群芳神聊
萎れた草坪に水を撒くと、くすんだ草緑色が小さな雫をまとい、輝く。それを見るだけで、風に含まれた熱が少し緩んだように感じる。
やがては蒸してくるだろうが、暫且でも暑さを避けられるなら、それで充分だった。
午下の陽は強烈だというのに、後景にいる母親は、まだ訓練を止めそうにない。
韶華は凉亭の下に戻り、小碗を抱えた瑠璃を見つめた。
杏子蜜を混ぜた、砕いた氷を頬張る幼い妹は、とても嬉しそうで韶華も嬉しい。
その並びに座って嬉しそうな弄月も、まあ許そう。
「だけど、老兄は不妙ではないですかねえ、静影大兄」
「俺だって、そう言ったよ」
柱に擬態するかの如く、へばりついていた棠梨の将は、低声で呟いた。
庭院とはいえ、ここは後宮である。成人前の皇子ならいざ知らず、皇帝以外の男が居られる場ではない。
氷をひとつ噛み砕いて、自身以外の男を庭院に連れ込んだ皇帝が微笑んだ。
「まだ主となるひとが入っていないんだから、構わないさ」
「皇上……紅女史に、その借口が通るとお考えですか」
弄月は少し間をおいてから、多半ねと答えた。
その間こそが、真の答えなのではないかと思うが、韶華はなにも言わずに凉亭を出た。掛け声が止まったので、母親と女たちに氷を届けるつもりでいた。
「あら、あなたは食べなくていいの?」
母親らしい関心で、淑英が韶華に問いかける。乗便にもらうからいいよ、と愛児が答えると、頷いて荒い息を吐く女たちを呼び寄せた。
革の甲を身につけた女たちが、よろよろとやってくる。訓練の激しさを思わせるが、同じように炎天に身躯を晒していたはずなのに、母親の清涼な気色には、韶華も驚くばかりである。
「あ……ありがとうございます、小妹」
女は言うと、融けかけた氷を口に含んだ。紅くなった白浄の肌理も細かく、珍しいほど身高がある女人なので、北の生まれだろう。
ほかの女たちにも、と碗を差し出してよく見れば、出身はさまざまなようだ。
「でも数は、思ったより少ないね」
「この大娘たちは、後宮の兵をまとめる、寮佐として官位を受けることになっているの。守兵を揃えるのは、これからよ」
「ああ……そうか。まず主導する者を準備しないとね」
「地方で、納女考試と同時に選抜を行っていたそうよ。後妃が決まったら、都に来るという約定で」
「決まったら、の約定かあ……」
それはつまり、後妃が決まらない、ことも考えられていた――という意思でもある。
凉亭の下、瑠璃に糖果を渡している弄月を一瞥した。
彼に続弦する打算は、なかったのかもしれない。投考するのは庶人ばかり、皇帝が誰も看上しなかったので可惜再見、で処理できたのだから。
「遠くから来るのに時間がかかるでしょう。それで先に選抜を始めたらしいわ。いずれ甘棠の近くでも、するようだけど……そちらの準備は全く整ってないようね。そんなだから武挙は……いつできるのか、分からないわ」
「いいよ。武挙に決めたわけじゃないんだから、焦ることないし」
「まあ! 大学に行く気になったのね!」
淑英の喜ぶ声を聞きつけて、木陰に入り、落ち着きを取り戻した女のひとりが、感嘆の声を上げた。
「おお、うにぶ! やはり宮都はすぺさるですね。命捧げ、真理を求めし学究の徒が、もくぜんにいるとは思いませんでした」
「いや、命を捧げたりはしませんけども……」
あるいは彼女が住む地方では、そういうところなのだろうか。楽しそうだが、命までは捧げたくない。
韶華の惑う様態も気にせず、巴旦杏の実の形の目を煌かせ、黒髪の女兵は嬉しそうに手を握ってきた。微波のようにうねる巻き毛が美しい女人だが、喜ぶ表情は子どものようだ。
「ワタシは星江那です。母が、西方の公主の装送として棠梨に来ました。婚礼の前に公主は亡くなりましたが、母は父を捕えたので、帰りませんでした」
「捕えたんですか……」
「是、網で。でも、ワタシが生まれたと郷里に知らせると、太父がワタシを寄越せと言ったので、ワタシは母の郷里で育ちました。ただ、十二で嫁に行けと言われ、それはのうせんきゅうだったので、縄で縛って出走をしました。甘棠に来られて幸せです。青棠の首都では、ワタシだけが行けると直截して決まりましたが、武術は自尊できます。老太婆が教えてくれました」
さらりと気になる言を混ぜつつ、江那は楽しそうに来歴を語った。
韶華の家も、それなりに理由ありと言えるだろうが、世には、いろいろなひとがいるものである。
「わたくしも、選ばれて嬉しいです。白棠の辺縁で育ったものですから、甘棠は憧れておりました。行ってみたいという願いが叶っただけでなく、まさか宮城で働けるとは……これでもう父が、訂婚者を投げ飛ばすのを、見なくて済むと思うと」
こちらも、どうにも奉告しにくい事由で来ているようだ。
(まあ、前夕まで行く行かないが決まらないとなれば……当然だよね)
「あっ、杜監。紅女史がいらっしゃいましたよ」
「うわ欠佳ッ」
背粱を伸ばした女官の姿を見て、韶華は弄月たちを、抛っておいたことを追悔した。少なくとも、静影は帰しておくべきだった。
紅女史とは一次会っただけだが、静影以上に頑固であることが分かっている。今の女主のいない後宮で、全ての行を記録しているのだから、ひとつの緩みもあってはならじと厳しくなるのはやむを得ない。とはいえ当前に立たれると、怖いと思ってしまうのである。
不出所料、弄月は激しく叱責されていた。凉亭の旁にひとり離れて立たされているのは、もしかしたら、そばにいる幼い少女を慮ってかもしれない。静影は変わらず柱を自認している。
(これは……蒼鷹に啄まれる鳳凰の図だね……)
珍しいというほど珍しくないのは、かつて静影に強烈怒斥されている姿を見ているからだ。
とはいえ女史も事があって来たのだから、韶華たちは拝礼しなくてはならない。近づく気にはなれないが。
「杜監!」
「はいッ?」
淑英の声も希奇なくらい高かった。
「この柱を外に持ち出し、この奇人を送り返しなさい。でなければ、杜娘君を向導できません!」
「蕣姉っ? 蕣姉はどこ? 令令がいると、来れないの?」
早く去ねとまでは言われずに済んだが、幼子の求めに応じなければならない男の背影は、涙を誘うものがあった。
「紅女史……わたくしたちも、杜監とともに行かなくて良かったのでしょうか?」
「貴女たちは、杜娘君と会って頂きます。然後、主としてお仕えするひととなりますが、今は未だ……ほかの名で呼んではなりません」
表情を引き締める女たちに頷くと、紅女史は辺りを団団と見回している幼い少女に、あちらを、という比書をした。
午下の暑ささえ、忘れさせるような滑らかな矩歩で、柳の並ぶ甬路を来るひとが見えた。
「お姉ちゃん……」
長姉の姿に変わりはないのに、懐かしさがあふれる。
否、変わったといえば、変わったのかもしれない。宮城という場が、朱蕣の美しさに磨きをかけた。黒髪の輝きも、身につけた衣装の華やかさも、西街で大減価に勤しむ児女のそれではない。
浅粉の羅の裙に棗紅色の襦を合わせ、玉環を揺らす帯は、歩くたびに細かな光を散らす。桜花紅の披帛で、明るさと軽やかさを加えることを忘れないが、さらりと流れる裾のほうが、風のようであった。
「蕣姉!」
幼い少女が駆け出す。
「瑠璃、会えて嬉しいわ。お母さまから聞いてはいたのだけど、好好そうで良かった。韶華も……大学で鞭撻を振るったのですって? もう小児ではないのだから、対手泣かせるのは不行よ」
「お母さん、そこまで話してたんだ……」
「わたしが聞いたの。お母さまと、好容気会えるようになって……あなたたちのことを知りたかったから。今まで封信だけで、ごめんなさいね」
「いいよ……会えたから、もう……」
韶華が黙ると、姉妹の話が途切れたとみて、紅女史が前に出た。
「杜娘君、ここに並ぶ者たちが、貴女さまの防護を預る鋭士でございます。いずれも佳き武門の出身で、杜監も剛好と判じました尤物。お見知りおきを」
叩頭する女たちに、朱蕣は面を上げよと言った。
「遠くから、よく来ましたね。でも、後宮には驚いたでしょう。なにもなくて」
「うん! 瑠璃、驚いたよ。広くていいと思うけど」
「あああ停! 瑠璃、今は喋っちゃ不成」
焦る韶華に紅女史は微笑んだ。皮相だけ。
「構いませんよ。この場は、公式ではありませんから」
「あら、そうなの。それなら客套はやめるわね。あのね、お願いがあるのよ」
「杜娘君!」
「いいじゃない。助けて頂きましょうよ。ねえ、貴女たちは、確かまだ、宮城に泊まっているのよね?」
女たちは直率に話し始めた朱蕣に一瞬、驚いたものの、杜監の姑娘であることを思い出し、その質を理解した。
そこそこ慣れてきたのだろうが、紅女史はまだ、朱蕣の説法というものに、惑っているようだった。
「杜娘君……この者たちは、まだ入京したばかりなので、後宮の次舎に泊めておりますが……守兵が増えましたら、北洛に住まわせる条理を討論している正中で、あまり海棠宮を知られても……」
「知らなくて守ることはできなくてよ? それでね、防身が本分なのに悪いのだけど、いろいろと手が足りなくて困ってるのよ。打掃を助けてもらえないかしら? やっと本殿が終わったのだけれど、広すぎてひとりでは、収拾がつかなくて」
「等一下! ひとり? 今、ひとりって言った? お姉ちゃん、宮城の後宮に真に単身でいるのッ?」
「やだ、太監と女官はいるわよ……少しは。それに、わたしの位が決まるまでは、寝殿を使うのはどうかってことで、女官と同じ舎に寝泊まりしてるから、暮らすのに困ることはないわ」
「困ってたら、後宮に送り込んだ意思ないし! 空閨って、妃がいないんじゃなくて、誰もいないってこと? 守兵どころか、宮女も!」
「だって、いないところで雇っても無用でしょう。とにかく、皇上が行幸で甘棠からお出かけの間に、整理してしまいたいの。見るひともいないから、なにをしても構わないし」
韶華の視線を受け、紅女史はそっと目を逸した。次舎に入っていた女兵たちも、含糊と気になっていたことが、どういう意思だったのか、気づいた。
「わたくし……使丁がいなくても、特に困りませんが……」
短い封口のあと、北より来た女は狼狽えていた表情を改め、清楚に告げた。
「微かではありましょうが、助力致します。わたくしでも、頂用ると思います」
「杜娘君、兒は小児をふたり育てておりますし、理家は能手でございます。なんでも、お申しつけ下さい!」
「是。ワタシもくりーんなっぷ、行家です」
「まあ、嬉しいわ! では、あとで片書を配るわね。今すぐと言いたいんだけど、ここの動静を、あまり露わにしないでって頼まれてるから……それと、もし北洛で大減価の知名な肆を知りたければ、わたしに訊いてね」
「等等! いつ? いつ北洛で大減価に行ったの、お姉ちゃん!」
姉の華容な微笑みの後ろで、紅女史の面貌が灰色になっていた。ふたりに共通しているのは、訊かないで欲しい、というところだ。
「お姉ちゃんは、どこでもお姉ちゃんなんだね……」
姉が宮城での家常を、封信に書けない理由が分かったような、知りたくなかったような。
しかし、これでやっと放心できた。
后妃になろうとも、朱蕣が節省を愛する質は変わらない。おそらく用費は与えられており、それを使えば、庶人の家境を忘れてしまうことだってできるのに。
「銀両がないというわけでは……ないんだね。まあ、好過ならいいか……」
「あるのに使わないの? 小気鬼?」
「瑠璃、それ言っちゃ不成……」
韶華の心境を察して、朱蕣が微笑んだ。
「忘れないで。わたしが杜朱蕣であることは、百年変わらないわ。でも、韶華……わたし一次、どうしてもやってみたかったことがあるの。それができそうで……嬉しいの」
「ええと……なにをしたかった、のかな?」
「花零銭を貯めに貯めて、どーんと使いきってしまうことよ! ああ、楽しみ!」
韶華に停と言うことはできなかった。
紅女史がばたんと倒れ、それどころではなくなっていた。




