旧雨重逢
東城の内を歩いているのは、ほとんどが官吏だ。
つまり、すれ違った男も官吏なはずで、そう暇ではないと思うのだが、角を曲がるまで、ずっと韶華を目で追っていた。
視線に含まれているのは、侮る気色。そんなに東城を歩く児女が珍しいのか。それとも、韶華の焼栗色の髪が醒目なのか。漫漫と見ている暇があったら、早く職守に戻れと言いたくなる。
なにより、そういった目で韶華を見る男が、ひとりでないことに腹が立った。
薄緑の長衣と緑色の小綾の裙子からすると、良くても正六品といった文官だが、もっと下位の官吏たちも、怪しむ情性を隠さない。
彼らも棠梨の政務を行う者として、殊方から来た者と会うだろうに、あの情態を不行儀と考えないのは、欠佳だろうと言いたくなる。
兵営に出向いた時は、誰も――
(そうでもないか。地妖でも、見たかのような目をしてたなあ……)
韶華が静影、と名を呼んだ時は特に、冷戦していた。
香試に会って、事を終えたらすぐ宮城に向かうつもりでいたが、思い出した乗便に、兵営に寄ってみようという気になった。
とはいえまずは香試である。行くは太常寺、の旁から入る作房だ。香試たちが、そこでなにをするかは言うまでもない。
流れてくる甘い香りを吸い込み、韶華は立ち止まった。しかし、その僅かな足止めのために、便門から出て来た男とは、ぶつからずに済んだ。
かすりもしなかったのに、男が不快げに面貌を歪める。上衣下裳を深緋と朱色で揃えた、搶眼な四品の官人だった。
「不解なるぞ、小女が」
「なんということでしょう。正門から出るべきだったのに、そうしなかったばかりに……随従もなしに、ひとりで炎天に影を落としてるから、居もしない小女とかち合ったりするんですよ。幻を見るなんて、不妙ですよお。気をつけて下さいねえ。天天の暑さで、炎毒で脳子をやられて倒れるひとが、重重と出てますから」
言の洪水に押し流されつつも、「居もしない小女」というところは、官人にも聞き取れたらしい。さっと面色を青くして、辺りを見まわした。
しかし己と少女しか、そこにはいない。それに、特に火気ているようでもない。そもそも房室から出て来たばかりで、暑さにやられる覚えはない。
居ないと断じられた小女の幻が独笑しているのを見て、男は風涼話をされたのだと気づいた。
「そうか、その髪色は……風聞の牢騒少女か! 白衣でありながら、国子学に入り込んだ、舌争破格の児女!」
「なにその別名。いつの間についた?」
「うむ……確かに素養はあるようだな。しかし、専程大学に係わらずとも、それだけの才能があるなら、面貌が凡そ平らかでも佳い丈夫を得られるだろうし、婚家を支えるのに使えて、喜ばれよう」
到底是四品を頂く官人である。韶華の訊笑に諷刺で応えた。
ふたりの後ろで銅鑼が鳴ったものの、朱明を司る神は、同じ色を身に着ける男に炎天下で続けることの愚かさを教える。
じわりと滲んだ汗を拭いつつ、官人は大息に似た呟きをこぼした。
「我らが一人の、女人を学ばせてやりたいという御支援は理解できるのだが……やはり明年、せめて今年の入学に合わせるべきではなかったか。まず名次を明らかにせねば、特別だと誹られてもやむを得まい。その質では、なおのこと。四門学でさえ、俊士となるのに、あふれんばかりの候補がいるのだぞ……」
あるいは、と男は韶華の髪に一瞥をくれる。
「殊方からの留学生というならば、まだ、受け入れられたかもしれぬ」
官人が、それなりの主見を持ち言っているのは分かるので、韶華はなにも言い返さなかった。留学生だろうが編入生だろうが、特別扱いなしに上学ができないことに、変わりはない。ただ、韶華がそれをあまり理解していなかっただけなのだ。
「いきなり国子の大学ではなく、算学か、書学を学ばせるだけにすれば……」
どこかで似たようなことを聞いたな、と考え、思い出す。
あれは、韶華が課本を売ってしまおうと決めた時だった。
四門学の外を出た韶華を、ひとりの男が追ってきて、まだ学ぶ場はあると話しかけてきた。
女人だから排するのは誤りだ。学びたければ学べば良いと言ったひとは、韶華の才が惜しいとも言った。そして一科だけでも、修めるべきだと諭したのだ。
「あれは律学の……助教、だったかな?」
「そうそう、律学もあるぞ。巧遇だな、あそこを行くは律学の俊士たちだ」
官人が指さした先には、月白や棕黄色の襴衫を着た郎子たちが歩いていた。若いとは言えない前輩も混じっているが、律学はほかの大学より、広い年齢で学生を受け入れているからだろう。
「我とて、王香試の推薦を信じないわけではないがな、大学に女人を入れて揉めるのは欠佳だと思うのだ。だが、一科というなら、我も勧めてやっても良いぞ」
太常寺から出てきた官人であるから、王重明のことは知っていたらしい。
少しだけ考え、韶華は否と答えた。
「ありがたい勧めとは思いますが、わたしが書学を学ぶのって、不妙な気もするのですよ。特に写字という意思では……それに、しばらく国子学に通ってみるつもりで……あれっ」
「えっ、小……杜韶華?」
郎子が、韶華を見て驚きの声を上げた。
「おまえたちは、知己か」
官人が問うと、郎子は慌てて拱手をした。
「是。学堂の同輩でございます。我は遷居するより前、西街では附近に住んでおりまして、年も我のほうが上になりますので、よく照料をしたものです」
「照料された覚えはないんですけど、した覚えはあります。って、李潭!」
官人しか見ていないような昔の朋友に、韶華は吠えた。
かつて、ひとつ隔てた小路に住んでいた少年は、学堂で韶華が跳班するまでは、夙悟を界隈に知らしめていた。
韶華が覚えているのは、頭等を取られては舌争をしかけてくる、騒がしい悪童の姿だ。今も言い返してくるかと身構えたが、李潭は静かに佇んでいる。どうやら少し会わない間に、怕事を装うことを覚えたらしい。
「そういえば淵淵、書館に進まなかったんだっけね。律学? に、通ってるんだ」
「よっ……幼名で呼ばないでくれないか」
かっと頬を赤くした表情を見ると、あまり質は変わっていないらしい。韶華から顔色を逸すように、下巴を上げた。
「これでもぼくには、品子の分際があるんだ。きみのように、書館にしか行けないわけじゃない。徒歩で近くなったこともあるし、律学に入ったんだ」
「ということは、きみは李助教の息子か」
はいと答える李潭は、すっかり官吏の子として振る舞いが身についている。その旁臉は、ある男の面貌に似ていた。
(あのひと……そうだ、淵淵のお父さんだ。それで)
学ぶことを止めるなと言ったのだ。
学堂の老師たちは、韶華も李潭も書館に入ることを勧めていた。しかし、ある日書館の老師たちがやってきて、女人は無用と告げてきた。
その場でともに聞いていた李潭の顔色は、韶華以上に鉄青だった。彼は帰ってから、父親にそのことを告げたに違いない。
けれど、たとえ入学を許されたとしても、杜家では費用が払えなかったので行けはしなかった。だからあまり怒りも湧かなかったのだが、そのあたりの事情について、遷居してしまった李潭は知らない。
「今、なにをしているんだ」
「んー……大学に入るのを勧めてくれた香試さまに、礼をしに?」
「大学……? おまえが?」
「いろいろありまして……」
李潭の理解できないという表情を見ると、国中を騒がせた納女考試が、小節なことに思えるのが古怪だ。
官人が呆れたように呟いた。
「読書に励むのも良いが、世を見ることを忘れてはならんぞ。皇上の敷求することを知らずにいるとは」
「敷求……ああ、納女の。大婚という慶賀に、教授たちも忙しくしておりますが」
「その納女が、西街の誇る香青路の尚絅玉女なんだってば。確かに公表はまだだけど、風聞くらい耳に入れておきなさいって」
「風聞を憑信するような、愚かなことはしな……ええっ? 朱蕣ッ?」
李潭の驚きの大きさに韶華は満足し、胸を張った。だがその声は、通りすがりの者たちも引き付けて、好ましからざるささやきを聞かされることになった。
「おお、律学の学生が、太常少卿を道旁に止めさせるとは、畏れ多いことだ」
「弄児との風情を咎められているのかもしれぬぞ」
「女は咎められようと、構わんだろう。ゆくゆくは律師の妻となれるなら、佳い話だろうしなあ」
悄悄と嗤うのは、刺繍の施された襴を着た浪子たちだ。そのうちのひとりの襴の花紋に、韶華は記得があった。四門学で見た男である。
「なあ、みな、こうは思わぬか。大学で女礼を教えるわけでもなし、女人が来たところで無用と」
「しかしなあ、後宮だって、娟秀を求めるんだぞ。皮相が頼りにならなければ、せめて一科くらいはなあ?」
「わたしが思うに、世に雑草というものはないけれど、雑草っていう分割は、踏んでも踏んでも立ち上がるって……事実なんだなあと感動するわ」
「はあ、雑草?」
「そう、雑草」
頷く韶華に、男たちは呆けた表情を返す。雑草にたとえられたことが、分かっていないらしい。
一方で、気づいて独笑している官人は、不料と非心な質のようだ。
「四門学で、あれだけ不見識を指摘されたのに、まだ、わたしに話しかけようとするんだから懲りないよね。多半、これなら逞強話を残すね」
「うるさい! 牢騒少女が!」
「もうそれ聞いた……」
げんなりと呟く韶華の旁で、初次听到だった李潭が吹き出す。あとで報仇だと思いつつ、韶華は官人に拱手をした。狗のように逃げて行く男たちは不顧した。
「太常寺少卿の恩情で、この場を収められましたことを、感謝致します」
「よい。我はただ、ここに居ただけだ」
「乗便にお尋ねしますが、かの香試がどこにいるか、知っていらっしゃいますか。作房には、ひとの風色がないようですが……」
目を逸す官人を見て、察しなければならないことを思い、韶華は大息を吐いた。あの迷于香が拭い魔として徘徊しているのは、ほとんど自明であるらしい。
突っ込まれたくないのか、長く話し込んでしまったな、と言って官人は急ぎ去った。韶華も、今はあれを探し歩くことを、諦めねばならなかった。
「こうなったら、王先生の自己家まで行くかな……あとで」
「おまえ……四門学に行っているのか……?」
問う李潭の声は震えていた。
「あそこは、確かに……庶人が行くことはできるが、でも」
「四門学には行かないよ」
「そ、そうか」
「国子学に行くだけ」
韶華は大きく口を開けた李潭に、宮城を指さしてみせた。
「後台を得たから、国子学に行っても良いと言われたわけ。使えるものは、使ってみようと思って。行って意思があるかは、あとで考える」
「……まずはやってみる、か。おまえらしいな。貢挙だって、余裕かもな。それでも、おまえが官品を得られるものか。官吏なんて向いてないだろうに」
そうかもね、と韶華は頷いた。
官吏を目指していないのは、事実だ。そして向いてるかどうかは、未だ明らかでない。
「だからね、知ろうと思う。壁の向こうから、押し付けられるより先に、知らなくちゃいけないことを学んだほうが良いって……って、言われたから」
久達に李潭と会って、韶華は改めて静影の正しさを感じた。
故人でさえ、韶華が特別扱いだと言い、謡動する。ならば、この先会う誰もが、そう思うに違いない。
たったひとり、後妃に選ばれた長姉は分かっていた。その風波を被るであろう妹を関心してもいた。
その思いをもっと早く、受け止めるべきだった。
後台を得たという韶華の言に、その覚察がようやく現れたのだが、それを知る者はここにはおらず、困惑する友がいるだけだった。




