表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/117

発覚之三

 母親と女兵たちの脚歩音(あしおと)が、海棠(カイトウ)宮から去ってゆく。

それでも韶華(ショウカ)は、残る気息(けはい)朱蕣(シュシュン)のものだけとなるまで、(きざはし)の下で息をひそめていた。

 女官たちは、ひとを迎えるために昭彰(ショウショウ)殿に行っているので、ここにはいない。僅かに残る太監たちも、やがて(へや)から辞するはず。韶華はそうなるまで、待つつもりでいた。

 心事(もんだい)は、階の下に隠れている韶華に気づいてくれるだろうか、ということ。

 誰にも聞かれたくない、もっと正確に言えば、姉妹で話している姿も見られたくないので、こんなところに居るのだが、深間(スパイ)の模倣など軽易にするものではない。望舒(ボウジョ)党として館第に忍び込むほうが、楽な気がした。

「やっぱり少し……寂しいのかしらね」

 静かな姉の声が、真上から響いた。

 階の側に来てくれたのは助かったものの、洩らす言を聞くと、胸が痛くなる。

(やっぱり寂しいよね。いきなりここで、ひとりだけで過ごすんだもんね……)

 だが、皇帝の寵を争う女たちが、ひしめき合っているよりは良い。

 そう思うのも、韶華だけかもしれないが、今は姉に向けて、そっと声をかけた。

「お姉ちゃん」

「韶華っ……? 下にいるの?」

 階の下から呼ばれると思っていなかったようで、朱蕣の辺りを見回す動きが、伝わった。

「驚いた……いつ来たの。お母さまだったら、方才(たった今)、帰ったところよ」

「知ってる。迎えに来たわけじゃないんだ。だから隠れてたの。今天(きょう)のお母さんは、早めに帰るって言ってたから」

 秘密の話ができると思って。

 と、韶華の言わなかった部分を読み取り、朱蕣は階の(わき)で、外を眺める振りをした。

 後宮の美しい院子(にわ)を見る美女。咲き誇る花々と、さえずる小鳥を愛でる姿は絵画のようで――

「不自然だわね……」

「まあ欠妥(ムリ)だよね……暑いし」

 炎天にへたりかけた緑に花はなく、動くものの姿もない。鳥たちも飛ぶ気になれないのだろう。いつも端を奪い合っていた石榻(ベンチ)は、僅かな木影さえもらえなかったせいで、承面(座面)で卵が焼き上りそうなくらい熱せられている。

 これでは院子をのんびりと眺めているだけで、なにかあると思わせてしまう。でなければ、炎毒(しょきあたり)恍惚(ぼんやり)としていると思われ、医者を呼ばれてしまうだろう。

 影にいる韶華ならば涼しい――と思いきや、陽が当たらないだけで、どこにいようとじわじわと汗にまみれ、不快なことに変わりはなかった。

「えーっと、こんなだから早く(よう)を済ますね。静影(セイエイ)によると、お父さんがキュウの王族の不妙(マズ)い話を知るひとであることは、不錯(まちがいない)っぽい。問い詰めようとは思うんだけど、書院から出てこないから……準備もあるし、分かるのは、もう少しあとになると思う」

 韶華の不審を察してというより、まだ小説の期日(しめきり)があるらしい。

 そのあたりの苦しみは、韶華も知らないものではないので、割り込むようなことはできなかった。

「お父さまは、やっぱりキュウと係わりがあるのね……それは、ほかに誰が知っているの?」

弄月(ロウゲツ)大人も知ってる、はず? ただねえ……」

 静影が支吾(はぐらか)した言からすると、父親は『書いて』しまっている。そしてそれは、あの太ましい男の(みせ)で出版されているに違いなく、

(キュウの不妙(マズ)い話っていうの、書籍として棠梨に広まってるよね……)

 家境(くらし)を思うと、そこまで売れていないのではないかとも思うが、そもそも、知られて困るようなことを、自身(じぶん)から(あき)らかするような愚かさは、父親にはないはずである。おそらく。

「皇太子さまは?」

 思わぬひとに話が及び、韶華は首を傾げた。

「冬……殿下は、杜家(うち)の事情に興趣(きょうみ)はないんじゃないかなあ。大婚(天子の婚礼)については、かなり担心(しんぱい)してるようだけど」

「話してないのなら、いいわ。いずれ、話すことになるでしょうけど……」

 姉の言に含まれるものを感じる。それは、姉妹だけが感じる預感のようなもの。いずれ『最も適した天時(とき)』に突きつけられる(ことば)刀口(やいば)だ。

「お姉ちゃん……用度(てかげん)してあげてね……」

「分かっていてよ」

 階に隠れていては、朱蕣の貌に浮かぶ笑みは見えない。だが、見えなくて良かったと思うに違いない。

 韶華は『いずれ』が今天と知らないまま、冬栄(トウエイ)の幸運を祈っていた。


***



 僅か先の後宮で、自身の幸運を祈られているとも知らず冬栄――その身に頂いた名は隆昌(リュウショウ)――は、待っていた。

 棠梨の世子(よつぎ)を待たせることができる者は、ごく僅かだ。皇太子の位にあれば、待たせることはあっても、待たされたりはしない。

 しかし昭彰殿に入れば、位とは係わりなく、男は待たねばならない。皇后が支配する宮殿は、後宮に似た別の条理(ルール)に従って動いている。

 とはいえ皇后どころか、(あるじ)となり得る妃さえいないのに、彼はひとり、待たされていた。

 心煩(いらだ)っても古怪(ふしぎ)はないが、宮都で庶人として扱われた経験が、冬栄の忍耐を培っていた。宮城において、(かしず)かれるだけの彼が、どれほど甘やかされているか、思い知らされたのである。

(おも)に、杜韶華によってな……」

 庶人の少女は冬栄を一次(いっかい)見るなり、大家(かねもち)郎子(ぼんぼん)として扱った。それは驚くほど無状(ぶれい)な扱いで、開首(はじめ)はひどく腹を立てた。

 冬栄も、内侍(うば)たちが服従するだけの者と分かっている。ただ、(ジョ)家ではそれなりに厳しく管教(しつけ)られたはずだ。それは、同じ育ちをした静影という男を見れば、分かることである。

 その静影が武挙(ぶきょ)を通るとともに、冬栄も宮城に戻った。そしてまだ少年だった彼を、(コウ)女史を始めとする女官(じょかん)たちは成人(おとな)の東宮として遇し、早くから子どもであることを許されなくなった、と思っていた。

 そんな幻想を、少女は容赦なく打ち砕いた。

 棠梨に珍しい焼栗色の髪と、華英な目光(まなざし)の理智的な少女は、青冥(あおぞら)に清涼な楽を響かせるような声で、冬栄という假につけた名を呼ぶ。

 賭気(いじ)になって始めた義賊の做法(まねごと)に、白果(ハクカ)舎で知ったあの驚嘆すべき才能で、配合(きょうりょく)することを惜しまない。

 (せいかく)に難がないとは言わないが、凶狼姉だの幽明自在(神出鬼没)少女だのと呼ばれているが、杜韶華という人物と出会ったことを、冬栄は天に感謝している。その姉が継母になる事実を、まだ、どう思うべきか悩んでいるけれども。

 微かな音を捉え、回神(はっと)した冬栄は、隆昌として装腔作勢し(まじめをよそおっ)た。

 仙女の如きなめらかな矩歩(あゆみ)が、迎賓の間に入る。向導(あんない)の太監は、すぐに下がり、ふたりだけになった。

「殿下、ご光臨の栄を賜わりました、杜朱蕣にございます」

兒臣(わたくし)陸隆昌(リク・リュウショウ)もまた拝謁を許されることを願い、今天に至り、ここに(まみ)えましたことを、お喜び申し上げます」

 どちらも対手(あいて)を上げ、自身を下げての拝礼(あいさつ)だが、互いに客套(たにんぎょうぎ)以上の探り合いを感じている。

 ふたりが当面(じか)に会うのは初めて。どころか、姿を見るのさえ初めてだった。

 しかし、対面に坐してみれば不由得に(なんとなく)懐かしさを感じる。それは、朱蕣は皇太子に弄月の、冬栄は杜家の長姉に韶華の影子(おもかげ)を見たからだが、それぞれ肖似(そっくり)というわけではないので、ただぼんやりとしか掴み取れなかった。

 探る刻を打ち切ったのは、朱蕣となった。

 思うところの多かった冬栄に比べ、朱蕣は己の為すことに集中していた。冬栄が当先(まっさき)に思ったのは、韶華と似てない美人な姉だな、であるから、なおさら理解が遅れていたのだ。

 朱蕣の羞じらいを含む言が、丹花(くちびる)からこぼれた。

「お会いできて良かったわ。でもまだ正式な対面ではありませんもの、ここでは、冬栄さまと呼ばせて頂きますわね」

「冬っ……なぜにその名をッ」

 冬栄の面色(かおいろ)一下子(いっき)に失せてゆく。

 佳人がくれるのは秋波(エンディアメント)ではなく、危急存亡之秋(エンデンジャード)であった。

「そんなに驚かれると、困ってしまいますわ。本主(わたくし)も、ここでは、いろいろと知らなくてはいけないことがありますから、冬栄さまの関心(こころづかい)には、感謝しております」

「かような(オコトバ)、い、痛み入ります。兒臣は、なにをしたというわけでも……ありませんが……」

「そのようなことを、仰らないで。これからもお願いしようと思っていますのに」

「承りまして……ございます」

 冬栄は小さく応じた。鈴を転がすような美しい笑い声が、邪鬼の鑼鼓(ドラムロール)に感じる。

 思えばこの会見は、朱蕣が申し入れたものである。美貌の女人は言いたいことがあって、冬栄を呼んだのだ。当たりの尖刻(キツ)さは古怪(なぞ)だが、無用な偽りを凝らすつもりのないことだけは、明らかだった。

「兒臣にできることであれば、なんなりとお申しつけ下さい」

「そう言って下さると、思っておりました。殿下、お尋ねしたいのですが、行幸の間は、宮都で政は行われないのですか。官人の務めは、そのままと聞いておりますけれど」

「行幸は、皇上に寛いで頂くのが目的ですから……兒臣が宮都を預ることになりますが、その間の官人たちの本分(しょくむ)も、重要なものは多くありません。万世(たみ)に係わりのある政務ならば、一行がお戻りになられてからですね」

「では……殊方(がいこく)からの使節は、殿下がお迎えになるのですか?」

 冬栄の流利(なめらか)な回答は、そこで途絶えた。

 夏令(なつ)の行幸は、棠梨の往年的儀式(れいねんぎょうじ)である。平素(いつも)なら、すでに準備は終わっていなければならないが、(いま)小半(はんぶん以下)といったところまでしか進んでいない。

 遅れた理由はただひとつ、大婚という慶賀が、割り込んできたためだ。

 それでも棠梨の内側だけの話で済めば、それらしい処理をしただろう。

 まさか、キュウが使節を寄越すとは、送料の外(よそうがい)。遠い北方の国のことであれば、祝辞は書簡で済ませるものと考えていたのだ。

 彼らを皇帝が迎えるべきか――達官(だいじん)たちの間でも見解は割れた。否、まだ割れたままなのである。

 朱蕣が俯き、嘆息した。

「殿下、その結舌(ちんもく)が、答えなのですね。殊方の使節に対しては、皇上の拝謁だけが正しいと言う者と、殊方ならば東宮で充分と言う者がいる……それは礼法を封面(たてまえ)にした、帝位を志向する(のぞむ)者たちの争いで……殿下が使節を迎え、世子であると知らしめることに、難を表す者がいるという意思(いみ)。違いますか?」

「貴女は……どこまで知っておられるのか。杜韶華が言ったのですか」

「いいえ。妹には宮中の乱子(もめごと)など、知って欲しくない……でも、これから知ることになるでしょう。あなたの照料(せわ)をする間にね。わたしは妹が天黒(ひぐれ)から忙しそうなのを、ずっと怪しく思っていたのだけれど、理由が分かってほっとしましたわ」

 言とは逆に、表情は全く放心(あんしん)していない。口許に袖を当てた美女の睇視(よこめ)は、冷戦(みぶるい)するほど酷薄だった。

「月の使いだなんて……させられてたのかしら……?」

「違うッ。あれはっ……強制はしていない。それに望舒党は、目的があって行っていることだ。どう思われようと構うものかッ」

「あら完美(ステキ)

「皇上に言いたければ、言うが良い」

真誠(せいじつ)なのね」

「露見すれば……妹、杜韶華も罪に問われるかもしれないぞっ」

「いやだわ、妹妹は幼弱な少女なのよ。どうして館第(おやしき)に忍び込んだり、盗んだりできるというの?」

幼弱(いたいけ)っ? 杜韶華が? あの少小な(ちまっとした)娃娃(幼女)に言うならともか……」

瑠璃(ルリ)を泣かせたそうね」

 尖らせた氷雪に穿たれるが如く、朱蕣の藐視(冷えびえとした目)が冬栄に向けられた。

 ここにきて了了(やっと)、冬栄は自身への当たりがきつい理由を覚察した。杜家で溺愛されている幼子については、韶華から聞かされている。ただ、偶然出会った幼子が、そうと知らなかっただけ――小女(はしため)と思い、厳しい説法(いいかた)をしてしまっただけだ。

 今となっては、そんな借口(いいわけ)など無用のものと知る。

「そうそう、殿下にひとつ、頼みがあるのですけど……聞いて下さいますか」

 聞く以外に、冬栄にできることはあろうか。

「殿下、殊方からの使節は、正式に棠梨を訪れるのですから、やはり正式にお迎えしなければならないと思います。ですが、皇上のいらっしゃらない宮都では、正しく迎えたとは言えません。しかもこの(きせつ)です。甘棠(カントウ)で過ごすのは、辛いのではありませんか?」

 朱蕣が微笑みを浮かべた。

「皇上とともに、行幸の宮で暑さを避けては、いかがでしょう」

水芳(スイホウ)宮にキュウを呼ぶと? いや、それは……」

 不料(いがい)に悪くない考えである。

 怯えていた身躯(からだ)に仄かな灯りが点る。冬栄は、使節の来路と行幸の路程(ルート)を内心で比べつつ、黙り込んだ。

 彼に韶華のような才はないので、直截(そくだん)はできない。記得(きおく)を頼りに、考える間が必要だった。だが。

「考えなくても良いと思います」

 清楚(はっきり)とした朱蕣の言が返ってくる。美人の言う「いかがですか」は、そうしろという命令なのだ。

 冬栄は迷いを残しつつも、承諾の意を示した。

 朱蕣になんらかの目的――キュウをなんとしてでも宮都から離しておきたい、という居心(いと)を感じるものの、北方の大国を不備(むぼうび)に迎え入れたくないことについては、冬栄も同じ。

 そもそも、当前(めのまえ)にいる女人に抗うという選択など、ないのである。

 冬栄にできるのは、キュウを行幸に連れ出すという詮議を、なんとしてでも通すだけ。自身の肩にかかった圧を、考えないようにすることだけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ