小小的策謀
いくつもの輜が、少女の当前を慌ただしく通りすぎて行く。
しかし少女は、手許の冊子に目を落とし、界隈を気にかける様態はない。甲士の口令に車兵たちが当下に応じる喧嘩も、遠いもののようだ。
棠梨を守る鋭兵が集う場、南衙軍の兵営に少女――杜韶華がいるのを、誰も古怪には思っていない。
得体なものではないかもしれないが、対手をするのは誰か、決まっているからである。
大歩で近づく将を見て、ああ始まるな、と目を逸した。
「韶華、だからどうしておまえが地図を持っている! しかも、殊方の」
焼栗色の結い髪を揺らし、韶華は地図を奪い取った男を見上げる。
武人らしい壮実な身材。端正な容貌も醒目な、皇帝の信も厚い侍衛の将。
ただし紫石の双眸は、閃閃していても、厳しさしかない。視線を合わせて得られるものは、狷介という印象だけだ。
韶華は大息を吐いた。
怒られるのには、慣れている。
真卒で膠固な徐静影が、庶人に許されていない地図を見ることなど、抛っておくはずがないのである。
「でもさあ……少し借りて見るくらい、良いじゃない」
「一次でも見たら、おまえは覚えてしまうだろうが」
韶華の小技については、静影もよく理解していた。
墨で描かれたものなら見ただけで肖似に再現できる才能は、一冊の書籍を百に、一幅の地図を千にでも増やせる。
武人の静影にしてみれば、冊子の形をとる地図は、軍事機密を表すためのもの。不久前まで、匪賊望舒党を名乗っていた少女に手に取られると、平静ではいられないのである。
「だいたいこれは……どうやって持ち出した」
「砂朱院のものだよ。静影が思うような書庫じゃないってば」
言われてひっくり返して見れば、確かに砂朱院の印があった。
砂朱院は、宮城に仕える女官たちのための殿、命婦院に附属する書庫である。軍に係わるものではない、が。
「韶華……この地図は、どうみてもキュウを示すものだよな。キュウについて知りたいという心境は理解するが、おまえの父親とあの国との係わりは、容易に動かせるものではない。水芳宮に迎える使節については、俺たちに任せろ。宮都で、瑠璃と杜娘君を守ることだけを考えろ」
「動かせないかどうかは、やってみないと分からないよ?」
韶華は、旁に置いていた書籍を広げて見せた。
瞬刻にして静影の面色が変わる。一瞥で理解できたというより、理解したくないから面色を変えたのであろう。
「それは……まさか……」
「女官って、いろいろな任があるよね。実地に広い宮城の理家してるのは、女官たちなわけだから当然だけど。それに、後宮がないに等しい沙棠宮でさえ、そこらの大家より多くの紅人がいるし、ひとが足りなくなるのも、分かるよ」
「それはそうだが、水芳宮と、その防護のための軍の調度まで書き込んだ図片を、どうしようというのだ」
「覚えるんだけど」
静影の口は動くものの、声にはならない。
形を読んで察するに、図を覚えるのと女官になんの係わりが、軍の調度は女官の理家するところではないのだが、というものらしい。
「覚えておいて悪いこともないでしょう。キュウがなにをするか、分からないし。静影にだけ労苦を押し付けられないよ」
長い住口がある。
料想より静かなふたりのやり取りを、士兵たちは不審に思い、動きを止めて見つめていた。
「韶華……俺の労苦とは、なんだ?」
「わけもわからず、キュウに振り回されること」
力強い韶華の答えに対して、紫石の双眸は猛然と昏い影を落とした。
そこはキュウじゃない。と言いたいのかもしれない。
ある意思、それは正しい。
「静影はキュウに思うところなんて、ないもんね。なのに、棠梨とキュウの間を、無事に収めなくちゃいけない……悪いと思ってるよ。だから」
九泉に沈むひとの当前に、蜘蛛の糸でも投げるように、韶華は微笑んだ。
「放心して、静影。杜家のことなんだから、杜家が処理しなくてどうするの。わた
しも水芳宮に行くよ!」
「は?」
のちに甲士らが語ったところによると、その声は、彼らの知る上官の出すものとは思えないほど、絶望に満ちていたという。
***
棠梨国には皇帝が決まった場に来訪する、行幸という儀式がいくつかある。
夏令の正中に行われる行幸は、水芳宮へのもの――仲夏の炎天に倦み疲れた皇帝を癒すため、温泉に入るという儀式である。
ただしこれは、祭祀や政を目的としたほかの行幸とは異なり、ほぼ暇日のようなものだ。
しかも、周密な後宮の陳規から離れ、料の貴賤を問わず、寵愛する嬪妾を随行できる。
と聞けば、歴代の皇帝が、一次たりとも欠かさず行った儀であるのも、もっともといえる。
当代の皇帝陸豊隆に限っては、元妃を亡くしたのち、嬪妾のひとりも持たずにいる。ゆえに、まさしく温泉に浸かりに行くだけの儀というわけだが、そうと信じている者は、あまりいない。
「いやいやいや……そこは信じて欲しいな! 和鴨養生、是到底温泉! それにだね、此次は平常の理由で行くわけではないからね? キュウの使節を迎えるという大事が、主なんだよ?」
「そんな大事の前に、こんなところに来ていて、信じるもなにもないでしょう」
華やかな西街においても、美食で知られる絳雪酒楼の隅で、静影は、弄月という奇人を装う皇帝に冷眼を向けた。
当前で美酒を楽しむ男は、武人たちに固く守られた宮城の内で、キュウを迎える準備をしているはずだった。
それが、都の端で少女と密かに会っている。将として、止めなくてどうする、といった視線である。
「でもさあ……大約で言えば、弄月大人は、お姉ちゃんの丈夫になるひとで、幽会にはならないと思うんだけど」
「ならなくても、姑子が酒楼に入り浸るのは良くない。皇上も、上街は控えて下さい。晨風の小報告がなければ……放過してしまうところだった」
「あれ? 弄月大人、黒風にも言わないで来たの?」
韶華は、問うように首を傾げた。
黒風も晨風も、皇帝のみが動かせる禁軍の武人である。皇帝の意志には、いかなるものでも従う者たちで、弄假する必要は、ないように思われた。
弄月はなにも聞かなかった模倣で、目を逸した。
触れて欲しくない部分であるらしい。
「えっと、まあいいか……聞いて楽しそうな事情じゃなさそうだし。とりあえず、わたしが弄月大人を呼んだんだから、そんなに怒らないでよ、静影」
「そうだよ、静影。まずは呑め。おまえも来たからには客だ」
「そこは皮相だけでも、検討してみせて、弄月大人」
「本意から、検討して頂きたいものです。もっとも、韶華を宮城に呼びつけるよりは、良いのかもしれませんが……」
軽い大息を吐き、静影は旁からそろりと伸びてくる手を拍打した。
韶華は小気と呟いてから、杯を諦め、下物である五香花生を口に放り込んだ。
「静影には、これから話そうと思ってたんだけど、水芳宮に行く歩繁は、もうついてるんだよね」
「なんだって?」
「弄月大人に許しをもらってすぐ、紅女史と商定したの。今天はその経過報告」
片刻、昏い表情をした静影は、猛地で杯をあおった。呑まなきゃ聞いてられない情態らしい。
「皇上……! 韶華の随行を、真にお許しになったのですか」
「そうだよ。考えてもみろ。ただキュウを宮都に入れないだけでは、なんの方策も取らなかったのと同じだ。どこかを突かなければ、彼らの狙いを知ることはできない。それができるのは」
弄月の言に、静影は苦しげな呻きで応じた。
皇帝が動くことはできない。静影もまた、防護の将としての任がある。キュウの間を、気づかれずに動くことのできる者――偵人が必要なのだ。
「確かに韶華は、適しています。父親とキュウの係わりを、外に洩らしたりしないでしょう」
「そう。その点で禁軍を使うことはできない。すまないね」
「いやまあ……」
困らせているのは杜家といえるので、韶華こそ謝りたいくらいだ。
「ですが、止めるべきだと本将は考えます。韶華を見れば、キュウは気づくかもしれません」
「不要担心。扮飾す……無用だと思ってるね? その貌は!」
「いや、まさか!」
どれだけ否定しようと、紫石の双眸が、深い憂慮をもって韶華を見ている事実は変えられない。弄月も後援する言を持たなかった。
「面貌を盛る話ではなくてだな、その……おまえの髪色は醒目だろう。それにもし盛粧によって、杜家の主に似てしまったら、表白ができない」
「盛ると決まってるわけね」
「大兄、さっさと謝っとけなあ。小妹を怒らせたらなー、不妙だから」
話に割り込んできた老板が、静影の肩を叩いた。狎眼しさは、すでに故人の域である。
「そんなに馴染んで見えるのか、俺は……」
「私の連れなら、そういう扱いになるさ」
弄月の口気から、いかに彼が花客であるかが知れる。
肩を落とす静影の姿を見て、韶華の心目は少しざわめいた。
灰心させたかったわけではない。だから無用に謝りたくなる。
けれど、水芳宮への潜入を止めるわけにはいかない。キュウの王族と、父親の間に起こったことを突き止めなければならないのだ。
抛っておけば、皇帝の後妃になる姉の、どんな乱子の原由になるか分からない。妹に、どんな危険が迫っているのかも、分からないだろう。
「お父さんが喋ってくれれば、良かったんだけどね……」
「なにか言ったか、韶華」
「なんでもない」
韶華は静影の郁郁葱葱たる睇視を感じながら、説明を始めた。
「往年の行幸に比べて、膨大な一行となるんだよね。防護には、静影の南衙左領軍だけでなく、北衙禁軍も充当するし、随従も増やすから」
増員が、武人のみならず随従の者にも及ぶのは、離宮にいる者たちだけでは殊方の使節を張羅するに足りず、宮女のほか、雍人や管人を加える必要があったからである。
「だけどね、紅女史も、送り出す宮女選びに迷ってたみたい。お姉ちゃんがいるから、後宮からはこれ以上、ひとを減らせないって。それで提議してみたわけ。わたしが宮女として離宮入りするのは、どうですかって」
ひどく悩んだようだが、紅女史は受け入れた。それは韶華の当初の申し出より、正統にみえたからにほかならない。
初め、韶華は女兵として、一行に紛れ込ませてもらうことを願ったのである。
だが後宮を志する女官は、女兵は后妃を守るものであると申明して、韶華の策を回絶した。
諦めきれない韶華を憐れに思ったか、黙って潜まれるよりは、と考えたのか、紅女史は女官ではなく紅人としてなら可能であると告げた。さらに、同行が釆納されれば、提名するとまで諾言した。
「考えたらさ、探るだけなら、紅人でいいと思うんだよね。女官より動き易いし、そこまで貌を盛らなくてもいいし。それに……将来に後宮の武官を選ぶなら、宮中の做事方法を知っておくのも、悪くないよね」
「おまえ、それは……」
「真面目が露見するかは、気にしなくていいと思うよ。わたしの貌は、お父さんを思い出す提示には、ならないんじゃないかな。いくら盛っても、似るとは思えないし?」
そんなことはないと言えれば良かったのだが。
あるいは棠梨の怪、子への情に凝り固まった妖女である痩せ女に、命の輝きも眩しい少女が、似るはずはないではないか等。
だが男たちにできたのは、敢えて語らず頷くこと。
然して、韶華の離宮行きは、正式に認められることになった。
***
「お父さんのために、いろいろとありがとう」
絳雪酒楼からの帰り、香青路まで送って行くときかない静影を連れて、韶華は家に向かった。
「感謝の辞は、まだ早いな」
静影は蟲牙でも痛むかのように貌を歪め、大息を吐いた。
「まあね……こんな大事になるとは思わなかったよ」
「大事にしたのは、誰だと思っている……」
差錯しようもなく韶華だが、追悔はしていない。
もっとも、和鴨な温泉儀式が正式な外事を為すものと変わって、いらぬ労苦を負うことになった静影には、謝るしかない。
「だけどさ……七上八下してみたけど、キュウはどうして……棠梨に来ようとしてるんだろう」
「我らが一人の大婚に、祝いを述べに。と……皮相は、どうでも良いことだな」
韶華の認真さに応え、静影は数えるように指を出した。
「考えられることは、いくつかある。一、キュウは棠梨の妃について、知りたいことがある」
「そういう考えもあるか……」
「一、キュウはおまえの父親を探していて、ようやく、棠梨に居ると知った」
「それはまあ……今、動き出した理由にはなる、かな」
となると知りたいのは、キュウが父親になにをする打算なのか、である。
「それから」
「まだあるの?」
止められて黙る将の紫石は、韶華も封口してしまうくらいには、真卒だった。
「聞きたくなければ言わない。考えとしては……下劣の品類に入るだろうし、俺も言にするのは、迷う」
下劣。真誠にして正当な静影の使う言ではない。だからこそ、韶華も送料できてしまう。
「静影は……キュウの動きが、北の大国が望んで行っているものではない、かもしれないと、言いたいわけね」
彼が示すのは、棠梨の陰に巣食う、権力への執迷。皇帝が妃を迎える大事に乗じて、謀る者たちの存在だ。
殊方の使節を迎えるのに、北衙禁軍という皇帝直下の軍を出す情状が、それをよく表している。
「彼らがなにを考え、なにを願い、どこで引くか……それを見極めなければならないだろう」
いかにも政、といった言を静影が吐くのは珍しい。
常常、査牙しさが勝ちすぎる紫石の双眸がどんよりと曇るので、当人もそう思っているようだ。
「俺はこういう話に、おまえを巻き込むのは望まない。まだ学生で、庶人なんだから。だいたい、おまえが水芳宮に行くなら、その間、瑠璃はどうするんだ」
「お母さんには、後宮のお姉ちゃんを頼んでるから、お父さんが主持することになるかな……それだけだと労心だから、謝大人にも頼もうと思ってる」
「謝? ああ……まさか、謝元宝?」
一瞬、誰のことか分からなかったらしい。
「そう。老公公の元上司。御史大夫だけど、武人としても知名だって、静影も言ってたでしょ。忙しくなければ、いいんだけど」
退官しているので、難点は暇ではなく、年齢かもしれない。
「晨晨、じゃなくて晨風にも頼む打算だけど、行幸について来るのかな」
「あいつも禁軍で……禁軍を使えるのは、皇上だけ……」
低声の呟きを韶華は不顧した。
酒楼でまだ居ると恣心な弄月を、宮城に連れて帰れと晨風に命じたのは、静影である。
知らず皇太子を同事として役使していた韶華が、言えることでもないが。
(そうだ忘れてた。頼める人物が、もうひとりいたよ)
皇太子――冬栄は、瑠璃に激しく嫌われているが、守るだけなら構うまい。
韶華は静影に、白果舎に去路を変えると伝えようとして、急ぐ声に呼び止められた。
「韶華!」
「あれ、お母さん、今から?」
母親は打手の行が入ったらしく、素な防具を身につけていた。
「すれ違うところだったわね、良かった。わたしはこれから、後宮に行かなくちゃならないのよ」
「分かった。瑠璃とお父さんのことは、任せて」
「それも頼むけれど、紅女史からあなたに、姑旦は後宮に通うよう、伝えて欲しいと言われていて」
「後宮に、通う?」
「ああ……やはり分かっていなかったのか」
棠梨の一人を守る侍衛の将は、純黒の前髪をかき上げ、不審なしわをみせる天弓を露わにした。嘆息の体である。
「なんでしょうね、その不穏な情態」
「自身で言ったことを忘れたのか? 宮中の做事方法を知っておいても、悪くないと」
「言ったけど」
「固然、覚えるだけなら、おまえは易易とこなすだろう。だが、宮城で仕える者として実地で動くのは、長棒を振り回すのとは違うぞ」
静影に同意するように、母親が大きく頷く。
「紅人には、より厳しい管教がある。武官の鍛錬が、軽く感じられるほどのな」
「は?」
庶人として自由自在に生きてきた少女が、これより宮中で課せられるもの。
それを思うと、ただ、大息が洩れた。