別名重重
たとえば韶華にとって、近来の喜事といえば、姉の婚姻が叶ったこと、拭い魔が真面目を晒さずに消えたことである。
しかし、それらを全て無かったことにしかねない――真実がひとつ明らかになった。というより、それを真実とみなすのは、許しがたいことであった。
だから確かめるまでは、まだ、決めつけてはいけない。
直率な妹の言を疑うことになろうとも、あれが誰であるかを決めることは、できない。
できないはずである。
***
告急な一日を終えた次日、同事の真面目を、すぐにでも確かめに白果舎に向かいたかったが、韶華にそれは許されなかった。
国子学に行くという話を取り付けた以上、いきなり休むのは礼儀に反する。帰りに寄ると決めて、大学に重い脚を運んだ。
牢騒少女の別名をほしいままにした、杜家の児女が、また大学に通うことは、すでに学生たちの間に広まっていたらしい。
韶華が門の前に姿を現しても、誰も驚く様態を見せなかった。
もっとも、暗い顔色をして、低声でなにごとかを呟き続ける少女に、敢えて近づく者はいなかっただろう。
それはまた教授たちも同じで、課に際しては、心ここにあらずといった韶華に、ほっとしていた。
午時になってようやく、韶華の目は焦点を合わせた。飢えが悩みを上回ったのである。
「中飯かあ……」
炎帝の気勢も甚だしい夏令である。箪食を持って来る者など、いるはずがない。
いたとしても、たかろうと思ったわけではないが、国子学は北洛にあって、韶華は界隈を知らない。軽易に入れるような茶房も酒楼も、思い当たらなかった。
上次はどうだったかと思い返してみると、
「あー……中午には、追い出されてたんだ」
正確に言えば、第一課で揉めた韶華は別室に止められ、教授たちは正午まで進士たちの訴えを聞き、午下に退出を命じたのである。
「そのあとも、中飯も抜きでずっと舌争してたしなあ……あれって、滋養が足りなくて、長引いたのかも。空きっ腹っていうのは、争いの元だよねえ……」
舌争と聞いて、通りかかった学生がびくりと身躯を震わせた。
「なにを仕掛ける打算だ、冥鬼ッ」
「冥鬼って! まだ別名があったのっ?」
「いや、今天のおまえは……なにも手許に置かず、空を見て、かちかちと歯を鳴らしているから……」
「ええ……わたし、そんなでした……?」
そんなだったらしい。課本がないのは、売っ払ったという事由以外に必要ないからだが、もう少し学生らしくすべきだった。ひとらしく、というか。
しかし、話しかけてくれた学生は、よく聞き取れない悲鳴とともに逃げ去っていたので、韶華はまた、ひとりになった。
「どうするかな……ああ、教授に訊けばいいんだ。それらしく見えるように、課本貸して下さいとか、良い茶房知りませんかとか」
そうして揚揚と向かった韶華を迎えたのは、使丁の井然とした断りの言だった。
教授たちは、俄かに腹痛に襲われたらしい。
「じゃあ……午下の課は、全て休みになりますか?」
「そう取られたのなら、そういうことだと思います。そうでないなら、そういうことには、なりません。そういうことですので、それについては、これ以上、申し上げることはございません」
韶華は片刻考え、その場を辞した。ここは教授を守る、使丁の能干ぶりに敬意を表すべきだろう。
空腹を抱え、韶華は中橋に向かった。
北洛が分からないなら、南洛に戻るしかない。東城の城壁沿いに行けば、そう遠くはないし、その界隈は韶華も知るところだ。
ただ、城壁のそばには、きつい日差しからの逃げ場がなかった。足許の濃い影にさえ、羨む心目がわいた。
「杜韶華っ! おい!」
「あー、熱死了……」
「おまえを呼んでるんだ、杜韶華!」
「あなたが呼んでいるのは、茹だりそうな杜韶華ですか、空腹で倒れそうな杜韶華ですか、それとも」
「いつでも白話を忘れない、才能があらぬ方角に向いてる杜韶華だよ!」
「李潭?」
昊天の下、韶華の学堂の友は、怒っているのにひどく困っているような、なんとも言えない表情をしていた。
「方才だね。どこか近くの、中飯に良いところを知らない?」
「この辺りにはないよ。国子学だったら、その近くのほうが……兵営のそばだし、それなりの酒楼もあったのに」
言われてみれば、国子学は東城のそば、兵営の並びにある。北洛という思い込みから、貴族向きばかりと考えたのは、間違いだったようだ。
「そっか、静影に訊けば良かったんだね。あんまり兵営に入り浸るのも、どうかと思ったんだけど……次は不要客気でいこう。李潭は中橋の辺りに詳しい? 包子の旨い攤子、知らないかな?」
「今、住んでるところは中橋の近くだから、知ってるけど、茶房でなくて……」
李潭は、問う言を呑み込んだ。韶華に、酒楼に入れるほどの銭の余裕がないことを思い出したのである。
「察するの、遅いよ。請客して、とは言わないけど……それと、なにか事があって呼んだんでしょう。なに?」
「事ってわけじゃ……」
黙って歩く李攤を見て、韶華は友の幼いころの姿を思い出した。
素養に恵まれ、明哲で知られる少年は、己の情感を露わにすることだけは、不善であった。評論ならば、韶華が飽きるまで語るというのに、である。
しかしその評論さえも、今はあまりしていないのかもしれない。いつぞやの官吏が指摘したように、世に漠然でありすぎる。論を戦わせる友のひとりでもいれば、そうはならないだろう。
「いやいや、友がいないとまで、決めつけるのは……」
「なにか言ったか」
「いえ、特には。暑いからさ、あとで氷を食べない?」
「冷たいものは身体に悪い」
「そうだけど! 少しくらいいいじゃないよ! どこの膠固ですか!」
「あんまり、騒ぐなよ……おまえ、牢騒少女とか言われてるだろ」
「どうして知って……」
「もたもた歩いてんじゃねえぞ、老頭子」
荒い口気にふたりが振り向くと、中橋の半ばで、ひとのざわめきがなにかを囲んでいた。
流気たちが白髪の老爺に集っている。と気づいた韶華が、そこに踏み込もうとするのを見て、李潭は慌てた。
「えっ……まさか、止めるつもりか」
「あんな敗類に、好きにさせておくわけにいかないでしょうが」
「打手か、介士に任せろよ」
「中橋の上なんだよ。打手は来ないし、介士だって、南北どちらの主持かで迷う。あれは分かっててやってるんだよ。まあ、見ててよ……もう、武を知らないわたしではないのですよ!」
哄笑――まではしなかったが、韶華は男のひとりに飛び蹴りを喰らわせた。狙が襲いかかっているようにしか見えないが、確かに武術は得たのだろう、少女の脚だけで、男は倒れた。まさに一蹴である。
「なんだ、おまえは!」
「敗類に教える名など、ない! でも、牢騒少女と呼ぶのは許す! ただし、呼んだら……」
「うわあ、西街の凶狼子だ! 大哥、逃げましょう!」
覚えてろ、とも言わずに、ばたばたと男たちが走り去る。送料外に、活力のない流気であった。
韶華の手と脚は、行き場を無くして、ふらふらと妙な踊りをすることになった。
「なんですかねえ……わたしの別名だけが、増えてゆくような……」
「これで良かったんだよ。危ないなあ」
「その通り。小玉、こんな老爺のために、危ないことはしてくれるな。なにかあったら、そなたの双親に面子が立たぬよ」
言って老爺は、持っていた拐棍を軽く鳴らした。
李潭には、なんのことか分からなかったが、韶華には分かった。老爺の持つ拐棍は、仕込みのある武器なのだ。
助けはいらなかったかもしれない、と思う韶華に、老爺は微笑んだ。
「だがまあ、助けてくれてありがとう。妙年の好女の声は、聞いてて良いものだ。私も久久の宮都で、ぼんやりしていたようだ。この界隈にあった寓所も見つからないしなあ……」
「なんというところですか?」
李潭が尋ねた。
「八仙館だよ。知っておるかね」
「それなら、西側の新館だけになりました。もう新しいとは言えませんけど」
「おお、そうか。ありがとう。ではそちらに行くよ。礼というほどではないが、これで旨いものでも食べてくれ」
いつでも渡せるようにしてあったのか、紅い包みを李潭に握らせ、老爺は西に歩き出した。老いを感じさせない矩歩に、背粱の伸びた姿は、細弱しいところは少しもない。拐棍はただ、防護のために持っていただけらしい。
「古怪なの……わたしの綽号を聞いたくらいで、逃げるような愚人がさ、老人っていったって、勝てそうもないひとに、よく絡んだよね」
おまえの凶狼の名はそれだけ恐れられているんだよと言えばなにをされるか分からないので、李潭は黙って包子を買った。老人からの支援により、肉入りの大きなものである。
ふたりは甘河の旁で包子にかぶりついた。暑さも凌ぐ、熱い肉汁の旨味が口に広がる。
「……淵淵は、官吏になりたいんだよね? 税を払いたくないから?」
「幼名はやめろってば。それに、おまえが官吏をどう思ってるかが、よく分かる言だよな、それ。違うよ」
「それならやっぱり、お父さんを悪く言われたことの報仇?」
「故人って、これだから……」
大息を吐いたあと、李潭は大路のひとびとへと目を向けた。
「今は、ぼくも分かってるさ。父親が律学助教から上に行けないのは、門路がそこまでだったからで……才能があれば、もっと上に行けるなんて妄語だ」
「妄語かな……」
「今はまだ、妄語だと思う。でも、皇上がどんな官吏を起用しているかを聞くと、変わるかもって……思うんだ。それに、皇太子は才能で決めるべきだって、仰っているそうだよ」
がふげふと喉に詰まった包子を、韶華は急いで呑み込んだ。
「李潭、その皇太子サマって……どういうひとか、知ってる?」
「知らないのか。絳帳の世子って呼ばれてるんだ。玉帳ではなく、絳帳に養われたからだけど、気派な考えをお持ちで、皇上が抑えられないような、古い門閥を……新しい者と替えて行くんじゃないかって、言われてる」
言のわりに、李潭の表情が冴えないのは、新しい世を期望させるということが、一面では、新たな政争の兆頭にもなると知っているからだ。
上代皇帝、さらに、その先の皇帝が多くの妃に多くの子を生ませ、後果、継承に禍を残して棠梨は乱れた。
第四皇子でしかなかった弄月が、皇帝になった――なれたのは、丕子であったはずの者たちが、重重と亡くなったことによる。それは決して偶然ではないと、今でも言われている。
「だけどさ……官吏の間では、殿下は至公で知られているんだ。なにしろ、東宮官の許で養育されていても、その名門を」
「文官としては、側に置いてないんだよね……」
「ああ、そうか。おまえは徐将軍と知り合いなんだっけ」
羨むような大息が、李潭の口から洩れる。だがすぐに顔を上げた。
「まあいいさ。おまえが誰と門路を作ったって。ぼくだって、資蔭をもって官吏になろうとしている。白衣から見れば、狡いだろうよ。だから……殿下にとっての、新しい者にはなれないかもしれないけど、それでも力になりたいんだ。望舒党なんかに市人の希望を托すなんて、許してはいけない」
「望舒党……って、なにをいきなり」
「西街にいるんだから、知ってるだろう。納賂を貯め込んだ大家や、貴族の館梯から盗んだ銀両をばら撒いたり、街を荒らす坏人を捕まえたりしてる賊のことをさ。ああいうことは、政をする者がすべきことだ」
「えっと……李潭が望舒党の同路人とは、思わなかったり……」
「同情なんかしてないさ。ああいうことを、もっと正しく為すべきだって、皇太子も仰っているって、聞くぞ」
「皇太子が」
「あの匪賊、このところ動きがなかったけど、預告があったんだってさ。なにをするんだろうな?」
望舒党に対する思いは複雑であるらしく、憤りながらも李潭の声は嬉しそうに聞こえた。
だから韶華が李潭に言うべきことは、なにもない。包子をありがとうとだけ呟いて、大学に戻った。
そこでは腹痛に苦しんでいたはずの教授たちが、没事もなく課を始めようとしていたが、韶華はなにも言わなかった。
心目はすでに、白果舎にある。
韶華は、絳帳の世子が冬栄であるということを、堅信していた。




