発覚之三
母親と女兵たちの脚歩音が、海棠宮から去ってゆく。
それでも韶華は、残る気息が朱蕣のものだけとなるまで、階の下で息をひそめていた。
女官たちは、ひとを迎えるために昭彰殿に行っているので、ここにはいない。僅かに残る太監たちも、やがて間から辞するはず。韶華はそうなるまで、待つつもりでいた。
心事は、階の下に隠れている韶華に気づいてくれるだろうか、ということ。
誰にも聞かれたくない、もっと正確に言えば、姉妹で話している姿も見られたくないので、こんなところに居るのだが、深間の模倣など軽易にするものではない。望舒党として館第に忍び込むほうが、楽な気がした。
「やっぱり少し……寂しいのかしらね」
静かな姉の声が、真上から響いた。
階の側に来てくれたのは助かったものの、洩らす言を聞くと、胸が痛くなる。
(やっぱり寂しいよね。いきなりここで、ひとりだけで過ごすんだもんね……)
だが、皇帝の寵を争う女たちが、ひしめき合っているよりは良い。
そう思うのも、韶華だけかもしれないが、今は姉に向けて、そっと声をかけた。
「お姉ちゃん」
「韶華っ……? 下にいるの?」
階の下から呼ばれると思っていなかったようで、朱蕣の辺りを見回す動きが、伝わった。
「驚いた……いつ来たの。お母さまだったら、方才、帰ったところよ」
「知ってる。迎えに来たわけじゃないんだ。だから隠れてたの。今天のお母さんは、早めに帰るって言ってたから」
秘密の話ができると思って。
と、韶華の言わなかった部分を読み取り、朱蕣は階の旁で、外を眺める振りをした。
後宮の美しい院子を見る美女。咲き誇る花々と、さえずる小鳥を愛でる姿は絵画のようで――
「不自然だわね……」
「まあ欠妥だよね……暑いし」
炎天にへたりかけた緑に花はなく、動くものの姿もない。鳥たちも飛ぶ気になれないのだろう。いつも端を奪い合っていた石榻は、僅かな木影さえもらえなかったせいで、承面で卵が焼き上りそうなくらい熱せられている。
これでは院子をのんびりと眺めているだけで、なにかあると思わせてしまう。でなければ、炎毒で恍惚としていると思われ、医者を呼ばれてしまうだろう。
影にいる韶華ならば涼しい――と思いきや、陽が当たらないだけで、どこにいようとじわじわと汗にまみれ、不快なことに変わりはなかった。
「えーっと、こんなだから早く事を済ますね。静影によると、お父さんがキュウの王族の不妙い話を知るひとであることは、不錯っぽい。問い詰めようとは思うんだけど、書院から出てこないから……準備もあるし、分かるのは、もう少しあとになると思う」
韶華の不審を察してというより、まだ小説の期日があるらしい。
そのあたりの苦しみは、韶華も知らないものではないので、割り込むようなことはできなかった。
「お父さまは、やっぱりキュウと係わりがあるのね……それは、ほかに誰が知っているの?」
「弄月大人も知ってる、はず? ただねえ……」
静影が支吾した言からすると、父親は『書いて』しまっている。そしてそれは、あの太ましい男の肆で出版されているに違いなく、
(キュウの不妙い話っていうの、書籍として棠梨に広まってるよね……)
家境を思うと、そこまで売れていないのではないかとも思うが、そもそも、知られて困るようなことを、自身から明らかするような愚かさは、父親にはないはずである。おそらく。
「皇太子さまは?」
思わぬひとに話が及び、韶華は首を傾げた。
「冬……殿下は、杜家の事情に興趣はないんじゃないかなあ。大婚については、かなり担心してるようだけど」
「話してないのなら、いいわ。いずれ、話すことになるでしょうけど……」
姉の言に含まれるものを感じる。それは、姉妹だけが感じる預感のようなもの。いずれ『最も適した天時』に突きつけられる言の刀口だ。
「お姉ちゃん……用度してあげてね……」
「分かっていてよ」
階に隠れていては、朱蕣の貌に浮かぶ笑みは見えない。だが、見えなくて良かったと思うに違いない。
韶華は『いずれ』が今天と知らないまま、冬栄の幸運を祈っていた。
***
僅か先の後宮で、自身の幸運を祈られているとも知らず冬栄――その身に頂いた名は隆昌――は、待っていた。
棠梨の世子を待たせることができる者は、ごく僅かだ。皇太子の位にあれば、待たせることはあっても、待たされたりはしない。
しかし昭彰殿に入れば、位とは係わりなく、男は待たねばならない。皇后が支配する宮殿は、後宮に似た別の条理に従って動いている。
とはいえ皇后どころか、主となり得る妃さえいないのに、彼はひとり、待たされていた。
心煩っても古怪はないが、宮都で庶人として扱われた経験が、冬栄の忍耐を培っていた。宮城において、傅かれるだけの彼が、どれほど甘やかされているか、思い知らされたのである。
「主に、杜韶華によってな……」
庶人の少女は冬栄を一次見るなり、大家の郎子として扱った。それは驚くほど無状な扱いで、開首はひどく腹を立てた。
冬栄も、内侍たちが服従するだけの者と分かっている。ただ、徐家ではそれなりに厳しく管教られたはずだ。それは、同じ育ちをした静影という男を見れば、分かることである。
その静影が武挙を通るとともに、冬栄も宮城に戻った。そしてまだ少年だった彼を、紅女史を始めとする女官たちは成人の東宮として遇し、早くから子どもであることを許されなくなった、と思っていた。
そんな幻想を、少女は容赦なく打ち砕いた。
棠梨に珍しい焼栗色の髪と、華英な目光の理智的な少女は、青冥に清涼な楽を響かせるような声で、冬栄という假につけた名を呼ぶ。
賭気になって始めた義賊の做法に、白果舎で知ったあの驚嘆すべき才能で、配合することを惜しまない。
質に難がないとは言わないが、凶狼姉だの幽明自在少女だのと呼ばれているが、杜韶華という人物と出会ったことを、冬栄は天に感謝している。その姉が継母になる事実を、まだ、どう思うべきか悩んでいるけれども。
微かな音を捉え、回神した冬栄は、隆昌として装腔作勢した。
仙女の如きなめらかな矩歩が、迎賓の間に入る。向導の太監は、すぐに下がり、ふたりだけになった。
「殿下、ご光臨の栄を賜わりました、杜朱蕣にございます」
「兒臣陸隆昌もまた拝謁を許されることを願い、今天に至り、ここに見えましたことを、お喜び申し上げます」
どちらも対手を上げ、自身を下げての拝礼だが、互いに客套以上の探り合いを感じている。
ふたりが当面に会うのは初めて。どころか、姿を見るのさえ初めてだった。
しかし、対面に坐してみれば不由得に懐かしさを感じる。それは、朱蕣は皇太子に弄月の、冬栄は杜家の長姉に韶華の影子を見たからだが、それぞれ肖似というわけではないので、ただぼんやりとしか掴み取れなかった。
探る刻を打ち切ったのは、朱蕣となった。
思うところの多かった冬栄に比べ、朱蕣は己の為すことに集中していた。冬栄が当先に思ったのは、韶華と似てない美人な姉だな、であるから、なおさら理解が遅れていたのだ。
朱蕣の羞じらいを含む言が、丹花からこぼれた。
「お会いできて良かったわ。でもまだ正式な対面ではありませんもの、ここでは、冬栄さまと呼ばせて頂きますわね」
「冬っ……なぜにその名をッ」
冬栄の面色が一下子に失せてゆく。
佳人がくれるのは秋波ではなく、危急存亡之秋であった。
「そんなに驚かれると、困ってしまいますわ。本主も、ここでは、いろいろと知らなくてはいけないことがありますから、冬栄さまの関心には、感謝しております」
「かような言、い、痛み入ります。兒臣は、なにをしたというわけでも……ありませんが……」
「そのようなことを、仰らないで。これからもお願いしようと思っていますのに」
「承りまして……ございます」
冬栄は小さく応じた。鈴を転がすような美しい笑い声が、邪鬼の鑼鼓に感じる。
思えばこの会見は、朱蕣が申し入れたものである。美貌の女人は言いたいことがあって、冬栄を呼んだのだ。当たりの尖刻さは古怪だが、無用な偽りを凝らすつもりのないことだけは、明らかだった。
「兒臣にできることであれば、なんなりとお申しつけ下さい」
「そう言って下さると、思っておりました。殿下、お尋ねしたいのですが、行幸の間は、宮都で政は行われないのですか。官人の務めは、そのままと聞いておりますけれど」
「行幸は、皇上に寛いで頂くのが目的ですから……兒臣が宮都を預ることになりますが、その間の官人たちの本分も、重要なものは多くありません。万世に係わりのある政務ならば、一行がお戻りになられてからですね」
「では……殊方からの使節は、殿下がお迎えになるのですか?」
冬栄の流利な回答は、そこで途絶えた。
夏令の行幸は、棠梨の往年的儀式である。平素なら、すでに準備は終わっていなければならないが、未だ小半といったところまでしか進んでいない。
遅れた理由はただひとつ、大婚という慶賀が、割り込んできたためだ。
それでも棠梨の内側だけの話で済めば、それらしい処理をしただろう。
まさか、キュウが使節を寄越すとは、送料の外。遠い北方の国のことであれば、祝辞は書簡で済ませるものと考えていたのだ。
彼らを皇帝が迎えるべきか――達官たちの間でも見解は割れた。否、まだ割れたままなのである。
朱蕣が俯き、嘆息した。
「殿下、その結舌が、答えなのですね。殊方の使節に対しては、皇上の拝謁だけが正しいと言う者と、殊方ならば東宮で充分と言う者がいる……それは礼法を封面にした、帝位を志向する者たちの争いで……殿下が使節を迎え、世子であると知らしめることに、難を表す者がいるという意思。違いますか?」
「貴女は……どこまで知っておられるのか。杜韶華が言ったのですか」
「いいえ。妹には宮中の乱子など、知って欲しくない……でも、これから知ることになるでしょう。あなたの照料をする間にね。わたしは妹が天黒から忙しそうなのを、ずっと怪しく思っていたのだけれど、理由が分かってほっとしましたわ」
言とは逆に、表情は全く放心していない。口許に袖を当てた美女の睇視は、冷戦するほど酷薄だった。
「月の使いだなんて……させられてたのかしら……?」
「違うッ。あれはっ……強制はしていない。それに望舒党は、目的があって行っていることだ。どう思われようと構うものかッ」
「あら完美」
「皇上に言いたければ、言うが良い」
「真誠なのね」
「露見すれば……妹、杜韶華も罪に問われるかもしれないぞっ」
「いやだわ、妹妹は幼弱な少女なのよ。どうして館第に忍び込んだり、盗んだりできるというの?」
「幼弱っ? 杜韶華が? あの少小な娃娃に言うならともか……」
「瑠璃を泣かせたそうね」
尖らせた氷雪に穿たれるが如く、朱蕣の藐視が冬栄に向けられた。
ここにきて了了、冬栄は自身への当たりがきつい理由を覚察した。杜家で溺愛されている幼子については、韶華から聞かされている。ただ、偶然出会った幼子が、そうと知らなかっただけ――小女と思い、厳しい説法をしてしまっただけだ。
今となっては、そんな借口など無用のものと知る。
「そうそう、殿下にひとつ、頼みがあるのですけど……聞いて下さいますか」
聞く以外に、冬栄にできることはあろうか。
「殿下、殊方からの使節は、正式に棠梨を訪れるのですから、やはり正式にお迎えしなければならないと思います。ですが、皇上のいらっしゃらない宮都では、正しく迎えたとは言えません。しかもこの令です。甘棠で過ごすのは、辛いのではありませんか?」
朱蕣が微笑みを浮かべた。
「皇上とともに、行幸の宮で暑さを避けては、いかがでしょう」
「水芳宮にキュウを呼ぶと? いや、それは……」
不料に悪くない考えである。
怯えていた身躯に仄かな灯りが点る。冬栄は、使節の来路と行幸の路程を内心で比べつつ、黙り込んだ。
彼に韶華のような才はないので、直截はできない。記得を頼りに、考える間が必要だった。だが。
「考えなくても良いと思います」
清楚とした朱蕣の言が返ってくる。美人の言う「いかがですか」は、そうしろという命令なのだ。
冬栄は迷いを残しつつも、承諾の意を示した。
朱蕣になんらかの目的――キュウをなんとしてでも宮都から離しておきたい、という居心を感じるものの、北方の大国を不備に迎え入れたくないことについては、冬栄も同じ。
そもそも、当前にいる女人に抗うという選択など、ないのである。
冬栄にできるのは、キュウを行幸に連れ出すという詮議を、なんとしてでも通すだけ。自身の肩にかかった圧を、考えないようにすることだけだった。




