申請期日之一
「なんだか雨が降りそう……」
ひとの賑わう大路から、薄灰色の雲へと目を移し、韶華は小さく呟いた。
上着の袖や、脛衣の裾が湿りを含んで身にまとわりつくのも、じきに雨天となる証拠である。
「韶華は雨が嫌い?」
そう問いかけてみた朱蕣だが、妹の顔が嬉しそうなのに気づいた。
「いやだなと思う日もあるよ。まあ、今は雨を待ってるんだけどね。でも……」
韶華はちらりと姉を見た。
今は府上に向かっている中途だ。后妃にならんと申請する日に、泥で汚れた姿を晒したくない。館第から地に足をつけずに輿に乗れるような家ではないので、せめて着くまでは晴れていてもらいたい。
同じことを考えたのか、朱蕣が少しだけ裳裾をつまみ上げた。
「今日を第一と考えなくても良いと思うわ。当人に来させるのは、令聞が全くの嘘でないことを明らかにしたいだけでしょうから」
「そうだと良いな。それならお姉ちゃんに利があるしね」
韶華に応じて、朱蕣は斜めうつむき傾向で丹花に笑みを乗せた。
しっとりと朝露に濡れ、白磁の花弁を輝かせた百合の如き姿。それは、道行く男たちを振り返らせ、恍惚とさせる。
杜家の長姉の名は、咲き誇る酔色の木槿を美女の貌にたとえたものだ。花期の短命さを嫌い、名づけに相応しくないという者もいるが、彼女を見た男こそ、赤に変わり命を減らしている。
ふたりほど前方不注意で転んだのを見届け、朱蕣は口許を恥ずかしそうに袖で覆う。揺れる矩歩が、男たちの最後に見たものになった。
(うむ、我が姉ながら完璧……)
似ていなくていいやと思うくらいには、魔性である。
韶華は追って歩き出そうとして、先にあるひとだかりに気づいた。
「あら見てよ、韶華! あそこで大減価をやってるわ!」
「好好! ……って、そんなわけあるか!」
駆け出した姉を韶華が止める暇はなかった。つましい生活を心がけ、そのために節約に秀でた佳人は、減価の字にすぐ引き寄せられてしまう。
それも利となることもあるが、ただ、目の前に見える群れは店頭に集まるひとではなくて、府上にやってきた――考試申請の女たちである。
敵手に習気を明かしてはならんと韶華が思う間に、朱蕣は玉女たちに紛れて見えなくなった。
「お姉ちゃ……」
彩衣が、金襴が、揉み合い絡まる。笄と花飾りも乱舞して、乱子の激しさは増すばかり。熱狂から脂粉の匂いも濃くなると、女たちには息さえできない者もでてきた。
「なにするの、痛いじゃないの!」
「止めて押さないで。使丁! あたくしの使丁はッ?」
「小姐、小姐! 返事をなすって下さいまし! どこにいらっしゃるのですか」
「あッ、踏まないでー!」
「お……姉ちゃんどこっ? ちょっと退いてー退いてってば。なんでこんなにひとが……って、わたしみたいな随従してるひとがいるせいだけど!」
こうなると、韶華ひとりでなんとかできるものではない――白粉の匂いに咳込みながら、女たちの塊から一旦離脱することにした。これが真の大減価であれば、大敗である。
「なんかこう……狼の群れみたいな?」
「下がりなさい! 下がりなさい! 聞いて、まずここに名を填写……」
官方のものらしき叫びと、帖子の破られる音が響いた。
「なにか当たったわ!」
「嗚呼……嗚呼……誰かー……」
「嫌あっ、踏んじゃった!」
埋もれた濁った声は徐々に小さくなり、ヤメテヤメテと冥鬼の押泣くようなものに変わって、やがて女たちの怒声にかき消された。
(押し潰されてなければ良いね……)
おそらく各地の府上でこれと同じ光景が繰り広げられている。
皇城の官吏が事態を想料しなかったとは、思いたくない。守兵だけでなく、南衙軍から差遣された刀剣や矛を持った介士もいた。
しかし彼らは悪人と対峙するには慣れていても、熱狂した女たちの扱いなど知らないわけで、ただ白徒のようにつっ立っているだけであった。
立ち尽くしているのは、韶華もだが。
騒ぎが収まるまで待つか、と大息を吐く韶華の足許に、男が這い出してきた。辛うじて潰されずに済んだ官方だろう。
「これがっ、これが若くして知名を得た一人の、妃になりたいという女たちの振るまいか。どいつもこいつも難がありすぎるッ!」
「そんなこと言われても……」
呟きを聞き咎め、男がきつい視線を韶華に向ける。涙が泥を混ぜて筋を描き、南方の呪いの面のようだ。
「制限を設けないから、ほら見ろ! 小児が考試を受けるつもりになっているじゃないか。こんなの笑話だ」
「笑うなら、王先生の顔でしょうよ」
「なぜ私の名を……!」
「それを訊く?」
姓など王か李か張のどれかで呼べば、当たるものである。
押し黙る韶華の前、男はよろよろと立ち上がり、いきなり頭越しに吐き捨てた。
「こんな不細工にまで、請われたら受けさせねばならんとは、忍耐不在!」
「言うじゃない、この呪法面具!」
「呪……面、だと」
「泥中の蛙って言われたい? 府上勤めだからって偉そうにしないで」
「嘆かわしい! どんな育ちをしたら、こんなに拗けるのだ! いいか、后妃にな
れるのは、元妃であられた徐小君に優らずとも劣らぬ佚女のみ! おまえのような小人は試すだけ痛っ」
男は韶華に蹴られた脛を押さえ、うずくまった。
「もう止めておけ」
よく響く声とともに、韶華と男の間にすっと影が入った。