招来融風之二
「これ、もらうつもりは、なかったんだよ。平常なら、望舒党の失物は手にしないし。わたしが冬栄先生を輔助する時は、先に花零銭をもらうんで。這回はちょっと時間が短少で、誰に宛てるか指南できなかったから、貧窮っぽい家に草率に配られちゃったんだよね」
静影から返ってくる言はない。聞いては、いるようだが。
寛心になるかは分からないが、韶華は表白を重ねた。
「詳しく言えなかったけど、これ、沈家の敗家子のために貯められた納賄なんだ。鬼混の元になるだけなんたから、世を正す望舒党の狙いとしては、間違ってないと思う……もう賭事と酒に使うものがないんだから、朝四暮三男も、少しは正色になるでしょう」
すとん、と椅子に座り直す棠梨の将は、まだなにも言わない。
「静影……聞いてる?」
純黒の髪が微かに揺れた。頷いた、のかもしれない。
「あの……なんだったら、同伴のひとには望舒党のこと、言ってもいいよ。悪いのは静影じゃないんだし……」
「言えるかッ! 言えるわけがないだろう。あれが沈家の納賄であり、殿下が幕後であり、俺が知ってて助けたなど、言ってどうなると思う」
前髪の影のため、哀しげにさえ見える紫石の双眸が、韶華を捉えた。
「巻き込んでごめん……静影は、なかなか出てこないわたしを気にして、来てくれたんだよね。わたしも、李潭を連れて帰るだけのつもりだったし、すぐに出られると思ったんだけど」
銀両については、韶華はあの時、静影が入ってこなければ、院子に函を置きっぱなしにして、あとで取りに行かせる打算でいた。家の息子が内奸として使えるのだから、慌てる必要がなかったのである。
静影が来て、さらに同伴がいると知ったことから、乗便に処理してしまおうと考えたのだが。
「配合なんかしないで、知らない振りすれば良かったのに……」
「できるか、そんなこと」
「そうなの?」
「まあ……いや、なんというか、おまえを抛っておくのは、怖いんだ。懸索橋を揺らす狙を見つけてしまったような、崖下に飛び込みをする者の縄が、井然と弾むか確かめたくなるような感じで」
「そうなんだ、そう思ってるんだ。わたしは静影といると、楽しいかなあと思っているんだけど」
「疑問に聞こえなくもないが……」
韶華が憤るのを見ながら、静影は大息を吐いた。
「とりあえず、しばらく怪しい動きはするなよ。皇上がいない宮都を騒がせたら、いかに俺とて見逃すことはできないからな」
「もう望舒党は、終わりにするから……冬栄先生のした預告は、目的とは違ったけど済ませたし」
「それなら良いが……今はまだ、左丞相の動静も気になる。泰平そのもの、といった情態なんだが……なんというか、あのような息子がいるとは知らなかったな。沈家の息子ならばふたり、尚書省かどこかにいたはずだが」
「貢挙に登科しなかったから、隠してるとか……そう考えるのも、悪いか」
「あそこが沈家の別邸であるのは明らかだから、隠しているわけではないな。夜察の話にも出なかったが……それでだな、韶華。どうして夜察が来ていると知っていたんだ。その答えを聞いていない」
「黒風が教えてくれたんだけど。会わなかった?」
言って韶華は追悔した。静影の面色が変わっている。
当然である。禁軍が左丞相の館第に侵入する、それだけで風波を思わない者はいない。武人である静影なら、なおさらだ。
「あいつは……なにをしていた?」
静影の問いに、弄假することも考える。が、それでは、これからずっと偽ることになる。だから答えた。
「封信……というほどでもない篇子を取りに来てた」
「盗ったのか?」
「準許があったとは思えないから、盗んだことになるね。少なくとも、それを捜してたのは間違いない。読むなって言われたから、あのひとは、内容を知ってるんだよ」
「沈家で、なにを捜してたんだ……」
「描き出そうか?」
紫石の双眸が、幼い子どものように丸く、緩んだ。
「わたしの小技……忘れてない?」
読む必要はない、と言われた。しかし、ただ一瞥。それだけで韶華には充分なのだ。
愛用の小筒から筆を出し、大きな空白のある描き損じの臥遊図を拾う。
そして、韶華のしなやかな腕が、動き出す。迷いもなく。
一次見て写し取ったものの巧妙さや、正確さは静影も知っている。ただ、韶華が書くのは、初めて見た。
剣舞のような。あるいは、楽器を演奏しているような。
決して大仰ではないが、どこにも留まらない、雲のような動き。
流れる線の強弱と、溌墨の表すものが、紙上に顕現する。
「なんで字を、逆から書けるんだよ」
「だって、見た向きが逆だったから、さあ……」
書きながら韶華は頬をふくらませた。
重重と紙上に顕れる、逆さの字。韶華自身も、古怪だろうなあと思うのだから、まして、見ている者は。
しかし、これにはやむを得ない事情がある。一瞥する字は、正面からとは限らない。それ以外においては、韶華は字を図絵として覚えているのだ。
ただし画として覚えた字は、内容を掴むために、韶華ももう一次、読み直す必要があった。
頭の内でできなくもないが、それには少しだけ時間がかかる。描き出してから見直すほうが、早い。
韶華の動かす筆を見ながら、静影はそれを読んでいた。対面から読めてしまうのは、やはり神奇としか思えないが、炙り出されて行くような字は、好方便だった。
韶華より先に内容を知れるだけでなく、文末を察して、紙片を取り上げることもできる。
「これ……借りるぞ」
「待って、まだわたしが読んでない!」
「すまない。おまえには、読んで欲しくないんだ。どうしても読みたければ、また書いても構わない。が……できるなら、忘れて欲しい」
韶華は、静影の真誠な質を少しだけ恨んだ。
読ませたくない、と直心に言い切る。けれど、韶華の読みたいという心境も許してくれる。
そんなことをされたら、忘れることはできないまでも、読まないでおこうという気になる――ならなくては、いけないような気がする。
「わたしには、係わりのないこと?」
韶華にできたのは、そう問いかけることだけだった。
紫石の勝ちすぎる双眸が、偽りを排した認真さで見つめ返した。
「ない。おまえの令姉についてでも、ない。これは……もっと古い話だ……もう、知ったところで、どうにもならないといった品類の」
「それなら……静影に言われた通り、読まない」
韶華が答えると、ありがとうと小さく返された。
(狡いなあ……)
武人の声調から読み取れるものは、複雑すぎる追悔で、知らない振りをするのは難しい。なのに訊いてはいけない。係わって欲しくないという。これを狡いと言わずして、なんと言うのか。
だが韶華も、静影に言っていないことがある。黒衣の男が告げた、幼い妹を張望するという、不穏を。
「あのさ……ちょっと言いたいこと……」
「韶姉! あいつ、弱すぎィ!」
がたん、と戸が開いて、景景が飛び込んで来た。得得な永児も、それに続く。
「だから猛然と入るのは不行儀だと! というか、誰が弱いのよ」
「晨晨!」
「綽名がついてる! って、弱いんじゃなくて、あんたたちが弱すぎるから、どこまで力を緩めていいか、分からないだけでは?」
勉勉強強な禁軍なのである。外行の小児に弱いと言われるのも、演技のひとつ、かもしれない。
「でも遅いんだよ、応じるのが。単方面にしか担心してないし、景景と打ち合ってる間に、ぼくが背面から突いたら、思いっきり当たっちゃった」
「ふたりがかりって、卑怯な」
「ええ……だって杜大娘が、そうしろって……」
「お母さんってば……」
打手の武に、正しさはいらない。とはいえ、それは指導教育としてどうなのか。後宮の女兵についても、若干の不安が生じた。
「それでその……晨晨は?」
「痛そう」
代わりを押し付けた韶華の胸も痛む。黙って櫃から薬を取り出した。
「晨風が休む間は、俺が対手を務めようか」
「大哥、いいの? オレ、武挙を一心一意してるからな?」
「武挙か……分かった。鍛錬すれば、叶うだろう」
静影が笑う。韶華にはあまり見せない、清秀とした表情だ。
やはり小児には、優しい。
「わたしが武挙って言ったら、真的か疑ったのにさあ……いいけど。瑠璃、輔助してくれる?」
路に転がり、短気した少年を見下ろす季児に呼びかけた。
嫌いと言った人物ではあるが、ふたりの悪童に欺負められ、可憐に思っているのだろう。
「韶姉……筆、貸して? 瑠璃、書いてみたい」
「は? なにを?」
瑠璃の大きな青い瞳が、陸離している。これは同情の貌ではない。
「流行ってるんだよね? 負けたひとの前額に、馬虎男って書くの。玉門楼の小姐たちが言ってた!」
「いや、絵身なんか流行ってな……」
欠佳な疑いが、韶華の内心で静かに頭をもたげた。
玉門楼は藍雪路の妓楼である。そこで妓女たちは、流行っていると思うほど絵身の男たちを見たのだ。
藍雪路は、公にはできない賭場があることで知られている。
「あのっ……敗類、懲りずに行ってるのかッ!」
「瑠璃も敗類って書きたい!」
韶華が叫ぶ旁で、楽しげな幼い声が上がる。応じて、少年たちが一斉に前額を押さえた。
静影は韶華の怒りの理由を察しつつも、このままでは幼い少女に絵身されてしまう少年のために、名誉回復を試みた。
「瑠璃……晨風は真卒だから、敗類は許してやってくれ」
「静影哥哥が言うなら……止める。違うのにする……」
書くことは、決まっているらしい。
泣きそうな晨風をよそに、幼子は腕を組んで、愛らしく唸ってみせた。
「晨晨だもんね……じゃあ……とり? 鳥人!」
鳥人。それは、地面に脚のついてないひと。
すなわち、大愚人。
僅かな間を置いて、静影は嘆息した。杜家の姉妹は、正しく学ぶ必要がある。
「瑠璃、早く学堂に行って、読書しような。韶華も大学で読書するから、負けないように」
「うん! 瑠璃、読書する!」
はしゃぐ幼い少女は、絵身から興趣を失ったようだ。童となるを逃れられた少年たちが、涙眼でいた。
***
回家する瑠璃と小児らを晨風に任せ、韶華は静影とともに、白果舎に向かった。老板に話があると言われていた。
急ぎらしいが、ふたりの歩みはのんびりとしている。地表に落とされた炎陽の熱を踏みながら、韶華は並ぶ影に牢騒していた。
「静影は独子だけど、小児の扱い熟練してるよねえ。もう少し、その優しさの范囲を広げてもいいと思うんだけど?」
「なにを広げるんだ。それに、どうして独子と知って……ああ」
大きな影が肩を落とした。
「情報の元は、俺を騙った鹿追偵人の封信か……」
「うん……ごめん。静影が話してないことを知ってるのって、やっぱり不愉快?」
「いや、知られて困るよう生活はしていない。ただ」
「え、じゃあやっぱり、美人を佳日に誘うのに悩んで……?」
「そういう差錯があるから! 信じないで疑いを持って、俺に一次訊いてくれ! と言いたかったんだ」
「わ、分かった。じゃあ、えっと確かめるけども……好みの身段は?」
「韶華? それ、書いてあったか?」
「ないけど、尋ねたのに答えてくれないから、わたしは欄目に書けな……」
かったんだよと言ってしまうと韶華がなにをしていたか露見してしまう。
突如封口する韶華を、静影の紫石が見下ろした。
「ワタシは、欄目に、書け……?」
「ワタシハ欄目ニ書ケナクナラナイヨウ……ええと」
「そもそも、欄目とはなんだ」
話はそこからですかと思いつつ、韶華は話題を変えるものを探した。
恋愛指南の欄目というモノを、解釈するわけにはいかない。偽静影が、なにを求めて投稿していたのかについて詳しく話すのも、韶華が答えとして書いていた内容を語るのも、してはならない。
救いは書肆の牌子の旁に居た。老板が難しい貌でふたりを待っていた。
「あっ、白公公。待たせてしまいましたかどうもどうもっ」
「冬栄からの知らせが来ている」
それだけ言うと、老人は書肆に戻った。
韶華の知る老板の情態としては、古怪なものである。待っているなら、封信をこの場で渡せばいいし、肆中で渡すつもりなら、外で告げる必要はない。
静影もなにかが違うと察したらしく、韶華を庇うようにして先に入った。
「黒風……!」
怜悧な旁瞼より、苛烈な目光が印象に残る黒衣の男。禁軍の将が、積まれた書籍の向こうに居た。
「方才、詮議が終わった。だから先に告げておく」
短い言だった。
だが、そこに含まれていたのは、これは本分ではないのだという情性だった。
棠梨に祝ぐ儀ありて使節キュウより至る。
一人行幸に同じて燕するを望む。
よりて南衙左領、北衙飛騎を侍して水芳宮を迎宮となす。
不久、万世は以上の勅を聞くことになる。
居心を知る者は少ないが、それは、北の大国キュウを宮都から引き離す策が成ったことを示す。
そしてまた、別の居心が生じたことを知る者も、少なかった。
「捜せ」
遥か北の地において、ようやく咲いた棠梨の花だけが、それを聞いていた。
第二部了