要香幃之二
白果舎に着いた韶香は、敗残の徒の如く地板に手をついた。
「なんかもう……到底是愚人……!」
「どうした、なんにも無かったのか」
老板の問いに黙って頷く。
まずは見るだけと商店に行ってみたのだが、母親の言った通り、壁架はすがすがしいほど空になっていた。
端から手に入らないと諦めていた黒沈香や薫陸香はともかく、使わないわけにはいかないであろう白木香や栴檀、楝の香油まで売り切れである。
しかも韶香が行ったのは、それだけではない。はっと思いついて食用香料の商店に向かってみたが、丁香、桂丁、茴香に姜粉……それをどうすると問い詰めたくなる葱まで、およそ香りのありそうなものは、全て買い占められていた。
「そりゃね……香木の値を知って、差鎖したのはわたしですよう。でも、あんなに高かったら、買いたくたって買えないじゃない。だったら最初に香の配方を学んで、買えるものを選ぼうって……考えたんだけど」
「間違っちゃいないと思うがね。それで、読んでみてどうだった」
「中用でしたよ……その厚みがないやつなんか、参考資料がついてて……要るものは、だいたい読めたと思う」
「真棒よの」
今は褒められても嬉しさは湧かない。韶香はのろのろと起き上がった。
「ねえ白大人。巷は、そんなに大家があふれているもんなの?」
「あふれているのではなくて……」
老人は眉を寄せ、しばし迷う顔をした。
「後言に聞こえるだろうが、こう考えておるのではないかな? 嗚呼、どうして我が児女の才貌は、褒めがたきものであるのか。比べて人家の息女のなんと麗しいことか。嗚呼、我、分際を知らず。愛児の掖庭の主となるを望むも、夢ならん。しかれども、香幃を納めずして投考なし。準備に堤防あれば、機、生じる……」
「うわあ……」
韶香は大息を吐いた。
どうせ諦めるなら、対手も不利にしたらいいじゃない。不備搏鬥に陥った者たちの考えは、理解しがたいものがあった。
「落ち込まないで下さいよ、小玉さん」
肆中からのんびりとした声がかかった。老板のほかにひとがいると思わず、韶香は跳び上がった。
積まれた書籍の間に見える顔は、白果舎で二冊ほど頭套の書籍を出版した男のものだった。その豊かな黒髪が真正かどうかは判然としないが、とりあえず書籍はかなり売れている。
「驚かせましたかねえ。吾ですよ、ほら、疝丹を下さったじゃないですか」
「ああ……そういえば。効きました?」
「よく効きましたよ、薬肆で買ったものよりね! もうこれは、専長ってやつですよ」
男の言わんとするところが韶香にも分かった。
主に妹のため、そして医院に行けない貧者のために、韶香は薬を作ることがあった。固然、材料は自ら摘んだもの。香もまた配方するものなのだから、採りに行けば良いというのだ。
「そっか、西苑に……」
「そうですよ。幸い、今は門が開いてますし」
どうして思いつかなかったのか。と驚いたものの、忘れていた理由もすぐに思い出した。
西苑は字義通り、甘棠の都城の西にある。国が管理しているが、広さゆえに全ては囲われていない。だから知らずに、あるいは悄悄と入る者も珍しくない。
しかし、准許なしにそこにある植物を持ち出したことが明らかになれば、罪となる。それを避けるためには、半天だけ開いている門から入るしかない。
この半天という規定が、韶香にはきつかった。あてもなく探していれば、時などあっという間に過ぎてしまう。
「露営はちょっとね。西苑の図片があればなー……書籍でもいいけどさ。どこそこにあるって一篇でも書いてあれば」
「おや、西苑の……地図なんかは白果舎で扱ってないんですか、老板?」
「扱ってても、言わんよ。でも持っていたら、見せとるさ」
「そうですよねえ、持ってたら今ごろ巷にあふれてますよねえ」
「わたしがざくざく配りまくるみたいな言いかた、止めて下さーい」
「すまんな」
謝る声も軽く、老人は全く悪いと思っていないようだった。
「行くしかないか……西苑も、ひとだらけだろうなあ」
「どうでしょうねえ。天色も怪しいですし、早くしないと不成かもしれませんよねえ……」
韶香は天色と聞いて、行くことを決めた。雨では露営が難しい。男にありがとうとだけ言うと、白果舎を走り出た。
急いでいるつもりでいたが、大路の中途で韶香の足は止まった。菜刀を振り上げた老爺が、男たちを追って鼻先をかすめるように通りすぎて行ったのだ。
「うわ、まさかあれ……」
料想するまでもないだろう。逃げる男は、酒楼の厨から食用香料を盗んだ者たちで、追う老爺は庖丁である。
「酒楼の蓄えまで狙われてるのかあ……」
しばらくの間、酒楼に行っても地道な味にはならなさそうだ。
(なんだか……)
韶香の心が風潮の大きさに揺れている。西苑に向かう気もしぼんでしまう。再び動かす足はただ、歩くだけになった。
(もっと狡くなるべき? 争気だけじゃ、なにもできない? でも)
朱蕣が突然、玉閨に入って家族に楽な暮らしをさせると誓った日を覚えている。それから長姉はずっと佳人たろうと努めている。あれがいかなる居心で行われたことか、韶香も少しだけ分かってきた。だから。
壊事にしては、ならない。
彼女は一つの瑕疵もなく、光彩を以て閨内に入るのだ。
「でもまー……主見ではーもっと近いとこでお嫁に行って欲しかったなー。後宮だと、すぐに会えないしー。んー……もし草採りが不成だったら、あれか……家にある芸香だけで作るのか。おやっ」
顔を上げた韶香の目に、どこかで見た男の顔が映り込んだ。
瞬時に静影という名を思い出し、顔を背ける。
(あのひとのことは忘れろー忘れるのよー……わ、す、れ、ましょーうー)
忘却の呪言に効果はなし。だが静影に気づかれずには、済んだ。彼は項垂れる男たちを連行するのに忙しいようだ。
夜陰で見た時と同じ、黒っぽい戎衣はやはり軽い。革甲をつけただけというあたり、正式な値日ではないのかもしれない。
韶香はその場をそっと離れた。
これ以上係わってアレを思い出してもいけない。受け取った封信には、守秘義務があるのだ。
吃香なくて悩んでいるとか、情書を捨てられたとか、投稿が定期なせいでやたらに貴兄の情況に詳しくなってるんですけどとか――
「ん?」
押さえ込む記憶から、ふっとなにかが浮かび上がった。
黒っぽい甲士、黒っぽい影。それから燈火の華――花を贈ろうとして回絶された彼の思い出。
「そっか、こんな花いらないって、言われた話……!」
少年は少女にありふれた野の花を差し出し、怒られたのだ。そののちずっと希奇な花なら良かったのかと悩むことになる。
「香木がなくても花がある……花の香油なら作れる!」
西苑に行かずとも花は手に入る。今は新緑の美しさが盛行しているけれど、雨が来て、そして過ぎれば、昊天に映える花が咲き始めるだろう。
稀少な花は、香りも古怪なもののはずだ。
韶香はすでに赭鞭家なみの植物譜を頭に入れている。
珍奇さを求めるつもりであれば、それならば、合適なものが一つあった。