官人神聊之二
棠梨において、市人が軍として見知っているのは、南衙軍と呼ばれる者たちのことである。
当然、北衙軍もある――のだが、その名を使う者は、いない。
彼らは武挙などで集められる南衙軍とは違って、世襲の武人であり、皇帝のためだけに在る。
皇帝だけが、彼らを動かすことができる――ゆえに、禁軍と称されている。
禁軍が動けば、皇帝が居心を持って、軍事を為しているということ。禁軍が万世の当前に現れるのは、誰にとっても望ましいことではないのだ。
「しかし……当代の皇上は」
続く言を戴江龍は呑み込んだ。
韶華という、官吏でも武人でもない者が臨席しているのを気にしてだろうが、無用な関心は、却って困る。
が、韶華は聞かない振りをして、剛剛持って来られた膳に話題をずらした。
「どうぞ、どれもいいよ。甘めなんだけど、回味が大方だと思う」
「確かに」
気息を変冷させた当人である天帥が、まるで係わりがないかのように、好吃と言いながら炒青菜を食べ始めている。それを見れば、静影も江龍も、苦笑するしかなかった。
「近くはないから、天天通うというわけにはいかないが、ここは、覚えておいてもいいな。西街は、賭銭と妓女で知名だとばかり思っていたよ」
「西街を来るのはいいが、乱子を起こすなよ。おまえの知る条理とは異なる、古い街だ」
「なんだか、感じ入った言だな。誰かに言われたか」
「……まあな」
「街を見れば分かるさ。ここにはないもののほうが、きっと少ない。北洛に多いのは、変態くらいか」
ごふ、と武人ふたりが喉に青菜を詰まらせた。
眺めているだけの韶華に及ぼすものはないが、立ち去り時を失ったのは痛かったかもしれない。続く話が想料できてしまった。
「天帥、な、なにを、言っ……」
「宮都を徘徊している拭い魔って、あれだろ。あの迷于香」
こともなく言う官吏の服の色を確かめて、韶華は堅信した。
むせる武人たちには悪いが、真実はすでに、顕官たちの内では明らかであったようだ。というよりも。
「あのね、静影、直率に言っちゃうとね……介士もみんな、なんとなく気づいてたから、張望を嫌がってたんだと思う」
「なんだって」
「左武侯軍のひとは、静影と親しいでしょう。だから、あれと故人なのを知っているわけで、つまり……冒失的に捕まえて、真面目が明らかになったら困るだろう、と考えたんじゃないかなあ」
静影がまさかという視線を江龍に向ける。しかし見つめられた左武侯軍の男は、声を出せないまま、激しく否定した。
金石人の友は、やはり金石人なのかもしれない。大息を吐いた韶華が、
「あれだね、左武侯軍で知らないの、きっと、そのひとだけだと思うよ?」
と言うと、
「有常有常だな」
のんびりと次の斉を楽しんでいた天帥が応じた。
「まあ、静影よ。気にするものでもあるまい。拭い魔も、ここしばらく出ていないようだから……なんだか、望舒党と互換な気がするよなあ」
「張郎中! それは、あの香試が匪賊とかそういう……」
「そこまでは言わないよ。だってあいつが欲しがるなら、銀両じゃないだろ。でも、あれだけ宮都を騒がせた匪徒が、やつが主文の納女考試が始まったら、出なくなって。そして終わったら、望舒党は出ないまま、拭い魔が徘徊してるんだよなあ……」
「しかし……! 狙うものが違いすぎるではありませんか!」
銀両と、幼子の口許と。
紅龍の焦りは、都の巡察を請け負う武侯軍として当然のものだ。知己だからと見逃していた者が、匪賊であるかもしれないというのは、最も真実であって欲しくないことだろう。
前髪の影になって見えない静影の紫石を気にしながら、韶華も俯いた。
(不妙な……このままでは、あの迷于香が望舒党に思われるっ……)
あり得ないと、言ってやれれば良かったのだが。
当前にいる少女こそ匪徒であって、彼は係わりないと。
「ま、どっちも出なくなったから、良いんじゃないか? 香試は作房にこもりっきりという話だし……これで望舒党も出なくなれば、泰平だ」
「出ないと良いんですが……」
居たたまれなさを押し殺し、韶華は静影に微笑みかけた。
王重明が作房に居るというのは、喜訊だ。これで、すれ違いにならずに済む。
「今なら行けば、王先生に会えそうだね」
「ああ……そうだな。おまえが行くことは、伝えてある。大学のことを、井然と話してみろ」
ほっとしたように、静影が応えた。
大学の言で思い出すものがあったのか、天帥は炸魚片を取る手を休め、韶華を見た。
「もしやあれか、きみが牢騒少女か!」
「わけあって名を伏せたのに、その別名で呼ばれたら意思ない! てか、送料が正しいのか不妙!」
「だから、望舒党の模倣は止めろと……」
静影の声は震えていた。笑うなら隠さずに笑えばいいものを、笑ってはいけないという真卒さが、却って不行儀を引き立てている。
むくれる韶華に、静影は宥めるようにささやいた。
「ひとつ言っておくと、拭い魔はもう現れない、と思う」
「そうなの?」
「あいつは……至高の果を手に入れたようだ」
至高の果がなにかを考えると、姉としては許しがたい気もするが、杜家の季児に変わった気色がないので、報仇は保留することにした。
「じゃあ……ここは辞して、行くね」
「ああ、待て。天帥が食べ尽くしそうだが、膳を少し包んでもらうつもりだ。老板に言えば、おまえの家に届けてもらえるだろうか?」
「えっ、いいよ。静影が食べなよ。わたしのはちゃんと一套、別に細算してもらっちゃったからさあ」
よく見れば、蒸篭に入った包子の数は三である。主客四人で揃えるものが、すでにひとつ短少となっている。
「いつ俺が請客と、決まっ……」
紫石の双眸が韶華を探すが、その姿は消えていた。代わりに、
「主将、早くしないとなくなります。蝦巻蒸は旨かったので、残せませんでした」
「おーい、老板。烏梅漿も!」
不要客気の輩が、ふたりも席に残っていた。
***
甘河を渡り、北洛に入ると、風色はがらりと変わる。
西街のように商人たちが行き交う忙しさはなく、大路に並ぶ気派な門板が、客を待ち構えている。
さらに進み、貴族などの館第が並ぶ街になると、もう静けさだけが全てとなる。
おそらく北洛で最も忙しないのは東城で、夏至の休みが終わったせいか、官吏たちが歩き回っていた。
しかし、王重明のいる作房の門は、古怪なほど寂静――身躯にまとわりつくような、黒沈香の濃厚な香りが、辺りを占めていた。
韶華は作房の狭い門をくぐった。
「王先生、います……よね?」
扉の外から声をかけるが、送料通り、回答はない。
僅かに待って、扉を開ける。
「暗い……」
思わず洩れた言の通り、室は闇夜のようだった。
香を配方するにあたって、特に暗くする必要はなかったはずだが、香試はひとに見られたくないらしい。
香りと熱と、沸き上がる小さな音に支配された間は、ひどく暑苦しいのに背粱が冷える。なにか見てはいけないものがあると、心目が騒いだ。
「光臨歓迎……熱烈歓迎……」
洩れ聞こえる音が重明の呟きと気づいて、韶華は冷戦した。
煮え立つ鍋を覗き込み、邪神を召喚するかのように、呟く男がいる。
あんなモノに、係わってはいけない――言えば、誰もが頷くはず。
けれど。
「瑠璃のなにかで、不成なことするの止めてよね!」
韶華は窓を覆っていた幕を、勢い良く引き剥いだ。
「あああッ」
悲鳴とともに、重明の身躯が大きく仰け反る。
「ああ、煮えた……煮えて融けた! これを冷ませば……!」
「ええ? もっと煮詰めて、粘りを出さないと、使えないと思うんだけど」
「その必要はない! なぜならば、これは」
「まさか飲むやつ?」
「そうだッ、なぜ知っ……あ? なぜ牢騒少女がここに居るッ?」
「その牢騒少女が! 礼に参りました!」
韶華は重明に向かって幕を投げた。別名はどこまで轟いているのか、考えたくもない。
しばらくもがいていた重明が、もさもさと幕を分けて貌を出した。
「私は忙しいので、礼など……そういえば純麗なる容止、神釆は玉を凌ぐ輝きを放ち、妖冶なる妙香をまとう幼子は、長相にいかなる突出も見出せぬおまえの、幺妹であったな! 壮健であられるか?」
固然、壮健であるが韶華は不顧した。
「香の湯薬って、芳香要術でも希奇な香料ばかり使ってたはずだけど、よく揃えられたね。螢惑なんか五葉……うわ、なにこれ」
案子に投げ出された、いくつもの函。中には珍奇な匂いを放つ、香木や香料が詰め込まれている。
淡い黄褐色の塊は、間違いなく乳香。刻みかけの螢惑の赤い葉が、砧板の上にあるだけでなく、大盂に盛られているのには、驚きを禁じ得ない。
作房の内には、いつか見た家での光景の、さらに上を行く稀少さが、広がっていた。
思わず振り返り、香試の顔色を見た。まだなにかを考え、恍惚としている変態だが、これが宮中の香を引き受ける分際というものなのだ。
「こんなのあり得ない! 螢惑の木を絶滅させるつもり? 弱い木なのに、こんなに葉を毟るなんて!」
「失礼な、毟ったなどと! 確かに採取はしたが、絶滅なぞさせん!」
「するでしょ、これだけ毟ったら! 北斗丘でもそんなに生えてない木なのに!」
「北斗丘っ? 北斗丘のものには手をつけておらぬっ」
領子を絞め上げる韶華の手から逃れ、重明は肩で大きく息をした。
「だいたい天時が周密な香の材を取りに、北斗丘まで行っていたら工作になるものか。我らが香試の叡智を以って、天井で培育しているのだ! 見るがいい!」
閂がかかっていないのか、扉は易易と開いた。直後、室内の蒸した熱と、外からの熱風が混ざり合う。
煮熟した風を撲面から受け止め、韶華は目を凝らした。囲墻に反光した炎陽の眩しさのために、よく見えないけれど、一次覚えた形を間違えたりはしない。螢惑、そして――重明の指し示す先には、言ってみれば、全てがあった。
「楓樹だ。水寫と……えっ、吉祥草っ? 雪山に生えるのに? でもあれって毒草だよ。いいの?」
「うむ、詳しいな! 芳香要術を読み込んだだけはある。まあ、ここは薬園も兼ねているのだ。これらは、棠梨の皇帝のための薬材でもある」
「そういうことか。でも螢惑が、こんなに近くにあったんだ……」
知っていたら、韶華は宮都の北で、泥に塗れて歩き回らなくても良かったのに。
ただし、人家のものと分かっているので、採取すればまさしく狗盗だ。
「兵営も近いし、東城の内側だけど……納女考試の紛事の正中、これだけの香草があって、よく盗まれなかったね?」
「香試を甘く見るな。一葉、いや、花芽を僅かひとつ摘んだとしても、必ずや匂いを辿って見つけ出す!」
まあすごい狗ですかとは言わなかった。幼い少女の匂いを嗅ぎ当てる男ならば、盗んだ者を逃さないだろう。
「このひとが京城の巡察だったら、不妙だったな……」
「なにが不妙か。そも、香とは薬である。皇上の壮健を守るために、我らは秘方を極めるのだ。今作り上げた香などは、飲めば胎内より香りが生じ、しかも口より吹き出したそれは、嗅いだ者を死に至らしめるのだぞ!」
「それって、殺手ですよねえ……」
しかし韶華には、重明を責めることはできない。秘方は秘方だ。かの秘籍には、その香、全ての者を殺し、果てさせん――とあった。
だから起先に読んだ時、韶華もこれを作ろうとしたのである。殺すを暗喩と取って。
材が集められない上に、やはり湯薬ではどうかと思い、考案としては却下した。
次の項が蛇王毒とあって、ここで真正の毒物と気づいたわけだが、重明は気づかなかったのだろう。
「不顧したのかもしれないけど……迷于香としては、毒物でも香ができたら、九泉に沈んでもなんでも、いいんだろうねえ。だけど悲しむひとだって……いると思うよ。わたしも、大学に入れるようにしてくれてありがとう、と言おうと思って作房に来て、門口の傍らに、薄汚れた筵の掛かった王先生の遺骸があったら、たとえ目を見開き、口許に笑みを浮かべていたとしても、哀しいよ?」
「なぜに歴歴と零件を描写するッ。思い浮かべてしまったではないかッ」
重明は冷戦すると、扉を閉めた。
「杜韶華、おまえは私に、感謝感激を言いに来たのか」
「そこまでじゃないけど……そうなのかな」
韶華は儀止を正し、重明を見た。混ざり合った室内の甘い匂いを、栗色の結い髪が揺らす。
「わたしはもう少し、国子学で学んでみたくなりました。でも一次、追い出されてしまったので、謝りに行かなくてはなりません。そのために、改めて介紹信を頂きたいのです」
お願いできますか、と韶華が言う前に、重明は机案の上の函から封信を取り出していた。




