少女閑話再
長姉の朱蕣が住むことになっている『大厦』は、海棠宮と呼ばれるのだと、聞いている。
しかし、入れるのは招かれたひとだけで、真的には、妹でも入っては不成であるらしい。
姉と会えなくなってしまう。それが、家人を後宮に妃として入れた者の定めなのだ。そんなふうに界隈でささやかれる風聞に、瑠璃は怖くなって、定めってなに、と父親に問うたところ、わりと守られない約定という答えだったので、少しほっとした。
こうして常常、小舟に乗って宮城に行き、長姉に会えるのも、わりと約定が守られていないせいだと思うのだ。
定めを守らなくてはいけなくなったら、どうしようとも思うが、その時は、もうひとりの姉、韶華がなんとかしてくれるはずである。
杜家以外の者が聞いたら、胡説を吹き込んだのは誰だと暴れ出すかもしれない。
とはいえ、瑠璃のような幼い少女が宮城の内にいても、気にする者はあまりいない。弄児か小女かと思うくらいだ。
そもそも、後宮で働く女たちは、瑠璃が誰かを知っている。小さな手で打掃をする姿を愛らしいと言い、来るのを楽しみにしている者もいた。
特に、子どもを郷里に置いてきた、女兵の韋翠雀などは喜んだ。彩りも鮮やかな組紐を幼子に贈り、喜ぶ笑みに慰めを見出している。
そうして手にした組紐を、誰に見せようかと考えつつ、瑠璃は気ままに宮殿を歩き回っていた。
「あとは、あと……紅太太?」
きつく髪を結い上げ、洒脱な簪で飾った、背粱の伸びた女官はしかし、話しかけるのに少し労心が必要だった。
後宮というのは、しきたりの多いところなので、瑠璃のような子どもが来ることを良く思っていないらしい。
その心目はよく分かるが、いずれ父親に、しきたりとはなにかを訊かなくてはならないだろう。
「そうだ。弄月の令令のとこに行こうっと」
ぱっと階を駈け降りて、塀の空子を抜ける。そこには広い石造りの路があって、瑠璃は、あまり行かないようにと言われているが、弄月に会うならば、そこを使うのが近路だった。
はずなのだが、違うところを抜けてしまったのだろうか。行きついた先は、瑠璃の知っている形の宮殿ではなかった。
「あれ……?」
静かな樓道にいると、また、あの怖いひとに会いそうで怖い。しかし、柳の木の揺れるささやかな音が聞こえるから、違うというほど、遠い場にいるのではないらしい。
瑠璃は、さらさらと流れる音に向かって歩き出した。音が聞こえなくなっては困るので、ゆっくりと、静かに、そうっと、角を曲がる。
そして息さえ止めた先に、黒い影があった。
影が振り向く。
炎天の影より濃く、黒い髪と衣の男が、近づく幼い少女を見る。邪鬼さえ逃げ出すような、冴えた魄力を持つ目だった。
彼のことを、瑠璃は知っていた。だが、
「……窮鬼?」
言って、首を傾げた。
魁頭でもないし、黒い衣も、門のところにいる介士と似た、井然としたものを着ている。それでも確かに当前にいるのは、間違いなく家で見た窮鬼。
けれどここは宮殿で、杜家のような白屋ではない。貧窮なはずはないのに、窮鬼がいるのは、古怪しいのではないだろうか。
「あっ……! もしかして」
瑠璃はぎゅっと口を閉じて、窮鬼を見た。
窮鬼は姉の朱蕣が好きで、家に居ついていたと聞いている。つまり、後宮に来た姉について、宮殿に来てしまったのだ。
そうすると、ひとがいないのも、みんなで配合して打掃をしなければならないのも、理解できる。こんなに気派な大厦なのに、窮鬼が来たために、ここは、貧窮になってしまったのである。
隠しておかなければ、と重大な決心をした瑠璃に、窮鬼は盛大な嘆息をくれた。
「弄月だな」
幼子が答えを迷う間に、黒い影は背を向けて歩き出した。
置いて行かれてしまう、と思った瑠璃が慌てて追うと、窮鬼は黙って手を差し出してきた。
瑠璃は、すがるようにその手を握った。あまり温かくはないが、大きく受け止めてくれる手だった。
幼子の矩歩に合わせるように、ゆっくりと歩き出す影を見ながら、瑠璃は握る手に力を込めた。
碧眼にも驚かず、行きたいところも知っている、古怪な窮鬼に会えて良かった。
固然、ずっとこの窮鬼がいるから、瑠璃の家は貧窮だったのだ。そしてこれからは、宮殿を貧窮にする。窮鬼がいなくなれば、もう杜家が貧しさで困ることはないだろう。
でも。
「あのね……有時は、瑠璃の家に、来てもいいよ?」
窮鬼の肩の辺りに大息がたゆたっているのは、小さな少女には見えなかった。
代わりに瑠璃の目に知った扉が入ったところで、いきなり黒い衣の男は姿を消した。消えても窮鬼だからと驚きはしなかったが、少女を迎えたほうは、影の内から猛然と現れたように見えたらしい。ひどく驚いた表情をしていた。
「瑠璃、よく入って来られたね。誰かに見つからなかったかい」
是とも不是ともつかない答えで支吾し、瑠璃は椅子に洩気たように座った男に駆け寄った。
「太太にもらったの、令令に見せに来たよ。どうしたの、疲れてるの?」
「少しね。話を聞かない者が多くてね……」
そう言う弄月も、よく話を聞いてないと姉の韶華に言われていたような気もするが、瑠璃はふうんと頷き、男の手を撫でた。
「お父さんがねえ、お母さんにこうしてもらうと、疲れが取れるって言うの。瑠璃はまだしたら不成って言われてるけど、少しだけね」
「うん、疲れが消えて行くのが分かるよ……いいなあ、児女がいるって。嗚呼……このままうちにいて欲しいなあ。でも、そんなことをしたら瑠璃のお父さんに殺されるかもなあ」
「お父さんは、ころさないよ? 呪うだけだよ? 瑠璃を欺負た景景も永児も、眠れなくなったり、転ぶと必ず石があったり、棘が手に刺さったりしたよ」
「そうか。怖いなあ。余は瑠璃を欺負たりしないけどね」
内心では、足許手許に労心しようと、弄月は誓った。
「今天は、令令の衣も玄なんだね」
幼子を並んで座らせ、棠梨の皇帝は首を傾げた。も、と言うからには、玄衣を見たのだ。
しかし、玄は皇帝のみが身に着ける色である。道士や武将に許されている黒い色とは別のものだ。子どもの目には、同じように見えるだろうことを考えると、誰か将兵に会ったのかもしれない。
「黒甲だと武侯か? それとも……いや、まさか。こんな小さな子に見つかるはずがないよなあ」
首を横に振る弄月の動きに沿って、冠の纓が揺れる。それは仔猫を誘うように、幼い少女の気も引いた。
「そんなに大きな被り物だと、空子を通れないね。紐も木に引っかかっちゃう。だから令令、後宮に来ないの?」
「行きたいのだけど、いろいろと片づけることがあってね。それに、婚礼もまだのうちに行くと、それこそ岳父に殺されそうだよ……」
「ガクフ……難しい言を知ってるんだねえ、令令。瑠璃も早く学堂に行って、読書したいな。それで成年になったら、静影哥哥と、かんのうしょうせつ読むんだ」
「停っ? 等等、瑠璃。官能小説って? 静影……静影がどうしたって?」
「静影哥哥、お父さんのかんのうしょうせつの愛好者!」
どこに驚きの重点を置けばいいのか、弄月は激しく迷った。
あの膠固にして真卒な男が官能小説を読むことか。あの痩せ女――子を置いて逃げた情に凝り固まった妖怪にも見える、杜家の主が官能小説を書いていたことか。
あるいは幼い子が、父親が官能小説を書いていると知っていることか、それを読みたいと言ったことか、よりにもよって静影と読もうとするところか。
だが、差錯しようがないのは、静影が官能小説を持っているという事実である。冠を被っていなければ、髪を掻きむしっていたかもしれない。
そして弄月の平静は、ふと旁を見ることで、さらに失われた。側臉を抉りかねない目光の、痩せ女がそこにいた。
お父さん、と言いながら幼子が駆け寄る。
愛児を取り戻したものの、妖女ならぬ父親は、未だ棠梨の主を許していないらしく、髪を一束噛みしめ、睨んでいる。生気と肉を甦らせれば、天地創生の女神もかくやという美貌であっただろうに、今は石化蛇髪女にも劣らぬ呪いを撒き散らすだけのものと成り果てている。
誰だ、あれを宮城に入れたのは。
問うまでもなく、幕後が潅木をかき分けて出て来た。濃い栗色の結い髪から葉を払い、弄月と父親を見て、死定了という表情をする少女――韶華だ。
「あ、工作中? 麻煩かけてごめん。すぐ後宮に戻るから」
「待ちなさい、アレを後宮に入れるつもりか?」
片刻、韶華の顔色から情感が消え、すぐに戻った。
「海棠宮っていうのは、女人の情が染み着いてるんですよね。宮城でも、古いらしいし、いろいろ怪がいるみたいで? 怖いわー冒失、遭っちゃったら。呪われないように、見ない振りしないとねー」
弄月はなにか言おうとした。しかし言うべきことはなにひとつ口から出てこず、父と子どもたちが去って行くのを見送るだけとなった。
***
揺れる茂みに焼栗色が消え、広殿が清静に覆われる。
愛らしい少女と、その大度な姉が残した微かな熱が失われただけで、そこはひどく寂静とした場に思えた。
かつてはこれが、弄月の過ごす時だった。
ただひとり、空間を占めていること。
欠けたものに、なにもない時だけを入れて、息を殺すこと。
万世と群臣に一人と呼ばれるまで、全てを忘れていることが。
だが今は、青冥から響くものが艶やかな花を連れて来て、ひとりで在ることを禁じる。後妃など、貴族たちを黙らせる借口でしかなかったのに、あの明るい楽の音のような少女の声が、花を選ぶことを許した。
追悔は、していない。
けれどまだ、覚察が足りていないかもしれない。
しかし今の弄月に、それを突き詰めて考える時は与えられていなかった。ひとりの太監が来て、小さな呟きを残す。
僅かに眉を顰める。
すでに料想していたこと――北方の大国キュウからの使者が来たという知らせであったにも拘らず。




