東山再起
特別の印證を以って、上学を釆納させるものとする。
韶華の手に渡された封信には、迷いのない正統な筆迹で、そう書かれていた。
大学に行く前に韶華が得たのは、證明信だとばかり思っていた。しかし、そうではなく、執照だったのだ。
「これを……書いてくれたのって」
「私だ。国子監は、つまるところ太常寺の管轄ゆえ、少なからず門路を開くことができる。必要ならば、また見せるがいい」
重明の口気は草率だが、筆迹と同じくらい正統な情態だった。
確かにこれなら、静影が言ったように、出て行けと言われただけでは辞めたことにならない。大学の側が韶華を排したつもりになっても、そんな主張は認められない。
「ここまでしてもらえているとは、思わなかった……」
「ふん、おまえが作ったあの香は……宮中の全ての者を惹き込んだ。その才能を、抛っておくのは惜しい。それに、我らが一人の后妃となる女人の妹が、愚かであっては困る。なのにおまえときたら……上学させれば、世の理を学ぶだろうと思っていたものを……第一天から、牢騒少女の別名を戴くとは、どうにかならなかったのか?」
「第一天っ? いや、そんな、全く聞いてないんですけどっ?」
もっとも、後口を当人に言うはずがないので、知らなくて当然かもしれない。
頭を抱えた韶華へ、重明はさらに指摘を続けようとしたが、小さな叫門がそれを止めた。
「王香試、新しい香は、叶いましたか……」
「おお、来たか。噴出一口香、その名も『殺殺魂魄』ならば、ここに!」
「これが『殺殺魂魄』!」
「そうだ『殺殺魂魄』だ!」
「その名称、どうにかならないんですかっ」
韶華の助言が顧みられることはなく、重明は、目を輝かせる同事たちに鍋を披露した。
「なんと芳わしい……大金櫻も凌ぐ甘さ!」
「馥郁たる香りに、惹きつけられますな……! 嗚呼、王香試、良い刻に呂宰相をお連れできました……! ささ、呂宰相、お試し下さいませ。これを飲むだけで、対手は殺殺魂魄!」
「な……なにやら恐ろしく聞こえるのだが、神異なものができたようだな……」
涙眼だ香試たちに押されて出て来たのは、納女考試の場で見た文官だった。
あの時は、とても偉そうだと思ったものだが、宰相といえば、偉そうであるのが当然の位である。香試たちに怯える情態からすると、そこそこ真正な質なのかもしれない。
とはいえ韶華は白衣で、呂公は達官。できるだけ見ないようにしたものの、向こうが先に気づいた。怯えたように、彼の好む花紋の入った羅綾の袍の袖を、ぎゅっと握り締めていた。
「なにゆえ、あの奇病……いや、香の才能はあったのだったな。香試の新手として迎え入れたのか?」
「いえ、小官の推挙により、大学で学ばせております。進士との討議には、教授たちも瞠目結舌したもので、答案も頭等であるとか」
王重明、香りに迷っていても官吏には違いない。ものは言いようを余すところな
く示し、韶華に向けられた呂公の怪しむ視線を、賛美を含む驚きに変えた。
韶華が学ばなければならないと思うのは、こういう時かもしれない。課本を覚えるだけでは、足りないものだ。
香試の、次はおまえだという動作を受けて、韶華は拱手をした。
「白衣ながら、特別の篤を以って国子学に上学させて頂いております、杜韶華と申します。未熟ではありますが、棠梨の一人のために、励むところでございます」
呂公が頷くのを見て、そのまま後ろに進み、作房を辞する。ここでの事は、全て終えた。
褒めてくれたのに、香試を褒める言がでなかったのは申し訳なく思うが、出ないものは、やむを得ない。香を配方するのは嫌ではないけれど、将来の選択に、鍋を囲んで鼻先に香りを扇ぐ恍惚のひととなることは、入れたくないのである。
なにになるにしても、ほかを当たろう。
それだけは心に決めて、韶華は国子学に向かった。
***
じわじわと攻めるような暑さは室内にも及び、窓を開け放したところで、熱風に課本を撫で回されるだけとなる。
貢挙の期日までは、まだ間がある――どころか、今年はないかもしれないとまで言われると、学生たちは諦めたような、ぐんなりした情態で課を受けていた。
逆に、教授あるいは博士たちは、学生など目に入らないかのように忙しくしている。
往年の祭祀でも、儀礼の章法について、入微に礼典を見直す。まして大婚、百年に一次か二次、係われるかどうかの大事には、略微であろうといかなる差錯も許されない。教授たちも、尽きぬ労心を求められていた。
専長に依らず、それぞれの教授たちが話し合うことも増え、だから、律学で学ぶ李潭が国子学に来たのは、忙しい教授の代わりに書籍を届けるためだった。
門の内に入れたとしても、国子学に通うためではない。耳房で待てと言われたのも、たまたま教授の名望を知っている者が、李潭を出迎えたからで、ただの好運である。
そんな李潭に運をもたらした使丁と対峙するのは、韶華にとって、晦気だった。大学しか知らない彼は署名を見ても理解せず、監のところに向導しないどころか、追い返そうとした。
韶華が麻煩になって、進士の妹ですと言うと、ようやく耳房で待てと言う。呼び出して、確かめるつもりであるらしい。
「ああいうのを、膠固が過ぎるって言うんじゃないの、全く……」
「小……杜韶華っ?」
「淵淵、じゃなくて李潭。もしかして、国子学に通うことにした?」
「違う! ただの……教授の使いだ。おまえこそ、なんで……」
回神して李潭は口を閉じた。韶華が国子学に通うつもりであることを、思い出したのだ。
「ちゃんと上学するって、言いに来たんだ。家から近いのは四門学だけど、国子学は宮城に近いじゃない。兵営なんか、すぐそこだし。だからまあ……どうせ行くなら、ここかなって」
「好きにすればいいよ。おまえなら、どこでだってやっていける……」
牢騒少女と呼ばれるのが、やっていけると言うのかは、分からないが。
「……それにしても、待たせるねえ。あんまり待たせたら、入っちゃうよ。内側は知ってるんだし」
「止めろよ。今、東宮がお越しなんだから」
「東宮? ってつまり、皇太子……」
「そうだよ。ぼくが世に疎いっていうなら、おまえは宮中に疎いんじゃないか……ぼくだって聞いたばっかりだから、詳しくはないけど、大婚って、すごいことなんだぞ。殿下が皇上のために自身で……博士たちに、お尋ねになるくらい……なんだからな」
「自身で尋ねる、かあ……」
短い間であったが、国子学で教えている者の質について、韶華にも分かったことがある。言っている李潭も律学助教の息子で、気づいているから、言が滞りがちなのだろう。
博士たちは礼法の大典を守ろうとするあまり、色読が過ぎて、それぞれで解釈が異なってしまっている。にも拘らず、討議などで、ひとつにまとめる気などない。
おそらく皇太子は、答えの出ない討議に心煩し、急かしに来たのだ。
もっとも、そう考えないと、返らぬ答えを待つ貴人のために、いつまでも待たされることになってしまう。
(出直すかなあ……でも、わたしはいいけど、李潭は……)
使いで来ている彼に、出直しはない。なんとかしてやりたいが、当面に学監に話をつけるとなると、その場にいるであろう皇太子を、昏倒させなければならない、かもしれない。
(それはちょっと……あっ、でもわたし、皇太子の姨なんでは?)
まだ朱蕣は弄月に嫁いでいないが、姉の継子は、大きな括りで韶華の甥だ。家人としては、敬えと――と言えるのでは。
可行。韶華が立ち上がると、待っていたかのように、戸が開いた。
「俺の預感も、ここまで当たるようになるとは」
「静影っ? どうしたのっ、皇太子を守りに来たのっ?」
「守らねばならないようなことを、おまえは、しようとしているんだな?」
棠梨の将の紫石の双眸が、優美な、しかし怒りを表す天弓の下で、鋭い光を放っていた。
なぜこんなところで静影と会うのか。という問いは必要ない。韶華が香試に会いに行く理由は、知っているのだ。そのまま国子学に向かうことくらい、送料の内であろう。
「えっと……中飯はどうでした? なかなか良かったでしょう?」
「含糊すな。殿下が博士を質すと聞いて、待たされる者がいるだろうと思って、迎えに来たんだ」
「待たされるどころか、追い払われそうでしたよ」
「それは、間違っているな」
紫石の査牙しさが急に緩み、韶華は笑いそうになった。どんなことに対しても、真誠で正色な情性に変わりがないのが、静影の好処だ。
「気にしないで。こうして待ってるってことは、追い返されなかったんだし。それにさ……わたしが言うのもなんだけど、迎えに来たって、皇太子を? 怒られるんじゃない?」
「いや、それはない。俺は、博士たちを煩わせないで下さいと頼んだのだ。それに対して、当然だと仰られたにも拘らず、訪れている。約定を無用にした上に、おまえたちのような、市人の時まで奪うのは正しいことではない」
その至高な言に深く拝礼すべきであるが、白天に乗黒暗襲撃は良くないと言われたような気にもなる。
李潭も同じ心境だったらしく、ぼそぼそと呟いた。
「このひと、徐将軍だね。膠固で知名な……」
「膠固って……それ、どこまで知られてるの。誰から聞いた?」
「え、誰でも知ってる……左領左右府将軍だろう? 東宮官を勤める名門でありながら、武官になったっていう……」
「静影、ひとりだけ武人なんだ!」
「気になったのは、そこか」
韶華の視線の先で、静影は苦笑していた。
北衙禁軍の世襲ではないが、官吏の職は、一門で引き継がれることが多い。文官は文官の、ほぼ同じ系統の職に就く。武官は当人の力量が重要となるが、資蔭――家属が得ていた品に、縛られていることに変わりはない。
いずれにせよ、武と文を変えるのは、たやすいことではない。また、名門であればあるほど、変えようとしないものだ。
静影は、いろいろあってな、と呟いた。
「俺の太父は、先の東宮の左庶子を勤めた。それで……わけあって皇上がまだ第四皇子であられたころ、徐家で……お預りしていたのだ。皇上の元妃の徐小君は、俺の叔母にあたる。亡くなられたことで、殿下を徐家に迎え入れたから、俺と殿下は兄弟のように育った……だがそれは、東宮に仕える家だとしても、あまりにも近い係わりだろう? 俺の父親は東軍官には就かず、尚書の官吏となるを選んだ。そして俺は」
「ひとり! だけ! 武人に!」
「そこまで強調するな!」
言では怒っているが、静影の笑みは、気の抜けたようなものに見えた。
「とにかく殿下に戻るよう、申し上げて来る。もう少しだけ待っていてくれ」
「ありがとう」
静影が耳房を出るや否や、李潭が胸を押さえた。哮喘であった幼いころの癖で、驚くと、いつもそうしていた。だから驚いているのだろうが、ひどく灰心しているようにも見えた。
「おまえ……徐家のひとと、そんなに親しい口を利く……のか」
「親しく見えるんだ……うん、まあ、そうかな」
「いつも、そうなるんだ」
「ん? なにが」
「それが、特別なことだって、気づいてない。相好だから、話す。楽しいから……そう思ってるだけで、親しくなれるんだ。それができない者のことなんか、分からないだろう」
どう答えようか、韶華が考えていると、李潭は微かに笑って、もういいと話を打ち切った。
「おまえはいつも、そうなんだ。朱蕣が后妃になるからじゃなくて、そんな門路がなくても、多くのひとと知り合うんだ。たまたま、とか、好運なだけ、とか言いながら。それが……羨ましい」
多くは舌争から始まる知り合いだが、それでも羨んでくれるのだろうか。
と、言っても羨みそうなくらい、李潭が暗い顔色をしているので、韶華は封口した。
やがて使丁が呼ぶまで、ふたりの間の気息は、ひどく重苦しいものとなった。




