要香幃之一
棠梨国の宮都は、国の名と同じ意味の甘棠と呼ばれている。
皇帝の住まいたる宮城を北に、官庁を置く皇城がその南、さらに周りには民民の暮らす京城が広がり、これら全てを城壁で囲み、方形の都城を成している。
その都は中央を甘河によって東西に貫かれ、大きく北洛と南洛とに二分される。そして南洛の西南の角に、方形を僅かに乱すようにして突き出た『西街』と称される街があった。
宮都が城壁で囲まれる前からある一角で、殊方に通じる外門を持ち、市も備えているため、多くのひとが集まった。棠梨一の斜巷でもあり、大路の華やかな楼閣が訪れた者の目を引いた。
だが細い路に入れば、寄せ合うように房子が並ぶ――そういった香青路の白屋のひとつに、韶華たちは住んでいた。
狭い居室の内で、姉妹が同じ牀几に座り、篇子を読んでいる。
後妃の考試について、二親はやはり良い顔をしない。だから父親が珍しく外へ行くと言ったあと、母親に急な差事が入ったのを見計らい、姉妹だけで策を練ることにしたのだ。
「誰でもいいの? 瑠璃でも? これなんて書いてあるの」
「考試は宮城でしますって……でも読む限り真的に、齢に制限ないよね。いいのかな」
まあ、少小すぎれば、申請する時に断られるのかもしれない。韶華は読めない字を読もうとする妹をちらりと見た。
「敵手は少ないほうが良いけれど、府上で選びもせず、いきなり宮城でだなんて、集まる数が多くないと思っていないと、できない判断だわ。それとも考試の内容を知られたくないのかしら」
首を傾げる態も艶めかしく、朱蕣が言った。
「でも考試っていっても、貢挙とは違うわけだから……踊りとか……謡もあるかもね。だけどお姉ちゃんなら」
「不難!」
「ねえねえ、これは? これは、おんなって読むよね?」
小さな花兄が女礼の字を指した。
「そう、女子の礼法のことね。容止佳くして娟秀を望……さっさと美人求ムと書けばいいのに、繁冗わー……ま、これも」
「草草了事!」
不意の大望を前にして、朱蕣の瞳が黒真珠を思わせる輝きを放っていた。
自尊にあふれた姿に異を唱えるつもりはない。杜家の長姉は、女として求められる全てに、ずっと磨きをかけてきたのである。
「彩衣では令媛に敵わないけれど……素粧のようだから、どうにでもなると思うわ」
「素粧って?」
「粧扮はしてもいいけど、あんまり面貌を盛るなってこと」
韶華の答えを聞くと、幼い少女は不満そうに両の手を頬に当てた。
「それにしても……この要香幃ってなに? 香幃を納めてどうするの」
姉の疑問に対して、韶華は皇帝の亡くなった妻が良い香りがしたから、と言いかけ口を閉じた。後妃を狙おうという者の前で、元妃の話題は相応しくないような気がしたのだ。
「まあ……考試の一つらしいよ。香が好きなんだって」
「迷于香なの?」
「どこでそんな詞彙を覚えてくるのよ、瑠璃……」
「みんなが言ってたよ。だから瑠璃も覚えたの」
「みんなって誰」
朱蕣の声に咎めの色が混じる。不穏を感じて瑠璃は慌てて目を逸した。
「だって永児が悪いんだもん……そしたら張太太が……」
韶華は名が表す字の印象に反して顔色は寒々しく、紙片のように薄い身体の女性の姿を思い浮かべた。
大路の富豪の婦人だが杜家の姉妹、殊に瑠璃には優しい。それは張家宗子である永児の、少女に対する不行儀の埋め合わせでもあるのだろう。
「でね、府上にはね、明天行けばいいんだって!」
「明天? 篇子には書いてないけど……」
韶華に疑われ、瑠璃は丸い頬をさらに丸くした。
「太太が教えてくれたんだもん。蕣姉に篇子を渡した時に、言い忘れたから伝えてねって。配ってたひとが、言ってたんだって。太太はそこでもらったから、思い出したみたい」
「瑠璃! 報春路に行ったのね!」
「ごめんなさい」
朱蕣に叱られ、瑠璃はぱっと顔を伏せた。
界隈では上品な類に入るものの、報春路は大きな酒楼が立ち並ぶ賑やかな路だ。治安はそう悪くないのだが、酔客に絡まれることがあるので行かないようにと母親からきつく言われていた。
「どうして行ったの! 大娘だって、医院に向かうのでなければ通らない路よ」
「だから、永児が悪いの。景景と追っかけてきて」
「あの……悪童……」
柱に寄り添う影が、ぎりりと歯を噛みしめた。
「許さない……」
お父さんと呼ぶ姉妹の声は届いていないようだった。目に暗い怒りの火炎をともすその姿は、痩せ女――貧しさから我が子を置いて逃げた女の情が凝り固まった妖怪に似ていた。
「こんなことなら知らせに戻らず、呪いに行けば良かった……」
「いやあの呪いはイイから。なにを知らせに」
「韶華! どうしましょう! 店が空っぽになるわ!」
父親に続き、長棒を持った母親も居室》に走りこんできた。またすぐ行くつもりらしく、足踏みをしたままである。
「ひどい風潮になってるわ! 大路での防護を頼まれたんだけど、店頭でお客が暴れているのよ。団積してるの! みんな、怒って掴みかかったりして、すごいことになってる!」
「私もそれを知らせに……」
「まあ、郎君も?」
ぽっと頬を染める二親の仲の良さは微笑ましいが、韶華はそれどころではなかった。香の値が高騰するのは送料のうち。しかし、買い占めまでは考えていなかったのである。
「どうして。作る量なんて知れてるじゃない……いくら大家でも、持て余すような無駄はしないと思ったのに!」
「私もそう思っていたよ。香商だって余りを買い戻すとなれば、宰法られることくらい分かるだろうと。存外、理性のないものだね……」
「わたし、出かけてくる!」
韶華は卓上にあった書籍を掴んだ。もともと白果舎に返す期日である。
「買えるかどうかは分からないけど、商店にも行ってみる。帰るのは少し遅くなるかも」
「お母さんも、もう行くわね」
慌ただしく母子は家を出て、香青路の角で別れた。