官人神聊之一
宮都甘棠の北西、宮城の内にある庁事のひとつで、男が懐に忍ばせた扇を取り出した。
扇面から、栴檀の香りが立ち上る。鼻腔に香りを満たし、男は受け取ったばかりの文件に、もう一次目を通した。
それは往年の行である、五品以上の仕官の安否を示したもので、見たところ、武官たちに大きな入れ替わりはない。それを武人たちがどう思うかはともかく、動きのなさは、戦がなく、世が泰平であることを表している。
さらに、新緑の令に長く降った雨も、心事になるほどではなかったようで、今年も五谷の成果は期望できるらしい。
とはいえ、気を緩めることはできない。颶風によって、全てが無用になることもある。
呂宏達は、丸窓の外を眺めた。
短い夏至の休みが終わり、月が変わった。
納女考試のために、政務に滞りが出ているが、今月でなんとかこなせそうだと聞いている。
あとは棠梨の帝の行幸と、納后の詮議と大婚の程序を決めるだけ。
しかし、この詮議こそが――揉めることは明らかで、また、収める法子に迷いもあって、ただただ、呂公の悩みとなっていた。
***
「爺爺ッ、なんとかするのは、我らだと分かってないだろ!」
樓道に出るや否や、男は足を踏み鳴らさん勢いで叫んだ。
傍らにいる静影に比べ、個兒は女人のように苗條で、容貌も清秀であるが、声だけは差錯しようもなく男のもの。低く、朗朗とよく響く。
苛立つ心境も分からないでもないが、誰かに聞かれていないだろうかと思いつつ、静影は故人を宥める任務に就いた。
「怒るな。相公は処理した文件を扱うゆえに、待つのが処境なのだ。それもまた、おまえの好まざるものだろう」
「固然だとも。だから当面に言わないよう、労心したんだ」
「確かに」
いつもの彼であれば、言っている。
それゆえ、この美貌の友、張天帥の丹花には毒がある、と言われるのである。
「なんといっても、今年に限っては、忙しいのはオレだけではないからな……仕官の名冊を改めるのは、この月毎次のこと。嘴碎的に言ったから、京城に勤める武官についてはすぐに終わった。おまえたちの働きには、感謝しかない」
「おまえの言ではないが、毎次だからな」
「その毎次が、なぜか領国では難しい……随叫随到というわけには、いかないんだよな」
大息を吐く天帥を見ながら、都城から出ない者に、棠梨の広さを教えるのは難しいと静影は知る。
静影自身も、初めての任が東宮の千牛備身で、東宮太子、すなわち皇太子とともに西棠に赴いていなければ、理解できなかったことである。
「地図を見て、分かった気になってすぐに出向くのも、どうかと思うしな……」
「そんな無謀な者がいるのか」
いるのだよと答える前に、静影の内心では、とある少女が天帥に蹴りを入れていた。
「ともかくだな、天帥……おまえはこのあと、尚書の庁事に戻るのか?」
「オレはおまえと違って、中飯も食べずに勤しむつもりはない」
天帥は三次手を動かして、正門の向こうを示した。尚書の政事堂は、端門の外にあるが、そこから止車門、閣門さえ越えて、甘河の向こうへ渡るつもりであるらしい。
つまり目的は、南洛の酒楼である。
「どこか良いところを知らないか? たまには違う酒楼がいい」
「俺に訊くのか」
「日来、西街によく行っているとか。妓楼を教えろとは、言わないが」
「よく行くわけじゃない。いろいろあるから、特に重明が……」
西堂の階を降りたふたりの前に、ひとりの若い将兵が現れた。
「徐主将、張郎中、中飯ですか? 本将も同行して構いませんか」
「これは戴将軍。本官に断る理由はありません。ともに西街漫歩と参りましょう」
天帥の言に、若い将兵は嬉しそうに頷いた。
「西街なら、徐主将の勧めですね?」
「どうして皆、西街と俺を繋げたがるんだ。それにな、江龍。もう俺の手下じゃないんだから、主将と呼ばなくていい。左武侯将軍となった今は、俺の同輩だ」
「分かっているのですが、やはり、習いというものがあるので……」
「お喋りは酒楼ですればいいだろう。我的肚子餓了。さあ、急ごう」
待ち切れなくなった天帥が、武人ふたりに先だって歩き出した。
「やはり行くのか……」
静影は小さくぼやいて、天帥を追った。言い出したら聞かない友である。
ただ、静影自身も、西街に行くことを強くは否定しなかった。
西街は宮都の内でも隆重を誇る。誰かに尋ねたなら、良い酒楼のひとつも教えてもらえるだろう、と軽く考えていた。
***
少年が一歩踏み込むと、たん、と棒が跳ね返された。これが結尾と全副の一打であったのに、軽くあしらわれる。
驚くより先、認真って重重と叩いてみるが、全て受け止められてしまう。
韶華としては、争気を褒めてやりたいが、苛立ちは無用だと教えるために、景景が諦めるまであしらい続けた。男女の力気の差がでる齢までは、技より心目を鍛えることが重要なのだ。
疲れた脚がもつれると同時に、ぱこん、と頭頂を叩かれて、少年は地に倒れ込んだ。
「もうっ、韶姉ッ……負けたッ」
「言い直して?」
「負け、ました……」
韶華は、好と言って少年の置いた棒を拾い上げた。
「動作そのものは悪くないよ。でも振り回すのに慣れてきたなら、次は居心をもって、動かしてみて」
「そんなの……できた、ら」
労苦はない。そこは韶華も頷けるところだ。だから、慰めるように少年を引き起こし、肩を軽く叩いた。
「ほら、立って。哥兒們が来たよ」
「凶狼……じゃなかったあ、姐姐」
ばたばたと騒がしく、界隈の悪童たちが来る。だが、彼らの頭目である景景を見て足を止めると、悄悄とささやきあった。
「景景、また叱られたんだあ。なにしたんだろ」
「違うよ、瑠璃と遊ぶために挑んでるんだよ」
「えええー勝てるわけないのにィ」
「瑠璃のために耐えてんだから、言うなよお」
「二三子、停!」
韶華は双手を拍打した。かつて静影がしてみせた、騒ぐ子児らを収める動作である。効果はあって、お喋りはぴたりと止まった。
「きみたち、わたしに事があって来たんじゃないの?」
「そうそう。雪茄路でえ、困ってる?」
「紛事なんだ? それなら家母に……って、今天はいないんだっけね。でも、あの大路なら、すぐ打手が来るでしょう」
「うん。来てる。で困ってる。ほら、姐姐が作房で役使してる、大哥が」
「誰が役使したかッ! じゃなくてっ、静影のことなのっ?」
韶華が急ぎ雪茄路まで駆けつけると、客引きと大男の間に入って、かの棠梨の将が困っていた。
大男が武人なので、静影が客引きと揉めた友人を宥めているのだろうと思ったのだが、よく見ると、さらにふたりの後ろで苗條な官吏が打辺鼓していた――客引きを。
「いいじゃないか、強さを見せろ。勝った者の酒楼に行ってやるから」
「不行、これだから中飯で遠行は嫌なんだ。天帥は飢えると、麻煩だから」
韶華は嘆息した。官吏の恣心で西街まで来たものの、店を迷い、この様態であるらしい。
どうしようかと迷っていると、静影が韶華に気づいた。
「韶華! 良かった、早く菜を出す酒楼を知らないか」
「早さはともかく、食べるなら、絳雪酒楼でいいと思うんだけど」
「俺もそこしか知らないんだが、あの酒鬼がいつ来るかと思うと、やつらを連れて行くわけには……」
あまり考えたくないことだが、料想としては正しい。
騒ぐ男も武人も、それなりの顕官だろう。衣装を変えたとて、皇帝の面貌が見分けられなくなるとは、思えなかった。
「それじゃあ、向導するけど……動気しないでよ?」
おお、と頷く紫石の双眸から目を逸し、韶華は一行を、とある楼閣に連れて行った。
***
「へえ、良いところじゃないか」
「白天っから、入れるものなんですね……しかも飯食だけ、で?」
だけですよね、と武人の目が静影に向く。しかし彼の元上官は、額角を押さえつつ、沸き上がる怒りを、ひたすら住口することで耐えていた。
「ええとですね、ここは金葉梨楼と言いまして、知るひとぞ知る妓楼で、単間でと頼めば、飯食だけでもできるんですよ。ただ、妓女の小姐たちを呼びたいのなら、中午は預定が必要で……」
「妓女はいらんな。では一餐」
弄月の如くひとの話を聞かない男が、老板に告げる。そして、戻ろうとしていた韶華にも声をかけた。
「それで、小妹は静影と、どういった係わりの者だ?」
「どういったと言われましても……」
よく――分からない。というのが、韶華の内に浮かんだ答えだった。
ともにいると楽しいが、人家から見ると、役使してると思われているようだ。友と言ってしまえば分かりやすいのに、なぜか、韶華の口は、その言を出そうとしない。
とりあえず、偽の投稿をする静影の鹿追偵人を捜す者です、と答えるのは、なしであろうか。
「なあ、この店の名は、なんだった? 金葉梨楼か?」
「なんなの、没常識なの! 興趣がないなら、訊かなければいいのに!」
「いや……あるんだけどな。ハラが減っていると、どうも散漫で」
男は、そうだオレは張天帥だと草率に名乗った。
「こっちにいるのは、戴江龍。左武侯に勤める者で……そういえば静影、おまえは一人の行幸に同行するのか?」
自身で言うだけあって、呆れるほど話題が跳ぶ男だ。半戴に聞いているだけに、弄月より質が悪い。
静影は黙った韶華をちらりと見て、答えた。
「今年は簡化して、同行するのは左領軍の一部分だ」
「どういうことだ?」
「宮都に、介士たちを残しておく打算だ。宮城の女兵が揃うまでは、領軍は后妃の侍衛も兼ねるからな」
「だから左右の武侯軍も、甘棠に残るんですよ」
「戴将軍まで残るのか? それじゃあ、皇上の防身を担うのは誰になるんだ? まさか禁軍?」
すっと室内が変冷した。




