後宮探索之二
名を呼ぶ幼い少女の声を聞いて、快歩にやって来た男の紫石の目が、丸く見開かれた。
彼を知る者が見れば、驚くような表情だが、いると思っていた者と、いるとは思わなかった者がともにいれば、こんな顏にもなるだろう。
静影は前額にかかった髪を手で払い、双眸に浮かび上がる査牙しさをどうにか緩めた。
「瑠璃……と、重明……」
「静影哥哥、好! 瑠璃、令令とはぐれちゃった」
飛びついてきた幼子を受け止め、静影は朋友に、向けたくないが向けざるを得ない疑いの目を向けた。
「静影、どうして霊鬼と会ったかのような顔色をするのだ? 私がここにいて悪いことはあるまい」
「それは、そうだが」
重明の言に隠された居心は感じられない。皇帝のための香試が、宮殿内を歩いていても古怪はない。
だが。
「小妹に……なにをした」
「この令令ね、デンカを追い払ってくれたの。あと瑠璃の涙も拭いてくれたよ」
胸を押さえた重明を見、清涼な青い瞳の幼子を見、静影は覚察するものを忘れることにした。
なにやら韶華に感化されてるような気もするが、追い払われたデンカが誰であるかなど、知りたくはないのである。
その上おそらく、これから宮都に拭い魔は出没しない。至高の宝を手にしたのなら、あれが路傍で小児の唾液を狙うこともないはずだ。
拳を緩めたり、握ったりしながら心の内を鎮め、好容気言うべきことを導きだした。
「つまり、おまえが今天、ここにいるのであれば、東城に行った韶華は、すれ違いになったということか……」
「うん? かの小児が、私になにか事でも?」
「事というか……あとで会ってやってくれ。今からでも戻れば、及するか……?」
「ならば戻ろう。東城ということは、太常寺だな?」
麻煩がる情態を見せず、重明は頷いた。彼は今、希望したものを手に入れたゆえに、落落大方である。
手巾をしまった懐を愛おしげに押さえながら、長い樓道の奥に消える。その背影には隠しきれない、浮き立つ心境が表れていた。
「あの令令、佳い香りがしてた」
「それは、あいつにとって至上の賛美だな。まあ、これで満たされてくれたら」
静影としては、決不拭い魔が出ないことを祈るだけである。
「さて瑠璃……あの冒失な皇上は、昭彰殿でお待ちだろう。ここからだと少し歩くから、抱えようか」
「うん」
言ってはみたものの、弟妹のいない静影は小児を抱えたことがない。少し惑いな
がら、大剣を捧げ持つように少女を抱きあげた。
「わあ、高いねえ! お父さんより高いよ。すごいねえ」
「あんまり暴れるなよ。落ちるからな」
「うん! あっ」
小さな脚が、静影の腰の辺りを蹴った。
瑠璃が泣きそうになって謝るものの、静影には痛みどころか、触れたことしか感じない。気にするなと言ったあとで、口袋に厚みのあるものが挟まれているのに、気づいた。
登殿するために、いつもより真正の戎衣の皮甲を身に着けている。それに将帥用の袍を合わせるのも、久久だったことを思い出した。
「ああ、そうか。これは……韶華と行った古書市の時の」
「静影哥哥、韶姉とお出かけしたの? いいな、瑠璃も次は行きたい。あれ、なんか、紙の音がする? 冊子……?」
静影は、瑠璃に乞われ、口袋からそれを取り出した。古書市であると思い出したなら、取り出すべきではなかったにも拘らず。
「ええと……」
『艶熟女喰記』。著、陰羽。
「うわあっ、瑠璃、見るな!」
「女……記す、えっと」
抱えた幼子を落とすわけにいかない男は、瑠璃がしっかと握った書籍を取り上げるのも、字を読むのも止められなかった。
このままでは、あの痩せ女――子への情が凝り固まった女妖の如き父親、いや全ての親になにをされるか分からない。
焦った静影に、瑠璃は活溌と不料な真実を告げた。
「お父さん! これ、お父さんが書いた書籍だよ!」
「不行、瑠璃。冊子を開くな……って、お父さん?」
「うん! この陰羽って、お父さんの筆名。哥哥、お父さんの愛好者? お父さんは、かんのうしょうせつを書いてるひとなんだよ」
思わず脚を止めて立ち尽くし、静影は官能小説と呟いた。
その間に得色な瑠璃が、流利と語り始める。
母親が打手をするだけでは、杜家の家境は苦しいこと。無業であった父親が、ふと書き連ねた片書が売れたこと。
それは家用に充てるより、姉たちの婚姻のために暗中で貯めたかったこと。けれど瑠璃の急症のために、あまり貯らないこと。今は壮健になって、臥床することもあまりなくなったこと――
「そうか……朝気になって良かったな……」
「弄月令令のくれたお薬が、効いたの」
良かったな、と繰り返し言って、静影は封口した。
「それでね、お母さんがね、なにか令令に感恩の贈物ができないかしらって、お父さんに訊いてたよ。でも、お父さんは難しいって言って……だけど瑠璃、思ってたの。お父さんの書籍を、贈ればいいのにって! 静影哥哥も愛好者なら、嬉しいよねえ?」
「瑠璃……っ。不成だそれは、とにかくそれを返しなさい!」
このままでは、官能小説愛好者の牌号を頂くことになる。欠佳な預感に見舞われた静影は少女を下ろし、冊子を取り上げた。
瑠璃の大きな青い目が、驚いたように瞬く。悪いことをしてしまったと、怯えるような表情だった。
どこか韶華に似た、灰心した姿を見て、静影は幼い子に向かって強く言いすぎたことを追悔した。
もっとも、これが真に韶華であれば、蹴りのひとつも入れて取り返しに来るような気がした。
「俺が悪かった、瑠璃。怒っているんじゃない……これはだな、成人が読むものだから、瑠璃が読んでは、いけないんだ」
「うん……」
静影は冊子を口袋に捻じ込むと、また幼子を抱き上げた。
と同時に、瑠璃の頬が嬉しげに緩むのが伝わって、ほっとする。
誰かになにかを伝えたいのなら、天真に心境を表すことも、時には重要なのだと理解する。
「しかしな……膠固と言われても、なにをどう柔らかくすればいいのか……だいたい誰が、そんな称呼を俺につけたんだ」
瑠璃が応えなかったために、静影は独語ていると気づかなかった。
猛然と呟き出した男に、どうしたのと訊かないくらいの労心は、瑠璃にもあるのである。のちに全て姉に伝わると教えていれば、静影も瑠璃のそばで言わなかったかもしれないが。
ふたりはそのまま直接的な樓道を進み、やがて扉の空子から、こちらを窺うような人影があるのに気づいた。
赭黄の袍が見え隠れし、翻る白い裙が、困って徘徊している様態を示す。幼子の照管をし損ね、責められることを察しているようだ。
降ろされた瑠璃が、静影を振り仰いだ。
「令令かな」
「そのようだ。瑠璃、あれには怒ってもいい」
静影の言が届いたのか、弄月が顔色を見せた。
「怒らないで欲しいな。いつも帯動する太監がいるものだから……」
「怒りはしませんが、指摘はさせて下さい。本将が迎えに行けないのなら、皇上が本身でと仰いましたよね。憑信すべきと思いましたが、気になって早めに訓練を切り上げたことを、正好と言わざるを得ないのは、真に遺憾でありましょう。さらに申し上げねばならぬことは、未だ殿下と杜娘君の会見を行っていないという事実。このため、殿下は杜季児を小姨と知らず、礼儀を欠いてしまったのです」
皇帝の妻となる女人の妹だからといって、棠梨の丕子の姨と見なすのは、太早計かもしれないが、静影は言い切った。 少なくとも、皇太子には継母となるひとの家人を、教えるべきだったのだ。
弄月は、ただ、大息を吐いた。
「おまえに怒られると、徐家にいた昔を思い出すよ……」
遠い目をする皇帝の袖を、小さな手が引く。
「瑠璃、誰の小姨?」
弄月は一瞬、目を丸くし、呵呵大笑した。静影に言われても覚察できなかったことが、幼い者から聞くと、よく分かる。
妻の妹となる瑠璃の手を取り、内に導いた。
静影は、ふたりに続いて内に入ることを迷った。その先は昭彰殿、皇后のための殿堂である。
後宮と異なり、皇后の執務する場なので、男子不通とい
うわけではない。女主が不在である今ならば、皇帝の侍衛が入ったとしても許されるはず。それでも顧忌する心境になる。
それは、かつて居たはずのひとが、いないことを思い知ってしまうからかもしれない。
幼い瑠璃の純真な、哥哥と呼ぶ声に誘われ、ゆっくりと内に入る。空の宮殿に、少女のはしゃぐ声が響いていた。
「広いねえ。誰もいないけど。どうして使わないの?」
「必要なかったからね、用項がなかったとも言うが……でもじきに、朱蕣が使うことになるよ」
「蕣姉が? ひとりで?」
「理家するのは、ひとりだねえ。紅女史が助けになるだろう」
「お待ち下さい、皇上。それは……杜娘君が皇后の位を賜わるという意思ですか」
窓に向かって走り出す瑠璃を確かめてから、静影は弄月にささやいた。
苦笑を返す皇帝としての弄月は、ひどく冷心に見えた。
「愚かなことを言う。若輩は、女が寵妾となっただけ、で納めようとしているだろうに」
「否定は致しませんが、胡説に惑わされるとは、棠梨の一人にあるまじきこと。お忘れにならないで下さい。大婚の勅令は注定なるもの。そして大婚は、幸姫に対するものではありません。后妃の位を与えずして、成るものではないのです」
「おまえは首肯するか。徐家の女がいた席に、別の女が坐すことを」
「是、と」
いかなる遅疑もなく、静影が答える。紫石の双眸は主君だけを捉え、そのあまりの迷いのなさに、弄月のほうが狼狽えた。
「哥哥、令令。なにをお話ししてるの?」
「佳人が周りにいると、欺負られると考えている怯夫についてだよ」
「それはないだろう、静影よ……」
「令令、争気だしてー」
幼い少女は、がっくりと肩を落とした男の手を握った。
「欺負られたら、瑠璃のお父さんに言って。守ってくれるよ」
「どうだろう、余も欺負られるのではないかな……」
「誰に欺負られの? あの、怖いひと? 瑠璃も欺負られたの……」
「誰がきみを詐負め……」
回神した弄月は、静影を見た。
改めて示さなくとも、唇を固く結んだ将の面貌は、提示となった。
「隆昌か」
「ほかに棠梨の世子は、おりますまい」
棘を呑み込んだように黙るふたりを見上げ、瑠璃は首を傾げた。
静影も弄月も、あの華麗な衣を着た男をよく知っているらしい。なのに弄月は、できるだけ係わらないようにしており、静影は係わらせようとしている。
それは杜家の内での、父親の扱いに似ていた。
知って欲しいことについて、知られたくないと思う心目が、清楚に告げる言を妨げている。
固然、賢いひとには、言わないことだって伝わるのだという。
ただ瑠璃は、母親や姉たちのように賢くないので、父親が言にしなかったことは分からない。それがとても、寂しい。
隆昌と呼ばれるひとは、怖くて嫌なひとであったが、弄月と話してもらえないのならば、可憐に思った。
「瑠璃も……分からないことばっかりだと、怒りたくなるかも……だから、あのひとは、ちょっと悍子なのかも。令令、ちゃんと、あのひとと、お話ししないと不成だよ?」
「あのひと、か」
「黙ってたら……分かんないし」
「そうだな」
頷く弄月に、瑠璃は笑いかけた。
「お父さんもお母さんも、瑠璃は知らなくていいって言うけど、話してもらえたら嬉しいよ。大きくなったらねって言われても、待てないよ。だけど、お父さんだって、お母さんに言わないでかんのうむー」
いきなり幼子が横抱きにされ、弄月から引き離された。
皇帝の呆れる声を不顧して、静影は樓道で瑠璃に禁泄漏と言い聞かせる。
神速で露餡を阻止したことを、方才、誰かに褒めて欲しいくらいだった。元凶である父親しか、いそうにないのが悲しいところだが。
「あら、楽しそうね?」
美しい声とともに、朱蕣が現れた。
長姉である杜家の児女は、妹たちに対しては親代わりでもある。
英英たる微笑みで向ける目光は、妹が男といるのは気に入らない、というものであった。




