表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/117

群芳神聊

 (しお)れた草坪(しばふ)に水を撒くと、くすんだ草緑色が小さな雫をまとい、輝く。それを見るだけで、風に含まれた熱が少し緩んだように感じる。

 やがては蒸してくるだろうが、暫且(かりそめ)でも暑さを避けられるなら、それで充分だった。

 午下の陽は強烈だというのに、後景(むこう)にいる母親は、まだ訓練を止めそうにない。

 韶華(ショウカ)凉亭(あずまや)の下に戻り、小碗を抱えた瑠璃(ルリ)を見つめた。

 杏子蜜(アンズみつ)を混ぜた、砕いた氷を頬張る幼い妹は、とても嬉しそうで韶華も嬉しい。

 その並びに座って嬉しそうな弄月(ロウゲツ)も、まあ許そう。

「だけど、老兄(アナタ)不妙(マズいの)ではないですかねえ、静影(セイエイ)大兄(さん)

「俺だって、そう言ったよ」

 柱に擬態するかの如く、へばりついていた棠梨(トウリ)の将は、低声(こごえ)で呟いた。

 庭院(にわ)とはいえ、ここは後宮である。成人前の皇子ならいざ知らず、皇帝以外の男が居られる場ではない。

 氷をひとつ噛み砕いて、自身以外の男を庭院に連れ込んだ皇帝が微笑んだ。

「まだ主となるひとが入っていないんだから、構わないさ」

「皇上……(コウ)女史に、その借口(いいわけ)が通るとお考えですか」

 弄月は少し間をおいてから、多半(たぶん)ねと答えた。

 その間こそが、真の答えなのではないかと思うが、韶華はなにも言わずに凉亭を出た。掛け声が止まったので、母親と女たちに氷を届けるつもりでいた。

「あら、あなたは食べなくていいの?」

 母親らしい関心(きづかい)で、淑英(シュクエイ)が韶華に問いかける。乗便(ついで)にもらうからいいよ、と愛児が答えると、頷いて荒い息を吐く女たちを呼び寄せた。

 革の(よろい)を身につけた女たちが、よろよろとやってくる。訓練の激しさを思わせるが、同じように炎天に身躯(からだ)を晒していたはずなのに、母親の清涼(さわやか)気色(ようす)には、韶華も驚くばかりである。

「あ……ありがとうございます、小妹(おじょうさん)

 女は言うと、融けかけた氷を口に含んだ。紅くなった白浄(いろじろ)肌理(はだのきめ)も細かく、珍しいほど身高(うわぜい)がある女人なので、北の生まれだろう。

 ほかの(ひと)たちにも、と碗を差し出してよく見れば、出身はさまざまなようだ。

「でも数は、思ったより少ないね」

「この大娘(かた)たちは、後宮の兵をまとめる、寮佐(したやく)として官位を受けることになっているの。守兵を揃えるのは、これからよ」

「ああ……そうか。まず主導する者を準備しないとね」

「地方で、納女考試と同時に選抜を行っていたそうよ。後妃が決まったら、都に来るという約定で」

「決まったら、の約定かあ……」

 それはつまり、後妃が決まらない、ことも考えられていた――という意思(いみ)でもある。

 凉亭の下、瑠璃に糖果(ドロップ)を渡している弄月を一瞥した。

 彼に続弦(さいこん)する打算(つもり)は、なかったのかもしれない。投考(じゅけん)するのは庶人ばかり、皇帝が誰も看上し(気にいら)なかったので可惜再見(ザンネンまたね)、で処理できたのだから。

「遠くから来るのに時間がかかるでしょう。それで先に選抜を始めたらしいわ。いずれ甘棠(カントウ)の近くでも、するようだけど……そちらの準備は全く整ってないようね。そんなだから武挙(ぶきょ)は……いつできるのか、分からないわ」

「いいよ。武挙に決めたわけじゃないんだから、焦ることないし」

「まあ! 大学に行く気になったのね!」

 淑英の喜ぶ声を聞きつけて、木陰に入り、落ち着きを取り戻した女のひとりが、感嘆の声を上げた。

「おお、うにぶ(大学)! やはり宮都はすぺさる(精彩)ですね。命捧げ、真理を求めし学究の徒(アルケミスト)が、もくぜん(当前)にいるとは思いませんでした」

「いや、命を捧げたりはしませんけども……」

 あるいは彼女が住む地方では、そういうところなのだろうか。楽しそうだが、命までは捧げたくない。

 韶華の惑う様態(さま)も気にせず、巴旦杏(アーモンド)の実の形の目を煌かせ、黒髪の女兵は嬉しそうに手を握ってきた。微波(さざなみ)のようにうねる巻き毛が美しい女人だが、喜ぶ表情は子どものようだ。

「ワタシは星江那(セイ・エナ)です。母が、西方の公主(プリンセス)装送(嫁入り支度)として棠梨に来ました。婚礼の前に公主は亡くなりましたが、母は父を捕えたので、帰りませんでした」

「捕えたんですか……」

「是、(ネット)で。でも、ワタシが生まれたと郷里(じっか)に知らせると、太父(おじい)がワタシを寄越せと言ったので、ワタシは母の郷里で育ちました。ただ、十二で嫁に行けと言われ、それはのうせんきゅう(駁回)だったので、縄で縛って出走(いえで)をしました。甘棠に来られて幸せです。青棠(セイトウ)の首都では、ワタシだけが行けると直截(そくとう)して決まりましたが、武術は自尊(じまん)できます。老太婆(おばあ)が教えてくれました」

 さらりと気になる言を混ぜつつ、江那は楽しそうに来歴を語った。

 韶華の家も、それなりに理由(わけ)ありと言えるだろうが、世には、いろいろなひとがいるものである。

「わたくしも、選ばれて嬉しいです。白棠(ハクトウ)辺縁(へきち)で育ったものですから、甘棠は憧れておりました。行ってみたいという願いが叶っただけでなく、まさか宮城で働けるとは……これでもう父が、訂婚者(フィアンセ)を投げ飛ばすのを、見なくて済むと思うと」

 こちらも、どうにも奉告(コメント)しにくい事由で来ているようだ。

(まあ、前夕(ちょくぜん)まで行く行かないが決まらないとなれば……当然だよね)

「あっ、()監。紅女史がいらっしゃいましたよ」

「うわ欠佳(マズい)ッ」

 背粱(せすじ)を伸ばした女官の姿を見て、韶華は弄月たちを、(ほう)っておいたことを追悔(こうかい)した。少なくとも、静影は帰しておくべきだった。

 紅女史とは一次(いちど)会っただけだが、静影以上に頑固(がんこ)であることが分かっている。今の女主のいない後宮で、全ての(しごと)を記録しているのだから、ひとつの緩みもあってはならじと厳しくなるのはやむを得ない。とはいえ当前(めのまえ)に立たれると、怖いと思ってしまうのである。

 不出所料(あんのじょう)、弄月は激しく叱責されていた。凉亭の(わき)にひとり離れて立たされているのは、もしかしたら、そばにいる幼い少女を(おもんぱかっ)ってかもしれない。静影は変わらず柱を自認している。

(これは……蒼鷹(ようしゃない役人)(ついば)まれる鳳凰(こうてい)の図だね……)

 珍しいというほど珍しくないのは、かつて静影に強烈怒斥さ(激しくかみつか)れている姿を見ているからだ。

 とはいえ女史も(ようじ)があって来たのだから、韶華たちは拝礼(あいさつ)しなくてはならない。近づく気にはなれないが。

「杜監!」

「はいッ?」

 淑英の声も希奇(おかし)なくらい高かった。

「この柱を外に持ち出し、この奇人(ひまじん)を送り返しなさい。でなければ、杜娘君(朱蕣さま)を向導できません!」

蕣姉(シュンねえ)っ? 蕣姉はどこ? 令令(おじちゃん)がいると、来れないの?」

 早く()ねとまでは言われずに済んだが、幼子の求めに応じなければならない男の背影(後ろすがた)は、涙を誘うものがあった。

「紅女史……わたくしたちも、杜監とともに行かなくて良かったのでしょうか?」

「貴女たちは、杜娘君と会って頂きます。然後(いずれ)、主としてお仕えするひととなりますが、今は()だ……ほかの名で呼んではなりません」

 表情を引き締める女たちに頷くと、紅女史は辺りを団団(ぐるぐる)と見回している幼い少女に、あちらを、という比書(みぶり)をした。

 午下(ごご)の暑ささえ、忘れさせるような滑らかな矩歩(あゆみ)で、柳の並ぶ甬路(こみち)を来るひとが見えた。

「お姉ちゃん……」

 長姉の姿に変わりはないのに、懐かしさがあふれる。

 否、変わったといえば、変わったのかもしれない。宮城という場が、朱蕣(シュシュン)の美しさに磨きをかけた。黒髪の輝きも、身につけた衣装の華やかさも、西街(セイガイ)大減価(バーゲン)(いそ)しむ児女(むすめ)のそれではない。

 浅粉(グレイッシュピンク)(うすぎぬ)(スカート)棗紅(そうこう)色の(短衣)を合わせ、玉環(かざり)を揺らす帯は、歩くたびに細かな光を散らす。桜花紅の披帛(ショール)で、明るさと軽やかさを加えることを忘れないが、さらりと流れる裾のほうが、風のようであった。

「蕣姉!」

 幼い少女が駆け出す。

「瑠璃、会えて嬉しいわ。お母さまから聞いてはいたのだけど、好好(げんき)そうで良かった。韶華も……大学で鞭撻を振るっ(激しく酷評し)たのですって? もう小児(こども)ではないのだから、対手(あいて)泣かせるのは不行(やめて)よ」

「お母さん、そこまで話してたんだ……」

「わたしが聞いたの。お母さまと、好容気(やっと)会えるようになって……あなたたちのことを知りたかったから。今まで封信(てがみ)だけで、ごめんなさいね」

「いいよ……会えたから、もう……」

 韶華が黙ると、姉妹の話が途切れたとみて、紅女史が前に出た。

「杜娘君、ここに並ぶ者たちが、貴女さまの防護を預る鋭士でございます。いずれも()き武門の出身で、杜監も剛好(ちょうどよい)と判じました尤物(ゆうぶつ)。お見知りおきを」

 叩頭する女たちに、朱蕣は面を上げよと言った。

「遠くから、よく来ましたね。でも、後宮には驚いたでしょう。なにもなくて」

「うん! 瑠璃、驚いたよ。広くていいと思うけど」

「あああ(やめ)! 瑠璃、今は喋っちゃ不成(ダメ)

 焦る韶華に紅女史は微笑んだ。皮相(おもて)だけ。

「構いませんよ。この場は、公式ではありませんから」

「あら、そうなの。それなら客套(たにんぎょうぎ)はやめるわね。あのね、お願いがあるのよ」

「杜娘君!」

「いいじゃない。助けて頂きましょうよ。ねえ、貴女たちは、確かまだ、宮城に泊まっているのよね?」

 女たちは直率(しょうじき)に話し始めた朱蕣に一瞬、驚いたものの、杜監(じょうかん)姑娘(むすめ)であることを思い出し、その(せいかく)を理解した。

 そこそこ慣れてきたのだろうが、紅女史はまだ、朱蕣の説法(いいかた)というものに、惑っているようだった。

「杜娘君……この者たちは、まだ入京したばかりなので、後宮の次舎(しゅくしゃ)に泊めておりますが……守兵が増えましたら、北洛(ホクラク)に住まわせる条理(てはず)を討論している正中(さいちゅう)で、あまり海棠(カイトウ)宮を知られても……」

「知らなくて守ることはできなくてよ? それでね、防身(ガード)本分(しょくむ)なのに悪いのだけど、いろいろと手が足りなくて困ってるのよ。打掃(そうじ)を助けてもらえないかしら? やっと本殿が終わったのだけれど、広すぎてひとりでは、収拾がつかなくて」

等一下(ちょっと待った)! ひとり? 今、ひとりって言った? お姉ちゃん、宮城の後宮に(ホント)に単身でいるのッ?」

「やだ、太監と女官(じょかん)はいるわよ……少しは。それに、わたしの位が決まるまでは、寝殿を使うのはどうかってことで、女官と同じ(りょう)に寝泊まりしてるから、暮らすのに困ることはないわ」

「困ってたら、後宮に送り込んだ意思(いみ)ないし! 空閨(からのねや)って、妃がいないんじゃなくて、誰もいないってこと? 守兵どころか、宮女(めしつかい)も!」

「だって、いないところで雇っても無用でしょう。とにかく、皇上が行幸で甘棠からお出かけの間に、整理してしまいたいの。見るひともいないから、なにをしても構わないし」

 韶華の視線を受け、紅女史はそっと目を逸した。次舎に入っていた女兵たちも、含糊と(うすうす)気になっていたことが、どういう意思(いみ)だったのか、気づいた。

「わたくし……使丁(めしつかい)がいなくても、特に困りませんが……」

 短い封口(ちんもく)のあと、北より来た女は狼狽えていた表情を改め、清楚に(はっきりと)告げた。

「微かではありましょうが、助力致します。わたくしでも、頂用(やくだて)ると思います」

「杜娘君、(あたし)小児(こども)をふたり育てておりますし、理家(きりもり)能手(とくい)でございます。なんでも、お申しつけ下さい!」

「是。ワタシもくりーんなっぷ(打掃)行家(エキスパート)です」

「まあ、嬉しいわ! では、あとで片書(メモ)を配るわね。今すぐと言いたいんだけど、ここの動静を、あまり露わにしないでって頼まれてるから……それと、もし北洛で大減価(バーゲン)知名な(知られた)(みせ)を知りたければ、わたしに訊いてね」

等等(まって)! いつ? いつ北洛で大減価に行ったの、お姉ちゃん!」

 姉の華容な微笑みの後ろで、紅女史の面貌が灰色になっていた。ふたりに共通しているのは、訊かないで欲しい、というところだ。

「お姉ちゃんは、どこでもお姉ちゃんなんだね……」

 姉が宮城での家常(にちじょう)を、封信に書けない理由が分かったような、知りたくなかったような。

 しかし、これでやっと放心(あんしん)できた。

 后妃になろうとも、朱蕣が節省(せつやく)を愛する質は変わらない。おそらく用費は与えられており、それを使えば、庶人の家境(くらし)を忘れてしまうことだってできるのに。

銀両(おかね)がないというわけでは……ないんだね。まあ、好過(くらしがラク)ならいいか……」

「あるのに使わないの? 小気鬼(ケチ)?」

「瑠璃、それ言っちゃ不成(おしまい)……」

 韶華の心境を察して、朱蕣が微笑んだ。

「忘れないで。わたしが杜朱蕣であることは、百年(いっしょう)変わらないわ。でも、韶華……わたし一次(いちど)、どうしてもやってみたかったことがあるの。それができそうで……嬉しいの」

「ええと……なにをしたかった、のかな?」

花零銭(おこづかい)を貯めに貯めて、どーんと使いきってしまうことよ! ああ、楽しみ!」

 韶華に(やめて)と言うことはできなかった。

 紅女史がばたんと倒れ、それどころではなくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ