小小的失算
韶華が紅女史の口信をもらってから、明けて一天、宮城に勤める宮女たちを束ねる場、命婦院に属する書庫、珠砂院の隅で、それは始まった。
当前に積み上げた書籍を指さし、主持女官は、読みなさいとだけ言った。
「ええっと、いつまでに読めば……?」
「今天のうちにです」
既に韶華の小技を知っているゆえに、用度する心目はないらしい。
「できるなら、半天で終わらせるように。管教のどこに重きを置くかを、確かめたいので」
「どこ、というと?」
女官はカッと目を見開き、身を震わせた。
こぼれ落ちそうな大きな目から、妖しい光線でも出ているかのよう。それで韶華の上から下までを一次に探る。脳子の内側では、大量の無と一が列を為して射出されているに違いない。
やがてなにかが弾き出された。
後果、それは女官に虚ろさを伴う視線を、韶華に向けさせることになった。
「わたくしの百年かけての苦修となるやもしれません……形だけでも、どうにかしなければ……武官の模倣はできるようだから、動きは鈍くないはずだし……いえ、そうね、それくらいは……あとは……封口で弄假……」
なにを言っているのか、理解するのが怖い。
だが、ここは黙っているのが上策と、韶華は読書に取り掛かった。
(女礼。これは読んだ。で、次は……武氏管教妙訣。また武夫人かい)
まずは頁をめくり、書籍をより分ける。
不料にも既読のものが多く、これなら半天もかからない。
考えてみれば朱砂院は、女兵の課本を探すために、漁ったことがある。読んだ、否、見たことのあるものが多いのも、当然といえる。
そして、女官が選んだのは容止についての書籍ばかりで、どこかの将が言ったように、覚えるだけなら一瞬だ。
(でもなあ、これを宙しろ……とは、言われないよね……)
開いた書籍の図片に目を落とし、思い浮かべたのは姉、朱蕣の隅まで美しい容止である。
求められているのは、見たものを正確に描く、のではなく、姉のように、行ってみせろということだろう。
韶華は少しだけ、読書の法子を変えた。模倣をすることを前提に、覚えることにした。
頁をめくる微かな音だけが響く。蛾の羽ばたきにも似た音が、絶えることなく、室内を占める。
書籍の盛りをひとつ処理したところで、韶華は旁から覗き込む女官に気づいた。
「あの、そこでずっと見て……いらっしゃいました?」
「差一点」
ふう、と女官は息を吐いた。
「井然と読み込もうとした部分は、大約正しいものでした。図片のないところを、飛ばしがちなのが……でも上進の線を見つけましたよ、紅女史! わたくし、為してみせます!」
女官が閃閃した目を空に向け、拳を握る。尊敬する上司に誓う姿は、かつて姉と納女考試を競った令媛たちの吼声を、思い出さないこともない。
あの一場では、令媛たちになにが行われたのか、全く世に伝わっていない。もし同じことが課せられたら――
よく分からない焦慮が、韶華の心目に湧く。
女官がにこりと笑い、椅子を勧めた。
「さあ、こちらに座ってくださいな」
「座ると拘束されたりは、しませんね?」
「しませんよ。当然です。しなくても、充分ですので」
韶華の座ろうとした動作が止まる。焦慮が不顧できないほどに増している。なんの神知かしれないが、座面にそっと手を置くと、
「どうして、豆が!」
「気づきましたね。座っていれば、不快を感じるはず。あなたはどうしますか? それは、どんな上当があろうと平静を保つための鍛錬ですよ」
「鍛錬って、なんか料想と違う! これは不成でしょう! 食糧で鬧着玩はいけないって、令堂に言われませんでしたかっ?」
女官の面色が変わった。
「わたくしとしたことが……」
「居心は分かりますよ? 不料な事件を処理する脳力は必要でしょう。でも、これは紅人の作法を、教えられているんですよね。宮中では、上当が常であると考え、処理しなければならないんですか……」
いずれ後宮の主となる姉には、そこらを改めてもらえるよう、進言したいと思う
韶華だった。
「それで……正しい処理は、どういったものなんでしょう」
「あなたが上当したなら、黙って豆を集めなさい。客人であれば、褒めなさい」
「こんな略微な豆を看漏できないとは、なんと繊細な、家世の良さが忍ばれます、みたいな……?」
「正当」
微笑む女官に、韶華の返せる言はない。できるなら、学堂で老師たちを嘆かせた昔日の自身に、言ってやりたい。
遁詞に磨きをかけろと言われる日が、来ることもあるよ、と。
豆を拾い終えた女官は、韶華に次の場へと移るよう告げた。
「昭彰殿に参ります。紅女史から……ああ、今天はもう、課はありません」
珠砂院から昭彰殿に向かうには、皇帝の住いである喜佑殿の前を通る方が近い。
とはいえ、紅人候補を皇帝の目の触れる場に連れて行くことはできない。女官は大きく東を回って、陶光園の長い樓道から昭彰殿に入った。
だから韶華が、静影に気づいたのは偶然だった。
大きく開けた樓道からでないと、殿庭に知った背影があるのは、見えなかったのである。
「あれは……」
女官も静影の左右領軍の青甲を認めた。そして、そのまま行き過ぎるかと思いきや、足を止め、太監にささやいた。
「呼んできなさい」
拱手して太監が下がる。どこにとも、どうしてとも、問い返さない。彼らは命じられたことを、こなすだけだ。
代わりに韶華が疑問を口にした。
「静……徐将軍に、なんの事が?」
「伏波将軍には、予め話しておかないとならないことがあります。そこにあなたが居るなら、適切です」
「伏波将軍……」
韶華の低声に応じて、女官の目が、かの好男子の別名を知らないのかと驚きを見せた。
「いえ、知っているのですが……呼んでいるのを、初めて聞いたので」
「這次の行幸では、少なからず意思があるでしょう。もっとも……任を負うのは、異なる者たちかもしれませんが」
眉をひそめる女官の面貌には、忌む心境が表れている。行幸に係わるものであるなら、静影を伏波将軍と呼ぶ居心は、ひとつしかない。
(キュウを迎えるのに、水軍を使う打算なんだ……)
水芳宮は、宮都甘棠の西側にある。北方から来るキュウの使節を、都に入れずに離宮へ向導するなら、北か南を通らせるしかない。
しかし、南回りでは遠すぎる。そして北側を使うのならば、干道を行くよりも、甘河の支流に乗って移動するほうが早い。
ただし、水軍を使うとしても、静影の本分とはならず、禁軍に扱わせるかもしれない――と女官は思っているのだ。
(確かに禁軍の扱いは、心煩かもね。表に出てくるの、初めてだし)
皇帝がどのように彼らを使う打算でいるのか。
宮城で仕える女人の感じることは、心に留めておいても良いような気がした。
「おお、小妹。来ましたか」
韶華が女官と庁堂に入ると、女兵が嬉しそうに声をかけた。輝く眸と波打つ黒髪も美しい、星江那である。
旁には同じく女兵の馬銀花。厳しい貌の紅女史と、やや遅れて不放心な静影とが揃った。
「星姐も馬大娘も、どうしたんですか」
最もキュウに近い北の領国、白棠の出である銀花が居るのは、分からないでもない。宮都にいては、知りようもないキュウの殊俗を教えるために、来たのだろう。
ただ江那については、明らかではない。古怪に思う韶華に、江那は満面の笑みを浮かべた。
「小妹、ワタシはかんぱにいを、願い入れました!」
「一同……一同って、星姐も水芳宮に行くの?」
韶華は紅女史を見つめた。女兵は、後宮に置くと言い切ったはずである。
「杜娘君の要求もあって、皇上より正式に、あなたを随従に加える准許を頂きました。これにより、一時的ではありますが、あなたを宮女と認めます。ですが」
紅女史の目が、韶華の焼栗色の髪に向いた。
「あなたは、醒目過ぎると言わざるを得ません。儀止もまた」
「儀止も、ですか……」
「獣に木の模倣はできません」
「飛鼠は、ものすごく馴染んでて、見つけにくいですけど」
「狙、と言って欲しかったようですね?」
韶華は封口した。
「分かって頂けたようで、嬉しいですよ。いずれにせよ見る者が見れば、あなたは宮女ではないと看破されます。ですが、合不来が一あって不審と思われても、二あれば放過されましょう。幸いなことに、星女士はまだ、女兵として正式な調度をしておりません。假の宮女として、あなたの旁に置けば、糢糊になるでしょう」
江那と韶華、揃って儀止が不妙な者の印を、押されてしまったようだ。
確かに、後宮の女たちより韶華が優れていることといえば、
(間の隅に潜むとか、音もなく囲墻を越えられるとか……)
ひとが思う女官の儀止からは、遠いものばかりである。
「ですので、随行される徐将軍には、後援のためにも、ふたりの難点を知っておいて頂きたいと思います」
「充分に」
爽やかに告げる静影が、韶華の恨む視線を顧みることはなかった。
「そういえば小妹。近来、妹妹が来ないですね。どうしてますか。翠雀が、すっかり、ろんりねすです」
江那の言に、銀花も頷いた。
「わたくしも会いたいです……小妹が離宮に行かれると、妹妹も寂しいのでは?
杜娘君や杜監は、白天は後宮におりますし、こちらに来て頂けたらと思いますけれど……」
考える動作で、韶華は軽く唸った。
瑠璃を後宮で守る策も、ないではない。子を郷里に置いてきている女兵には、幼い少女と会うのが慰めなのだろうし、瑠璃も後宮で遊べるのなら、喜ぶだろう。
ただ、父親をひとりにするのも迷う。
おそらく彼にとっての枷は瑠璃だ。守らなければならないものが、手から離れてしまえば、姉が案じているように、出走してしまうかもしれない。
考えた末に、韶華は当初の策を選ぶことにした。
「後宮では、慣されるばかりになるので……瑠璃の学堂の準備が片づいたら、また連れてきますね」
「あかでみー! それは重要ですね」
「わたしの帰路までは、界隈で読書を教えてる老師のところに、通わせる打算なんですよ」
韶華の言う老師は、太父杜照白の以前の上司であり、御史大夫を務めた謝元宝のことである。
固然、頼むのは読書ではなく防身だ。
断ることで、悲しませるかと思ったが、幼い子に関しては、学堂という言は威力がある。女たちは、あっさりと支吾を受け入れた。
***
晨風の名を持つ少年は、囲墻を通り抜け、宮殿と呼ぶには質朴な殿堂に入った。
甘棠の北辺にあり、入る者の限られるこの場は、皇帝にだけ仕える禁軍の兵営である。
禁軍の武人は、ほとんどが世襲であり、随分の位に就かなければ、自己家に住むことはない。少年も老家を離れ、兵舎で時を過ごしてきた。
名門でもなく、父親が卓越した功伐を上げたわけでもない子どもは、軍閥の争いに係わらずに済むよう、幼くして鍛錬に加わる。
だから彼は、兵営で育ったようなもの。禁軍に正式に加わる日に、晨風という名をもらい、今となっては、禁軍としての自身しか知らない。
父親とは禁軍の内で会うこともあるが、記得にもない双親との暮らしを惜しんだことはなかった。
なのに。
幼い声が飛び交う小路を、白屋の間で白湯を飲みながら語ることを、懐かしいと感じるのは、どうしてなのか。
羨ましいと思うのならば――分からなくもないのに。
晨風、と呼ばれて少年は立ち止まった。
黒衣の男が、少年の苔灰色の衣を見て眉をひそめていた。
「黒風……」
「戻ったばかりか」
同事というには、真面目の知れない男である。それでも晨風にとっては、誰より信頼できる上官であった。
あった、と言わなくてはいけなことが、今は晨風を苦しませる。
「遅くなりました。あの……」
「西街にいたのなら、戻る必要はない」
「ですが、行幸の準備があります。皇上に同伴するのは、ぼくらの隊の充当なんですから」
声調に責める含みが滲むのは、やむを得ない。最近の黒風は、あまりにも不審。元より言の少ない男が、さらに説明をしなくなり、禁軍の出す命とは思えないことで、動いているようにも見える。
問い質すべきなのだろう。
「おまえは水芳宮に来なくて良い」
こうして更なる不審を重ねられ、うつむきたくなるくらいなら。
なのに、できない。
預感していたように、告知を受け入れている。
黒風が珍しく眼睛の苛烈さを緩めて、少年の面貌を見返した。彼にしても、送料しなかった反応らしい。
「おまえを隊の本分から外すわけではない」
「分かっています……都に残れとは、つまり新たな用命がない、ということですよね。ぼくが今、与えられている工作を続けよと、あなたは言っている」
西街に済む幼い少女の、張望り。
黒風が晨風に命じたのは、それだ。張望とはいうが、あらゆる風波から守ることを意思している。
密かな防身は、禁軍のうちでも重要な品類の任だ。妃を出した家の児女だから、あり得ないわけではないが、棠梨の子どもにつきまとう怪、痩せ女にしか見えない父親と楽しそうに笑う幼い少女を、なにから守るというのか、疑問は消えない。
ある部分で、晨風の抱いた疑いは正しかった。皇帝も同じ言――杜家の家人を守れと口にしたことにより、黒風の命が、私下なものであると分かったからだ。
黒風は、あの碧眼の少女をどうして守らねばならないか、知っている。
だが、理由が教えられることはないだろう。
理由などいらないでしょうよ。
焼栗色の髪の少女の、青冥に響く声が聞こえる。
晨風も、それを認める。幼い少女が笑っていられるのは、正しい。幼子の旁に居ろと言われたならば、それが晨風の任だ。
袖についた砂塵を払い、踵を返す。西街に戻るために。小路で幼い少年らに武術を教えたり、杜家の女主に教えられたり、幼子に睨まれるために。
「う……最後のは、いやかな……」
従うことだけを求められた禁軍の兵営で、若い武人の小さな呟きを聞いた者は、いなかった。




