真面目発覚
白天の明るさはまだ続いているが、客引きが現れ始めた藍雪路を、焼栗色の髪の少女が颶風のように走り抜けた。
平素なら、家に帰る向きに走っていただろう。界隈に知られた少女ゆえに、逆であることを古怪に思う者も、いなかったわけではない。
しかしそれも一瞬のみ。朱明の夜は短いわりに、客の花費が多い。男たちも、客引きとしての本分を果たすほうに忙しくなった。
一口気に路を駆け抜けた風は、白果舎の前で止まる。
すでに書肆の部分は閉められており、締め出された風ならぬ韶華は、慣れた法子で旁の戸を開けた。
「冬栄先生、来てるよね!」
肆中の奥で、影を落とした黒髪が揺れ、男の清秀な眼角が韶華に向く。
そして、坐す男を撲面にした男の、紫石の勝ちすぎる査牙しい双眸もまた、韶華に向けられた。
書肆という場では、将兵の矯健さはひどく浮いて見える。立っているだけで、圧伏してくるようだ。
と思うのは、睥睨する男の心情の不佳が、あからさまだからかもしれない。
静影の視線が、韶華から坐す男へと戻った。
「冬栄……そうか、冬栄か。万象の眠る幽天の下、栄え、咲き誇る稀奇な花を意思する名か。佳い名だと思いますよ。隆昌の名を覆い隠すものとしては」
「膠固で知られるおまえにしては、美しい賛辞だ」
「本将のことなど、どうでもいいでしょう。殿下、目を逸さず、こちらを見て下さい。いいですか、西街通いについては、見逃すつもりでおりました。皇上があれでは、習気を模倣したくもなるでしょうし、区区たるもので散心も必要です。しかしながら市人を巻き込むとは、なにを考えていらっしゃるのですか」
「いろいろと……」
「では、ひとつひとつ、解釈して頂きたい。まずは、この悪聞も甚だしき藍雪路においてさえ、怪しき風聞のつきまとう書肆で、客以上の扱いを受けていることについて」
「少し銭が必要で……」
ぼそぼそと呟く冬栄を見ながら、韶華は白果舎で欄目を書く同事が、隆昌の名を持つ殿下であったことを正式に認めた。
瑠璃の言は真実であり、韶華の送料も正しかった。
とても喜ぶ気には、なれないが。
(皇帝のみならず、皇太子までもが、ふらふらと京城漫歩をしてるんだねえ……)
この真実を習気の一言で済ませる静影はすごいなあ、と思わなくもないが、韶華は逃路を探した。やがてくる提審を待つわけには、いかない。
「あの、おふたりには積もる話があるようですから、わたしはこれで?」
「おまえも座れ、韶華」
紫石の双眸が少女を睨み、並べられた椅子を示す。退路はすでに断たれていたらしい。
将兵の前に、大小の坐す影が揃った。
「俺は不料にも、白果という雑誌と繋がりを持った。それで、出版している白果舎を少し調べた。そして、とある怪聞が、常につきまとう場であると知った」
「やだなあ、なんてことのない書肆ですってば。そりゃまあ、真卒な静影には、思うところはあるかもしれないけど」
「そうとも。風流に悩む郎子たちのために、瑞頌老師が欄……」
「ちょっ、冬栄、投敵るのッ? 言わないでよっ。だいたい静影のこと、初めから知ってたんだよね? あの投稿が誰のものか分かってて、わたしに書……渡したわけ?」
「当然だ。まさか、あの膠固が、あんな悩みを書いて寄越すとはな! だが誰かに話したくとも、手に入れた事由は語れまい。小王から言い振らすことができぬのであれば、せめて若に楽しみを分けてやっ……」
「停」
肚の底から無情が染み入るような、ひどく冷たい声だった。
昏い紫石がどこまで怒りを抑えているか窺いながら、韶華は改口した。
「あのですね、冬栄先生……まだ思い込んでるようだから、正しておくけど、あの投稿は、静影が書いたものじゃないですよ」
「静影がそう言ったと? 本人は否定するに決まっているだろう。あんな小節まで知ってる他人が、いるわけない。我も忘れていたくらいの、徐家での幼い時を細かく書いてあったんだぞ」
「それを言うと、冬栄先生が鹿追偵人に思えるんだけど……待って、違うから! 静影、怒るのは早いから! 投稿の筆迹は、冬栄先生のじゃないんだよ。あれだけ洒脱な字は、そうそう書けるものじゃないし」
静影に睨まれ、韶華は慌てて解説した。
「わたしも疑ったけど、あれを冬栄先生が編造できるとは思えないんだ。烏紙でもないのに字は井然と並んでるし、そもそも信紙が、すごく高档で、小気な冬栄先生が使うはずないんだ」
一国の世子を捉えて小気とはなんだと言われそうだが、韶華の言に、静影は大きく頷いた。
「その筆迹だ……おまえに言われて、気にするようになった。だからこれを見て、書いた者が誰か、俺にも分かった。そして白果舎に係わる怪聞も、真実が含まれていると気づいた。見ろ」
静影が取り出したのは、どこにでもありそうな安い紙だった。
しかしそれは、韶華と冬栄が、望舒党の預告をする時に使うことになっているものだった。
匪徒、望舒党。
近来、巷で流行りの望舒党は、誰に頼まれたわけでもないのに宮都を守る。東に納賂で潤う貴族があれば、銀両を盗んで万世に配り、西に坏人があれば、府上の前に突き出して晒す。匪徒でありながら、匪徒を許さず。正しき市人には手を出さない。どこからともなく現れ、去ってゆく。
望舒党の残した布告や導言は、小児らが口にしながら角色遊びをするほど、知られており、匪賊が失物として残して行く銀両は、これ以上ないくらいに喜ばれた。
許されることではないが、望舒党を義賊と呼ぶ者もいる。
ふたりが白果舎を匪巣として行っているのは、そういうものだった。
(なんて、言えますかッ。棠梨の将に……!)
韶華は睇視で同謀の冬栄を見た。
突き付けられたものから、ふいと目を逸す男がいる。隠したい心境は、おそらく韶華より強く、渇求なはずだ。
「言うまでもないが、これは新たに宮都に出回った、望舒党の預告だ。内容としては、ほとんどなにも書いてないに等しいが、この筆迹は殿下のもの。どうして世を賑わす匪賊の預告を、殿下が書いたのか……理由を聞かせて頂こう」
韶華はまず、まるで初めて見るかのような顔色で、驚いてみせた。
「冬栄先生、なんでまた、望舒党の導言を書いたの。戯劇の工作は、頼まれてないよね?」
翻訳。戯劇、戯劇だってことにすればっ?
「そ……それがな、急に頼まれたのだ。その、匪賊がでてくるような、俳場なやつをな! 妓楼の女たちが見たいと……まあ、どこで催すかはまだ決まってないらしいが」
翻訳。それは良い! でも誰に頼まれたか、静影は疑っているぞ。
「そうなんだ。わたしは知らなかったよ。そんなことしてるなんて」
翻訳。知らないよ。とにかく今は、わたしは係わってないんだからね!
「ああ、おまえは大学で忙しいからな。いつもなら、おまえに写字を頼むんだが、その機がなくて……おまえが書くと、筆迹が知名な作家のものに見えるから!」
翻訳。おまえだけ逃してたまるか!
やだなあ吹捧ないで下さいよいやおまえの小技はなかなかでうふふあはは。
冷門花招の後ろで、首謀の押し付け合いがなされている。黙って聞いている静影が、表白を信じてくれているかを考える余裕はなかった。恐らく塵ほども信じていない。紫石の険しさは、増すばかりだ。
「もう演技は止めろ」
静影が告げる。
その穏やかさが却って怖い。韶華は末了に事実を吐くことを試みた。
「静影が考えている通り、確かに白果舎は、表では言えないことをしています。それに、冬栄先生の支援を……わたしがしてるのも、不錯です。でも、この布告については知らなかったということを信じて下さい。それに、冬栄先生が皇太子だっていうのは、知ったばかりなんです……」
「そうか」
「信じてくれない!」
「待て、静影。小王の料については、誰にも知られておらぬ。それは確かだ」
「そうか」
「信じてくれぬのか!」
言下に切り捨てられ、冬栄が項垂れる。それに同情できないので、韶華も項垂れた。
当前でやられるとよく分かる。韶華だって信じようと思わない。皇太子が宮城の誰にも知られずに、宮都を動き回れるとは。
少なくとも弄月は――皇帝は、黒風とやらを連れていたらしいので、ひとりではなかったのである。
「あの……静影、藍雪路で探してたのは……弄月大人だよね? 皇太子が西街で、欄目を書いて、なんかしてるのを、確かめに来たわけじゃなくて」
「ああ。俺が探していたのは、皇上だけだ。殿下が西街辺りを彷徨いていることは知っていたから……まさか皇上も、それを聞き付けたのかと」
困った皇族だ。と言いたげに、静影は端整な貌を歪めた。
「抛っておくこともできた……だが、ずっと気になっていたことがあって、西街に探しに行こうと思った。望舒党は、殿下が西街に出かけるようになってから、現れ始めた。それを偶然と思うのは、俺には難しい。疑いたくはなかったが……」
静影が韶華をじろりと見下ろす。
「韶華……おまえの北斗丘での假扮と、雑誌の投稿がどうのとで、白果舎への疑いが大きくなり、そして殿下がここに通っていることを知……」
「杜韶華ッ? おまえ、あの化装で禁苑に行ったのかっ」
「だって動くのに便宜だし」
「よりにもよって北斗丘に! それで見つかったとか、新鮮! というより、静影に我が見つかったのは、全ておまえの責ではないかっ」
「韶華を責めるのは、この筆迹が殿下のものではないと、証してからにして下さいませんか」
純黒の前髪の下で、査牙しい紫石が敬うべき男を捉えている。諦めよ、認めよという天からの神諭が、聞こえてくるようだ。長い指に挟まれた望舒党の布告には、紛うことなき冬栄の字が、のたうっている。
逃げられないと知った棠梨の丕子は、やがて認めた。
「そうだ、小王が望舒党だ」
そして。
「そこにいる杜韶華もだ」
巻き込んだ者を、もう一次、巻き込んだ。
***
小さな軋みひとつ立てないよう、男は静かに歩いていた。
常に誰かを付き従えている男なので、独りきりというのは珍しい。いや、あり得ないと言ってもいいだろう。
棠梨の皇帝という地位にあれば、当人さえ知らぬところで、守られているものである。
それが、なぜ独りであったかというと、してもいない約定を、さも果たしているかのような体で兵営に来たことによる。
左領左右府将軍と、特別に内容を伏せた商量がある。ゆえに密かに兵営に行けるよう、取り計らえ。
そう言って、陛衛である黒風を兵営の外に止め、内に入り込んでいる。当然、会うべき将軍は、いないことを確かめたあとで。
「さあて……どこに隠してるかなあ」
狙い定めた場――兵営における、徐静影将軍の私室に滑り込んだ皇帝、弄月は、視線を巡らせた。
几案と椅子、そして櫃。静影の質をよく現した、朴とした屋子だ。
武人の持ち物として、少し変わったものといえば、窓の下にある香几だが、それは弄月が即位した時の祝いの品である。目的とは違って、香炉ではなく筆函と文鎮が置かれているが。
香炉を贈るべきだったかと思う弄月の目に、ひとつの函が入る。香几の下に置かれた黒い函。慌てて突っ込まれたような草率さが、ひどく浮いて見えた。
「あれだな……あいつなら、隠したいものは隠すべきところに隠さない! おお、あった……! 真的に官能小説だ……」
角が少しよれているが、冊子の本体に汚れはない。しかしながら開いた様態もないので、弄月は僅かに考え込んだ。
「読んでない? まあ……こういう書籍でも、あいつは深切に読むに違いない……いやいやしかし、知らぬとはいえ陰羽の著作とは。良い趣向じゃないか……初版だよしかも! 手に入れるのに、どれだけ労苦があるか……」
版元が小さいようで、初版はどうしても少なくなるという。増刷する権利を別の大きな版元に売って、定額を償付してもらうことで、なんとかやっているらしい。
皇帝の名を以って買い上げるわけにもいかず、弄月も増刷の古本二冊しか持っていない。ものがものだけに、愛好者と公表にされることはないが、顕官や相公たちも密かに蒐集を試みているらしい。
秘書監などは不久以前、夫人に見つかった二酉を全て売り払われ、しばし廃人のようになっていたと聞く。
「劉監のは、全て初版だったという話だからなあ……初版には、増刷にはない部分があるからこそ、意思があるわけで。いやあ、静影も膠固なだけじゃないんだな」
弄月は袖に冊子をしまい込んだ。
かの武人が官能小説を持っているか、確かめるだけの打算だったが、弄月も読んだことのない書籍なうえに、初版である。これを持って帰らずにいられようか。
固然、作家がこれから妻になる女人の父親なので、借りるも買うも、自在になったといえなくもない。
しかし、あの元美貌の痩せ女――子に固執する情だけが残った怪に、書籍が欲しいと言えば、陰鬼あふるる九泉に叩き込まれるかもしれない。
秘事を抱え、戻る男の矩歩には、行きとは違った慎重さが求められた。




