秘密或奥妙
「お父さん……一瞥されるくらいならいいけど、少しは隠れるつもりでいて」
韶華の詰る言にも、季児を抱えたまま、父親は答えなかった。
かなりむくれているのが分かるので、弄月に瑠璃を取られたように思っているのだ。こうなると、なにを言っても無用である。
韶華は軽く肩を竦め、ふたりを残して凉亭を出た。
弄月には驚かれたが、父親を後宮に入れても、なにも乱子は起こらなかった。
姿だけなら痩せ女――子への情に凝り固まった女妖であり、今天、紅女史ら女官は訓練を見に来ないことが分かっている。だから後宮に、痩せ女の目撃信息が増えることはない。
女兵などは、父親を見ても瑠璃の内侍くらいに思っているようだった。
石榻に群がっていた女兵たちが、近づいて来る韶華に気づき、道を開けた。
「小妹、これは……?」
女兵が示したのは、石榻の上に積まれた書籍。どれも武術書であったため、気になったらしい。
韶華は書籍を手に取った。
「後宮の武術について、調べたいことがあったんだ。後宮でも、今まで女兵が存在しなかったわけじゃないでしょ? 紅女史に訊いたら記録があるっていうから、見せて下さいってお願いしたんだ」
宮城の内に、女官たちが勤める命婦院という殿があるが、そこには珠砂院という書院ならぬ書庫が附設されている。
韶華はそこにあると思われる、かつて女兵の課本として使われていたものを捜したいと女官に申し出たのである。
見るだけということで入る許しを得たが、韶華には、それで充分だった。『見』さえすれば、借りる必要はないからだ。
ところが女官は、急に表紙だけしか見ることを許さないと言い出し、舌争となった。
果然として、韶華は貸し出しを可能にさせた。しかしながら、女官が全面的敗北を喫したわけではなく、その場では、表紙だけしか見せないことを譲らなかった。
「そんなで、表の字から察したものなんで、真的に武術の書籍か怪しいんだけど」
「あっ、そうですか。そうですよね、良かった……あの、それは武婦人の……なんですよ」
「え、武婦人?」
持っていた書籍を慌てて開く。びっしりと字で埋め尽くされているが、間違いなく、武術書ではない。男女の房事に係わる書であった。
「秘方っていうから借りたのに、姓だったのっ!」
「それは韶華が差錯をしてたわね。後宮ですもの、そういうことのほうが、重要でしょうね。まあ、それにしても」
淑英は児女の手から書籍を取り上げ、首を傾げた。
「韶華、そんなに武術を学びたいの? 武挙はまだ、考えてるだけでしょう」
「うーん……武人っていうのは、鍛錬してこそでしょう? 子どもたち……景景もそれで学びたいって言ってるんだし。わたしは、鍛錬という意思では、遅れてると思うのね。だからまず武術書を覚えて、模倣してみようかなって。ただね、兵営にある武術書も見たんだけど、個兒の違いはどうにもしがたくて……」
「そうねえ。わたしたちには、どうしたって一手で戦斧は振るえないから。もっと軽くて、でも堅い材で作っていたら、なんとか?」
「やっぱりお母さんは、分かってるね! そうなの、細い棒だと、当てても折れるし、ことによっては痛くもないし。だけど重さがあると、こっちが振り回せないんだよねえ」
世には剛性や慣性というものがある。力量を考えずに、そのまま模倣してみれば良いというものではないのだ。
母親の持つ棒を見ながら、自在に伸び縮みしたら便宜なんだけどなあ、と韶華は呟いた。
「お母さんは、どうやって強くなったの?」
「教えてもらったのよ。当然でしょう、ひとりでここまで強くはなれないわ」
「あれ、そうなの? お母さんは、わたしに武術を教えてくれなかったから、実践だとばかり」
驚く韶華から、母親は困ったように目を伏せた。
「誰に教えて頂いたか、訊いても構いませんか。女人に教えて下さる師は、なかなかおりませんから」
「ワタシも、杜監の強さの秘訣を知りたいです」
「別に隠すことでもないわ。わたしに武というものを教えて下さったのは、考……韶華には老太爺よ。脚が悪かったけれど、とても高強なひとだったわよ」
「老公公が」
姉の朱蕣が生まれる前に亡くなったので、杜家では存在を感じることはほとんどない。というより、全く知らないといっていい。
「老公公の話、あんまりしないよね。わたしの使ってる作房が、元は杜家の一部分だったってことくらい?」
「そうね。あそこは、お父さまが使ってた屋子だったわね。お父さまは、若いころは官吏だったのよ。その用具が置いてあったと思うけど」
韶華は、ふたつの意思で驚きを隠せなかった。
ひとつは、祖父が官吏だったということ。もうひとつは、置きっぱなしになっていた、あの怪しげな用具が、官吏の使うのものだということだ。
「筆に針を仕込むとか、杖が鋸を兼ねるとか、どんな官吏ですか……」
「脚の創傷で辞めたと聞いたけれど……お母さんが生まれる前の話だから、よく知らないのよ」
「なんの話?」
ふわりと甘い香りとともに、朱蕣が現れた。手にしているのは、青梅だ。凉亭では、果汁を幼い少女が痩せ女と楽しんでいる。
「びっくりだよ。老公公が、官吏だっていうの……わたしは知らなかったよ」
「それは……わたしも知らなかったわ。だとすると、あなたが大学に行くのって、真に悍然ってわけじゃないのね」
言われてみればそうか、と韶華も頷いた。
親が官吏であれば、子には資蔭がある――つまりは品子とみなされる。孫までとなると、あまり低い官吏では意思がないかもしれないが、白衣よりは良い。
たとえば学堂の同輩である李潭は、品子として律学に通っている。韶華も正式にそれができるということだ。
「武官でも文官でも……少しは出息が考えられるってことかあ」
「小妹、官吏っていいですよ。税が免除になりますからね」
「そんな便宜な話が!」
あるんですよ、と翠雀は微笑んだ。
「兒の父親が、州刺史の帳内の管家でした。まあ下っ端ですから、豊かに暮らせるわけじゃないんですけど、優遇はいろいろとありましたよ。兒も品子として、税の一部分は減免されていて……それで丈夫が亡くなっても、どうにかやっていけました」
「そういえば、翠雀さんには、お子さんがいらしたわね。今は……?」
「兒の母親が照料してます。いずれみんな、宮都に呼ぶつもりですが……」
翠雀の話に誘われるようにして、女たちは郷里を懐かしそうに語り始めた。
近くはないが、遠くもない棠梨の領国の話は、ただ聞いているだけでも楽しい。
しかし韶華は朱蕣に袖を引かれ、静かにその場を離れた。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「韶華は、今天、女官たちが訓練を見に来ない理由を、知っているかしら」
「詳しくは知らない。忙しいと言っていたけれど、誰かが来るんじゃないかな。弄げつ……皇上が政務向きの衣装だったし」
暑さにやられたかの如く、朱蕣が前額に手を当てた。皇帝が政務を行うような殿に、入り込んだのかと問い詰めたいのかもしれない。そこに父親までいたんだよと言ったら、倒れてしまいそうなので、それは伏せておく。
「と……とにかく、わたしも今、知ったの。キュウからの使いが来たって」
「きゅう……ああ、キュウ!」
北方の国、棠梨の四方に在る異国の内、最も敵対的であった大国。憎み合うだけの争いを続け、果てに棲む獣の巣とまで呼んで蔑んだ。
弄月が皇帝となってからは、争うこともなく、交易さえある。大婚と聞けば祝辞を述べに来ることも、あり得るだろう。
珍しいなと思うだけの韶華に、朱蕣は思いの外、厳しい目をしてささやいた。
「韶華、お願いがあるの。お父さまから目を離さないで。どうしてかは分からないけれど、お父さまはいつも……遠くを恐れているのよ」
それは気のせいだよ、と言うことは、できなかった。
父親の目が、どこか別のものを見ているように思えて、小石をひとつ呑み込んだような心目になったことは韶華にもある。
父親が殊方の血を引いているのは間違いようがなく、なのに郷里を出た理由を話してもらったことはない。それを尋ねようとして、できなかった時に感じたのだ。
父親は、郷里を出た理由を隠しておきたいのだ、と。
「お姉ちゃんも、分からないけど……感じてるんだね」
朱蕣の畏れているものを、韶華は明白に感じ取れていないかもしれない。
だから、頷く。
預感など、外れたらそれで良い。追悔しないために、できることはする。
その思いは同じはずだ。
***
父親と母親はともに帰るというので、韶華と瑠璃は、ふたりで後宮を抜けた。
朱蕣から頼まれたばかりでもあるし、父親を置いて行くのは躊躇ったが、母親もまた、なにかを感じているようで、ならば頼っても良いだろうと判断した。
あまり探る情態をあからさまにして、季児に気づかれるのも、困るのである。
もっとも、瑠璃はもらったばかりの組紐に著迷で、父親が一同でないのも気にしていないようだった。
青梨路を通る時など、老牌の店頭に並ぶ、気派な料子と見比べては、満足そうに頷いている。
だから韶華も幼い妹に合わせ、いつもより、ゆっくり歩く。先を歩く人物の背影に気づいたのは、そんな時だった。
「あれは、もしかして……」
三環髷を黄花蓮で飾り、透けるような雪青灰の裙裳と枝緑色の襴が爽やかな、世に自身ほど美しい女はいないという自尊に満ちた、若い令媛。従う姉姉にも覚えがあれば、差錯しようもない。高郁李である。
「郁李姐姐?」
振り向いた郁李は、雅やかに微笑んだ。
「巧遇だったわ、小妹。杜家に行く中途なの」
「頼まれてた香だよね? もうできてるけど、急がないんじゃなかった?」
郁李は含みを持たせた表情を、故意に見せてから口許を袖で覆った。
「早く楽しみたかったのよ。だってね……」
緩やかに流れる視線が、韶華の旁にいる幼い少女の上で止まる。言おうとしていたことを忘れ、郁李の目が、少しだけ見開かれた。
郁李も、瑠璃が韶華の幺妹であることは知っている。ただ、幼子の寝ぼけていない面貌を見るのは、初めてだった。
どうしたって、殊方の血を露わにする碧眼である。分かっていても、驚かないでいるのは難しい。
しかし、幼子が怯えて姉の後ろに隠れる前に、郁李はふわりと屈み、視線を合わせた。
「久達ね、小季。わたくしのこと、覚えているかしら。あら、彩精な組紐を持っているのね」
「うん……優しい、姐姐……」
「まあ、嬉しい。美しくて、優しいと覚えていてくれて」
「えっ、令女……一言、増えてますよ?」
正しさは時に、ひとを怒らせる。郁李に睨まれ、姉姉は封口した。
「それでね、急ぐつもりはなかったけど……わたくしの訂婚が、決まって、忙しくなりそうだから、香を取りに来たのよ」
「ああ、そうなんだ! 恭喜! 棠梨の皇帝を振った意思は、あった?」
「あったわよ。大いにね」
軽軽しく言わないところからすると、かなりの大家なのだろう。
もしも婚家が北洛にあるのならば、郁李には、大減価で姉に会ったとしても、驚かないで欲しいと言わねばならない。
片づけたばかりの作房でよかったと思いつつ、韶華は郁李を招き入れた。烏黒の衣が入った函は脚で蹴飛ばし、卓子の下に押し込む。
「ねえ、香を取りに来たのって、わたくしで末了かしら?」
「そうだね……あとひとり、使丁が来るのを待ってるけど、これは期日が決まってるのだから」
大嫂への贈物だと聞いている。
「じゃあまだ知らないかしら。あの納女考試を受けた女人は、だいたい訂婚が叶ったそうよ」
良かった、と考えながら、なにかが引っかかった。
だいたい。つまり、ほとんど。すなわち、ごく僅かが含まれない。ゆえに、
「南洛の顔甲粲女……! あれが残ってる……!」
密かにささやかれる外号は、男たちの間だけのもの。初めて聞いたらしい郁李が吹き出した。
「それ、王家の三姐妹のこと? あの令媛たちは、そういえば、まだね」
「聞くところによると、皇太子の後宮を狙ってるとか……」
「まあ、狙うだけなら許されるわよね。白衣の女なら、朱蕣くらい覚察しないと、不成でしょうけど」
郁李の説法もぎりぎりなように思われる。それは覚察すれば、皇太子妃になれると言っているのと同じだ。
韶華の旁で、瑠璃が目を輝かせていた。
「あら、小季は皇太子妃になりたいの?」
「ううん、瑠璃は顔甲粲女になりたい!」
それはちょっと……と姉と令媛の呟きが重なった。
「まだ望舒党のほうが、正当だわ」
「それも困るって。ええと……香幃と、こっちが替えの香。もし婚家で香が気に入られたら、訂購を受け付けますので……」
分かっているわと郁李が笑う。それは夏令の炎熱を払うような、爽涼な笑みだった。
嬉しそうな郁李を大路まで見送り、韶華は小さく息を洩らした。
婚礼を上げる前の女人は、あんなにも幸せそうに見えるものなのだ。ならば長姉は、どうなのだろう、と。
「韶姉……おうちに帰ろう」
瑠璃が硬い声で韶華を呼んだ。姉たちの矩歩に合わせたので、疲れたのだろう。
「ごめん、暑いよね。お母さんたちが帰ってくるまでに……おやっ」
目の端に、男の後影がよぎる。藍雪路に向かって進むそれは、冬栄――白果舎の同事の姿だった。
「なんだろ、急いでるなあ?」
「瑠璃、帰る……」
「あ、うん、分かった。帰ろう……って、瑠璃、どうしたの」
帰ろうと言いながら、しがみついて離れない妹の古怪さに、韶華はようやく気づいた。
額頭を姉の腰に押し当て、かたくなに見ようとしないのは、藍雪路の方角。暑さゆえに、ひとの通りも少なく、動きといえば、不久前の冬栄だけだ。
「あのひと、怖いから……帰る」
「えっ? あのひと、瑠璃になんかしたの?」
幼子の結い髪の小さな飾りが、否定で揺れた。
「悪いのは瑠璃だから……それに、弄月の令令が……お話ししようとしないから、怒ってるんじゃないかって、静影哥哥が」
「うん、瑠璃……ごめん。意思が分からないんだけど、あのひとが、なんで皇帝と話しをしなくちゃいけないの。てか、そんな料だったんかい」
「だって、子ども……だから」
モウイッカイイッテ。
「あのひと、皇太子なんだって」
韶華の額角から一条、汗が流れ落ちた。




