の結い髪が風に揺れる。そこに熱気を流す強さが感じられる。棠梨に生きる者であれば、やがて雨を呼ぶ風であることが、分かるだろう。
「そういえば、おまえはまだ座具を運んでいる中途か。呼び止めて悪かったな」
「あー……忙しいのになあ。明天も早いんだけどなあ。助けてくれると良いんだけどなあ?」
言うなり、座具が奪われた。
「俺がやっておくから、早く戻れ」
笑う静影が、庫に向かう。戯言だと言い返す暇もない。
厚意に伸手るばかりというのも好ましくないが、韶華は任せることにした。慣れない場、慣れない行に、脳子が惑いっぱなしだ。
韶華は随従に分配された次舎に向かった。矩歩は、不久前より軽い。
「にしても、早く戻れってさあ……」
見えない姿を探して振り向く。
「それ、几次、聞いたか分からないよ」
だがこれからも、静影には、言われ続けるような気がした。
***
少女の姿が樓道の向こう、闇に消えたのを確かめてから、静影は身体のこわばりを解いた。
迷いを見せて、悩ませたくはなかった。けれど、見抜かれてしまうと、ほっとする。隠していることを、隠す必要はないから。
静影は、紫石の双眸を闇に向けた。
韶華が去れば来るだろうと思い、待っていた微かな気息だ。
「黒風」
気息に気づかなかった者の目には、静影が独言したか、宙に呼びかけたように見えただろう。
しかし闇は、確かに動いてひとの姿を吐き出した。
清逸な眉眼に、苛烈さだけを露わにした黒衣の男を。
「どうして瑠璃を張望しろと伝えたんだ」
「起先に言うことが、それか」
「訊かれないとでも思ったのか。だったら、俺からも逃げていろ。韶華から逃げているように」
黒風の厳峻な情態が、僅かに揺らぐ。
それだけで、伝わるものが分かってしまう。
朋友の昏い心のうちに、小さな棘が刺さっているということが、見えてしまう。
韶華に伝える打算は、なかったのだ。己の係わったことが、瑠璃――碧眼の幼い少女に及ぶと分かっていても、任として行うのであれば、伏せておかなくてはならないのだから。
けれど。
「そうか……おまえにも、なにが起こるか分からないんだな? 張望しろなどと、模糊とした説法をしたのは。おまえになにかをしろと言った者が、瑠璃をどうする預定なのか、知らないんだ」
当前にいる、静影のよく知る男は、どれだけ短くても清楚に表明する。
韶華もそれが分かっていて、訊こうとしたのだ。幼い妹のこととなれば、なにをするかなど、どうでもいい。守るのは分かりきっている。だから、そうしなければならない理由を知りたかったのだ。
「黒風、まだ……皇上を疑っているのか。だが、あれには、それらしいことはなにも書いてなかったぞ」
「どうやって知った」
男の目が、静影を正面から捉えた。彼が沈家の別宅で盗んだものを、静影が知るはずはないという貌だった。
その場に居合わせたのは韶華だけ。しかし、一次見たら覚えるという小技で再現されたものを、静影は持っている。ある意思、黒風が闊達な少女の、あの本事を知らなかったことに驚く。
「黒風、おまえが諦めるつもりがないのは、分かった。だが」
「ならば、抛っておけ」
静影を後方にして、黒い影は消えた。
抛っておけと言われても、友を迷いのなかに抛ってはおけない。
もっとも対手は、静影を友と思っていないかもしれない。それでも、呼べば姿を現してくれるのだから、路人よりは正当な扱いなのだろう。
「キュウが巻き込まれたのか、それとも、元から巻き込んだのは、向こうだったのか……」
静影の呟きに応える者は、今はどこにもいなかった。