発覚之二
韶華に会ってどうしようというのか、静影はまだ思いつかなかった。
少なくとも、父親がどこの出であるのか、尋ねなければならない。だが、知らないことも考えられる。
殊方の者であろうとなかろうと、児女を溺愛する父親に変わりはない。韶華の光を浴びて輝く棕紅色の髪や、幼い瑠璃の碧眼が、いかなる地よりもたらされているかなど、どうでも良いことだろう。
思い詰めていたせいか、静影は国子学まで来て、差錯に気づいた。今天は白果舎に居ると言っていた。大学に行っても、韶華には会えないのである。
踵を返したところで、学生とぶつかりそうになった。
覚えのある貌だと静影が思う一方、対手も同じ表情で見上げてきた。
「徐将軍……!」
「ああ……韶華とともにいた学生だね」
「李潭です」
少年が慌てて拱手する。どことなくよれた袖から、甘い匂いが立ち上った。臭いを分かりにくくするための香である。
「もしや通宵で、読書でもしたのか」
「あっ……分かりますか。あの……ぼくは律学に通う者なのですが、こちらの諸位に読書会に誘って頂いたのです。這回は、つい著迷になってしまって……回家する暇がなくて」
「争気なのは良いが、休むのを忘れるなよ」
「はい。労心、ありがとうございます」
李潭はそう言うと、大学の門の内に消えた。静影もまた歩き出したが、目は、どうしても少年の背影を探そうとする。
彼の声調は明るく、目光にも濁りはなかった。だから当心は、いらないはず。微かに酒の匂いがすることまで、叱る必要はない、と思う。
「思うのだが……」
気になる。
ただの韶華の朋友なら、抛っておいた、かもしれない。けれど彼は、韶華の館第侵入目的を果たすという意向に、巻き込まれている。さらにそれは、棠梨の次の帝位に就く者によって、画策された一部分でもある。
真卒な少年が坏事に馴らされて行くようであれば、責を感じる。
思い過ごしであれば良いのだが。
静影は軽く首を横に振って、白果舎に向かった。
***
西街は、白天でも深夜でも、華やかさを失うことはない。
報春路を過ぎ、藍雪路に近くなるごとに、その思いは強くなる。
賭場や妓楼が大息を吐くように休んでいる午時でさえ、密やか笑いが聞こえてくるようだ。
否、気のせいではない。ふと見上げれば、妓女たちが窓前から手を振っている。紅粧は落としているだろうに、丹花は艶やかで、風情がある。
静影のような路人は、見るものの美しさに、嘆息だけしていれば良いのだろう。
妓女自身が望んで得たものでないにせよ、混ざり合う毒に培育された美しさは、逸品だ。
棠梨を守る将としては、路を行く小児らに、妓女たちの嘆きを平常のものと思って欲しくなかった。それが、無謀な願いだとしてもである。
憂う紫石の双眸の傍らで、子どもたちが楽しそうに走り去る。やや遅れて、角から小さな脚歩声が響いてきた。
「瑠璃か」
「静影……哥哥っ」
幼い少女は、走る友と遊べるくらいには壮健になったようだ。が、喘息は、すぐには静まらなかった
「あまり急ぐなよ。回家したければ、送って行くぞ」
「うん……でも、もうちょっと、遊ぶ。お父さんに、お客さまが来てるから」
「そうか。ならば、俺が負剣するから、ゆっくり追いかけよう」
瑠璃の表情が、ぱっと明るくなった。負剣は心愛であるらしい。
「あのね、みんなで学堂を見に行こうって。もう少ししたら、通うんだよ。瑠璃、行くの楽しみ!」
弾む声を聞いて浮かべた静影の微笑みは、次に続く言で削ぎ落とされた。
「好些読書して、それで、お父さんのかんのう小説、読むの!」
「よ、読まなくていいから……というか、ああいった書籍、瑠璃の手の届くところにあるのかもしかして」
あると答えたら、杜家の女主に小報告すべきかもしれない。
「ううん。お父さんね、すぐに隠しちゃうんだよ。難しい字が多いから、ちょっと見ただけじゃ、瑠璃には分かんないのに……韶姉みたいに、見るだけで覚えられたら、良かった……」
「できたら厳重注意では、済まないがな……」
「でも上次、少しだけ瑠璃も読めたんだよ! ふんふんはあはあ!」
やはり一次、絞め上げねばならないようだ。
父親になにが起こるとも知らず、幼い少女は静影の披肩に興趣を向けた。
「これ、波の紋様?」
「そうだよ。武人として褒められるようになると、いろいろな……綽名をもらうんだ。この披肩は伏波将軍と呼ばれた時、その名にちなんで贈られたものだ」
「伏波……波を伏せる?」
静影は頷いた。もっとも、水軍ではないので、事実上呼ばれたことのない称呼である。
そのため、あまり使う気になれなかったのだが、韶華に貸した披肩が返ってこないので、やむを得ず櫃から引っ張り出してきている。
「瑠璃は……波より龍のが、好帥と思うなあ」
「龍の将軍か」
「違うよ。それだと、静影哥哥が龍になっちゃうよ。伏龍将軍だよ!」
「いや、伏龍は……それだと世に出てないから……」
「じゃあ、虎は?」
「不成だ、瑠璃。龍虎で虎を思い浮かべたんだろうが言うな、虎は伏せるな!」
伏虎、伏虎は不成だと叫ぶ男を、すれ違うひとびとが冷やかな目で見る。見られて当然である。
泣きたくなりながら、静影は幼子が使えそうな言を探した。
「伏せるにしたって臥なら……それなら、臥龍は? 臥龍将軍はどうだ?」
「好好! 瑠璃、臥遊好き!」
次に会った時には臥遊将軍――中用にならない、高雅な奇人の将になっていそうだが、伏虎よりは良いだろう。
と、背後で笑う声が聞こえた。
「ご……ごめん、笑っちゃって……伏龍、伏龍だって」
「いつから聞いてた、韶華……」
「えー? 静影哥哥が学堂を過ぎちゃった辺りから、韶姉、いたよ?」
「瑠璃、それは教えてくれ!」
抱えられた幼子は、ずっと静影の後ろを歩く韶華を見ていたわけである。学堂に行く打算であったのに、学堂に気づかなかった静影が悪いのだが。
「もう香青路だし家に着くし、瑠璃、学堂を見るのは、明天にしたら?」
「うん、そうするー」
静影が幼い少女を下ろすと同時に、白屋の戸が開いた。
「あれまあ、陰羽先生の! 小妹、健康になりましたねえ。良かったですねえ」
瑠璃を見て、男は丸い肚を叩き、大笑した。杜家の客、というより、陰羽という名を口にしたからには、出版に係わる者である。
それが分かるのは、瑠璃と静影だけではあったが、韶華も察するものがあり、頷いた。
「いつも照料になってます。もう商量は終わったんですか」
「ええ、新しい稿を頂きましたよ。いやもう此回も、大手筆は冴えに冴えておりますね。搶手は間違いなし! うちもねえ、もう少し老本があれば、全て刷りたいんですがねえ」
はああと大息を吐く男を見ながら、静影は、彼の速やかな退去を願った。
韶華の父親が作家だと露見しても構わないが、なにを書いているかは、知って欲しくなかった。引いては、静影がそれを持っていると知られたくない、という話に行きつくのだが、とりあえず男は、にこにこと笑いながら去って行った。
「大手筆とは、すごい褒めようだね。でもやっぱり、お父さん、なにか書いてたんだ。無業じゃなかったんだね」
「そうだよ、韶姉。お父さんはか」
「ところでだな韶華訊きたいことがあって来たんだ少しいいか」
瑠璃の言に被せるようにして、静影は路の奥を示した。その間に、いきなり話を遮られて驚く幼子は、無業と思われていた痩せ女に回収された。
「話なら、作房でいいかな」
静影は頷いた。韶華に問うにしても、できるだけ杜家と離れた場でしたかった。
このところ、ふたりが会うのは白果舎だったので、作房は思ったよりも散らかっていた。
静影は責めていないが、責められたと感じたのか、韶華は急いで卓上の香の函と片書をかき集め始めた。
「ええ、さて……それで、訊きたいことってなんでしょうか」
韶華が牀子に座る。静影の対面に居るので、東と西、交鋒の構えである。
「父親のことだ」
「なにか重い病にでもなった? 言ってくれれば、良い薬を……」
「俺のじゃない、おまえのだ」
言った瞬間、空子から見つめてくる痩せ女がいるような気がして、ふたりは視線を戸に向けた。
いない。とりあえずは。
では話を続けよう。
としたのだが、湧いた恐怖を散らすのに、別の言を挟む必要があった。
「あー……そうだ、韶華。そろそろ披肩を返せ」
「ごめん、そうだった。あれ、良い香りがしてたから、模倣しようとこっちに……うわあ、しまった」
慌てた韶華の手が、粗雑に積まれた函をひっくり返した。折れた小刀や、鞘のようなよく分からないものなど、怪しいものが転がり出てくる。
「どういう作房なんだ、ここは。薬を処方したり……してるんだよな?」
「うん。元は、太父の房子でね……両半は房束に売ったんだけど。あ、老公公っていうのは、以前に話した御史台のひとの手下だよ」
「謝御史大夫? ということは……杜女士は杜照白……あの、杜判官の児女?」
静影も、杜照白という男の活躍は、伝えられるものしか知らない。けれど、あの素粧の佚女が、女打手を難なくこないしているのを見れば、直率に信じられた。あれは間違いなく、杜判官の家系である。
「強いはずだよ……しかし、おまえは太君から、武術を習わなかったのか?」
「お姉ちゃんが生まれる前に亡くなってるもの。お母さんからも、教えてもらわなかったけど、本分で忙しかったんだと思う。瑠璃の薬が必要だったし」
静影のほっとする表情は、韶華にも伝わった。季児が虚弱でなければ、間違いなく三姉妹は武闘派になっていただろう。
「わたしたちの照料は、お父さんがしてたから、わたしなんかは、書院で図面を写していた思い出のほうが多いな。墨の品類で、濃淡や出が違うとか、溌墨を教えてくれたのは、お父さんだよ」
「おまえの小技は、父親譲りか……」
「お父さんは、肖似に描けるというわけでは……静影は、お父さんのなにが気になるの」
改めて向き直った韶華に、静影は、父親がどこから来た者か知っているかを尋ねた。返ってきた答えは、送料に違わず、よく知らないというものだった。
「静影が訊いてくるんだから、重要なことなんだろうね。実はさ、お姉ちゃんも気にしてるんだよね。お父さんが、キュウと係わりがあるかどうか」
「……あるのか?」
「どうなのかな……本人に訊く打算はあるけど……それにしたって静影は、なにをもって、そう思ったの?」
「なにをって……小」
韶華には愛する父親がなにをしてようと構わないわけでゆえに静影が疑うに至った理由を問うてきたわけだが父親が書いた官能小説が王族の醜聞を描写したものであるらしいから訊いた。
とは、言えない。
静影は怪しむ韶華の視線の中、ゆっくりと言を選ぶ。
「おまえの父親は、キュウの王族について、庶人では知り得ないことを……書いている。王族がおまえの父親が棠梨にいると知ったなら、どうなるかを考えなければならない。祝辞を携え、棠梨にキュウの使節が来るのだからな」
「静影の説法は、なんか隠してる風色ありありだけど、お父さんとキュウを、できるだけ離しておく必要は、あるかもね」
「令姉がまだ位を賜わってないのは、ある部分で幸いだったな。キュウの者と会わなくて済む。今は痩せ女……ではなく若いころの太君と、あの美貌が似ていたら、児女だと分かる者もいるかもしれない」
「お母さんが言うには、お姉ちゃんは老公公に似てるって。わたしは誰に似たのか知らないけど……ひとりだけ平凡で」
「なにを言う。才能も勇気も、平凡とは言いがたいだろうが。俺としては、おまえが凡そ平らかに過ごしてくれたらと、心から思うぞ」
「褒めてるつもりなんでしょうか、それ」
ぷいと横を向く動きに合わせ、焼栗色の結い髪が横に揺れた。
静影も、褒めたとは言えないと分かっているので、苦笑を浮かべる。しかし平穏であって欲しいと思うのは、事実だった。
「もし太君を質すならば、俺もその場に呼んで欲しい。構わないか……?」
「いいよ。提審は、御史台のひとにも頼もうと思ってたし」
静影は、質すと提審の違いについて問うことはしなかった。代わりに、ふと思い出した心事を吐き出した。
「そういえば、おまえ、人家の郎子を巻き込んだだろう。律学の学生を、国子学に上学させたりして」
「李潭のこと? 不成だったかな?」
「不成とは言わないが……読書会と称して、酒を呑ませるような同伴がいるようだから、少し労心だ」
「お酒……」
驚きを表す韶華に、静影は頷いてみせた。
もっとも少女の口気には、初めて聞いたというよりも、思い当たるものが露わになったという驚きが込められていた。
だから静影は、黙する韶華の姿に欠佳な預感を覚えた。
「韶華」
「なにかな?」
「不妙なことをするなよ」
一瞬の、間。
あまりにも居心の明らかな間である。
ゆえに静影は、大愚なことはしませんよ当然じゃないですかあ、と応じる韶華を信じるわけにはいかなくなった。




