敬請持重之二
静影の介入に助けられ、澡堂から出たものの、韶華に放心する間はなかった。
待ち構えていたらしい小女たちが、わらわらと寄ってきて、韶華と江那を連行したのである。
韶華に騒牢を言う余裕ができたのは、厳しい表情の女官たちが控える間に、放り込まれてからだった。
「急ぐのは分かりますけど、せめて静……徐将軍に感謝を伝えるまで、待って欲しかったです。それくらいの余裕は、あったんじゃないですか?」
「話す余裕があるかどうかは、わたくしが判断します」
正面に立った女官は韶華と江那、ふたりを睥睨し、大息を吐いた。
「風聞は当てにならないと申しますが、こういう方面で当てにならないのは、困りますね。工夫が、かかりそうです」
「工夫って!」
控えている女たちもまた大きく頷くが、こちらは幹気に満ち満ちている。
「諦めてはなりません」
「難的行事こそ、能手の見せどころです」
「凡そ平らかでも、身高があっても、いかなる女人であろうとも、加工してみせましょう」
「工夫とか、加工とか」
ひどい説法だと騒ぐ少女に女たちが集る。同事の少女を犠牲にして逃げようとした女兵も、すぐに集られた。食糖を前にした蟻のようだ。
やがて多くの工作と労苦と尋常ならざる決意によって、あらゆる加工を微に入り細に入り施されたものが、できあがった。
桃花粉をつけ、新たな扮装にさせられた韶華と江那である。
「着替えろというなら、そう言って欲しいんです」
「それでは足りないから、こちらで加工するのです」
女官の貌を見ながら、韶華は唇を噛んだ。
宮中の女官たちに微笑みがないのは、もし笑えば脂粉が割れてしまうからに違いない。
頬の斜紅は、少しでも表情を出せば、遠くから見えるように。口を開けてはならぬと、唇の中央にだけ紅を乗せ、鑰匙を描く。
韶華に施されたそれは、淡粧であって、剥がれるようなものではない。紅人としての顔面を、軽く整えただけだ。
それでも肌理の気が、阻害されているように思えてしまう。宮中の女たちは、できるだけ情分を表さないよう、脂粉の面具を被せているのかもしれない。
「なんとかなりましたね……」
上下左右韶華の面貌を確かめて、女官が厳かに頷く。
耳房から、小女が盤子を持ってきた。
「玉珥? 宴に出るんですか? わたしは食糧庫で分配をしていれば良かったのでは?」
「事情により、貴女たちを宴席で使うことになりました」
入室してきた紅鐘藤を見て、女官たちは拝礼の作勢をした。
沙棠宮では姉が志する任を負い、水芳宮では妹が女紅らを管理する。女史も司正も、女官として高位とはいえないが、最も働いている者ゆえに、ひとは彼女たちを大紅姐妹と呼んだ。
「澡堂では麻煩をかけました。聡い貴女のことですから、あれだけで送料はできるでしょう。クシは太監を好みません」
「あの……あり得ないとは思うのですが、そのことについて、聞かされてなかったのですか」
宮城で礼儀の書籍を読まされ続けた韶華としては、信じがたい失事である。
「水芳宮は……我が棠梨の一人がためにある宮殿です。離宮としては小さく、ゆえに下人も少ない。行幸の時候には、随行の顕官らとて、自己の做伴を連れてここへ参ります」
「つまり、客人を迎えたことがない……」
「少なくとも、棠梨の外からの客を受け入れたことはありません。太監たちが使えない、などという事態を、考えていなかったのです」
宴にもよるが、客を照料するのは侍候であり、それなりの位を持った男女が担うものである。太監は客のためにあるのではなく、侍候に使われて、さまざまな行をする者たちなのだ。
しかし、当代の皇帝である弄月が嬪妾をともなわないので、離宮での宴も素なものになった。太監たちに、直に仕えさせていたのである。
「わたくしたち、水芳宮の者は、それに慣れてしまったため、太監を見えないものとして扱うことを忘れておりました……あれが使えないとなると、それまでの条理が乱れます。姉の配合によって、多くの管人や紅人を得ておりますが、それでも足りないのです」
「……それで、外行のわたしにも、任が回ってきたわけですね」
やむなく、といった風色で頷く女官であるが、韶華はひとつ、疑問を口にした。
「ここに来るまでに、太監たちが忙しそうに広殿に来来往往するのを、見たように思うのですが」
紅司正の表情が、僅かに動いた。
「太監は、男でも女でもない者。それは分かりますね?」
「ええ、そうですね……」
「あそこで働いているのは、男でも女でもない水精です。太監に見えますが、水精です。男でも女でもないのですから、水精に違いありません。誰に尋ねられても、そのように答えなさい。良いですね?」
是と応じるよりほかに、なにができようか。
韶華と江那は、がくがくと忙しく頷いたのち、大庁へと追いたてられた。
宮中の倣法とは、いかに理を屈するかを競うものであるらしい。
***
宴は石榴殿と呼ばれる広殿で行われている。
室内に控えられるのは、侍候を担う女官や管人たちだけ。下人が自在に入れるのは、厨房などを含む小さな殿堂までで、太監と紅人が宴席にものを運ぶ。
ところが今次は、太監が使えない。一膳を運び込むのは、紅人や女官の行となった。
「侍候に少ない管人を充てて、太監に紅人を充てて、本来ならいない取り次ぎに、女官を充てた、と」
「ですねー。でも、うえいてぃんぐるーむまで太監が運んでくれても、構わないと思うのですが」
杯を乗せた長盤を持ち、漫漫と歩く江那が恨みを込めて呟いた。
それは韶華も同じ心境である。本来なら耳房で待っていれば良いものを、紅人が太監に代わって、厨房や庫まで行かなくてはならないのだ。
「ちらりとでも太監を見せたら不成……って、言われちゃあね。でもこの長い避弄を行くのって、麻煩……」
広殿から延びる回廊は、両重になっており、庭院に面して落地を持つ樓道と、小さな丸窓が並ぶ樓道とに分割されている。
丸窓は小さく、外を見るのに向いていない。というより、外から内側を通る者を見せないようになっている。
韶華たち女人と下人が使えるのは、丸窓のある部分――避弄として造られた樓道で、どこに向かうにも迂緩であった。
「あんまり遠いと、裾が気になって……」
ひだの多い羅の裙子が、桃源郷の夢幻を表しているかのように、飛掲している。綵綺の襴は、僅かに翠を入れた紅が眩しい。
宴席に仕えるため、紅人として与えられたものより、華やかさが増している。そしてそれだけ、歩きにくくなっている。
長い裾に慣れているらしい江那でさえ、慎重になっている。まして韶華は。
「でも、小妹に合っています。杜娘君が選んだそうです」
「お姉ちゃんの才能は、信じてるけど……」
並ぶ江那をちらりと見て、韶華は大息を吐いた。
江那の鮮やかさは、驚くほどだ。身高もあり、腰のくびれも艶めかしい。
比べて韶華は、巻いた薄紅色の地毯が立ててあるように見える。あまりに哀しいので、言にはしないが、
(江那さんといれば、わたしの不審が均されるって、紅女史は言ったよね?)
それはない。断言できる。
(却って清楚だよ! いっそ烏黒の賊徒のが、醒目しないのではッ)
遅きに失したとはいえ、判断を改めて欲しい。
「それにしても、楽しいです。ワタシは小妹に感謝しています。宮都だけでなく、離宮にまで来られました。女兵にならなかったら、室に隠されたまま、らいふを終えたかもしれません」
「棠梨は……わりと女人に自由がある国かもね」
「郷里は嫌いではありませんが、クシや、多くの国があると知れたのも、良いことです。あのひとたちは、椅子に座って騒ぎをするのですね」
「江那さんの国も、座って宴をするんだ」
「そうです。男女は分けられています。でも、ワタシの部族は、男女でしか婚姻できません」
「そ、そうですか……」
男女でなくても婚姻が可能な部族が、西方にはいるらしい。
棠梨も風流に性別の括りはないが、婚姻までは、聞いたことがない。
「まあでも……クシのひとがいる時には、男女でない婚姻について、話さないでおきましょう」
「話すこともないと思いますが、どうしてですか」
「太監を忌むように、同じ性での風情を厭うとか。女官心得伝に、要慎重として出てた」
「そうでしたかー……同じの読んだはずですが、小妹は真にすぺさるですね。あの指南書を、全て覚えているとは!」
「覚えるだけでいいものは、楽なんだよ」
実践に使えなければ、意思がない。水芳宮にクシの太監嫌いが伝わっていなかったように。
その余波を正面からくらった女官が、韶華たちを見つけ、急かした。
「ああ、来た。早く持っていって! 停、それはこっちに!」
厨房は混迷の一途を辿っていた。宮都から来た雍人たちが役使するのに、水精たちが応じきれていなかったのだ。
やむなく女官たちが、雍人と水精の間を取りつぐものの、広殿に戻れない焦りのために、声も荒くなりがちだった。
杯を注子に替えて江那が戻り、韶華はかなり遅れて大庁に向かった。
遅れたのは、運ぶはずの菜ができ上がらなかったからで、後果として待つのも惜しいと、いらない器皿を下げに行かされたのである。
急ぐ矩歩で、しかし走ってはならない様態で、韶華は避弄に入ろうとした。
誰もいない庭院が目に入る。
客人たちは、今は宴の席にいる。
誰も見る者はいないのだから、抄道を使っても良いのでは、ないだろうか。
行。とばかりに、少女の姿が潅木に沈む。
それを見ていた者はいなかった。ただし、気づくことになる者はいた。
庭院に設えられた湖心亭と、その下の湖に映る月を眺めていた男が。
「あ……」
「また会ったな、娘」
クシの男は、青龍の澡堂で見た時とは異なり、軽そうな単袍を着、寛いでいた。使節の者は全て宴に招かれているはずだが、出なかったらしい。
青い目は夜空の下で、ほとんど闇と同じ色に見えた。淡い髪の輝きと、貌の白浄さだけが、浮かび上がるように明るい。
動きを止めた韶華に代わり、男は近づいて来た。袍に施された、細やかな帛糸の刺繍が、不時に閃光を放つ。
「少し話につきあってくれるか。我がクシも、棠梨の言葉を理解する者は少ない。だから言葉が通じるのは、少し嬉しい……どこで言葉を学んだ?」
字典で。と答えて信じるかどうか。
とはいえ、クシの男の聞き慣れないトーリという音より、韶華の発声は欠佳に違いない。誰か師の名をあげたなら、その人物の才能が疑われそうだ。
答えに迷っていると、男はくすりと笑った。
「最近は少ないが、クシにも西方からの者が住んでいる。彼らの言葉に対する貪欲さは驚くほどだ……そなたは棠梨で生まれたようだが、父母に似たのかな」
「似ているとは言われませんが、そうなのでしょう」
男は、亡くなったのか、と韶華の思った通りの反応をした。
クシから出走した父親について、提示するつもりはなかった。痩せ女という女妖を思わせる元美貌に似ているとは思わないが、どこかにはあるであろう影子から、韶華に誰かを思い当たられても、困る。
「わたしにクシの言葉を教えたひとが、誰かは知りません。薄い灰色の髪をしていたので、クシの民だと思います。北方のひとは、みな、そのように淡く薄い色の髪をして、青い目をしていると聞きましたから」
男の表情が変わった。
「青い目をしていたのか、その男は」
「青とは言えない、もっと薄い色でしたが……」
答えながら、やはり、と思う。クシにおいて青い目は、面色を変えるだけの意思があるのだ。
宮都を出る前、謝元宝から話せることとして聞かされたのは、瑠璃の青い目についてだった。
碧眼は、クシにとって特に重要な意思があるのだ、と。
なのにその内容については、語ってくれなかった。
「クシの方……どうして、色をお尋ねになるのですか? 青い目の者は、西方でも多いですし、驚かれるような珍しいものではないと思うのですが。貴方も、碧眼ですね?」
「驚くようなものではない、か」
男が笑う。ほんの僅か、口の端を歪めている。
それは、韶華を蔑むものか、自嘲するものか、どちらとも決められない笑いに見えた。
「最近、クシに外つ国の者が来なくなったと言ったな」
「はい。棠梨は、増えたかもしれません」
「だろうな。そなたの言う通り、西方では碧眼など珍しくない……だが、クシでは王族以外に碧眼は許されない。碧眼というだけで殺される国に、誰が来るというのか」
王族という言に驚く韶華の目を、男は覗き込んだ。
「その目であれば、そなたはクシで生きられる。だが、生んだ子どもが碧眼であれば、そなたの父か、母の西方の血から来るものであっても、その子はクシでは生きられない。そう、夫が王族で、正妃として迎えられていれば……そなたは国母にもなれるがな。それを受け入れられるか」
「碧眼即死、新鮮! ではなくて、ええっと……その場合、クシから遁走しますけれど、わたしなら」
「あるいは目を抉り出すか」
笑うところではないのに、男は笑った。誰かを思い出す笑いだった。
「貴方は、そういう方を知っていらっしゃるのですね」
「さて……碧眼ではなかったから、抉ったのだと言っていたそうだがね」
「意味が分かりません」
「名誉の問題だよ。そなたには……係わりないな」
もう話すことはないと、男は貌を背けた。
韶華も、そろそろ戻らないと探されてしまう。だからその前に。
「クシの方、もし叶うのでしたら、お名前を聞かせて下さい」
「セレウ」
男は古怪な音の名を告げた。
「棠梨では、言いにくいだろう。射刃と覚えておくがいい」
韶華は封口して頭を下げた。
座面に豆鍛錬が、初めて中用であると知った。クシの貴人名冊を覚えさせられたのにも、意思はあった。
セレウとは、王子の名だ。
血統だけでいえば、クシの王太子のただひとりの孫。
王太子は次の王となる者の備用であり、つまり彼はやがて王位を受け継ぐ者、と考えて然るべきである、のだが。
それが、そうとは言えない――
(不妙でしょ。継承争いの一方が、棠梨に来てるって……!)
クシの王太子は当代の王の弟である。すでにどちらもかなりの高齢であり、実地には、下回の王太子、すなわち王太子の位を継ぐ者が、王になるだろうと言われている。
そして、その候補はふたり。
王太子の孫と、前代の王の孫。
韶華は、紅女史からそれを聞かされた時、彼らの父親を外して考えるのはどうしてかと尋ねた。
明晰な女官は静かに首を横に振った。分からない、と。
韶華の内に、焦慮が掻き立てられる。父親とクシの王族と瑠璃。絡み合うものの去路は、暴れる甘河に呑み込まれた時より、遠くにあるように思えた。




