後宮探索之一
細い水渠を、ゆっくりと行く舟がある。前にも後ろにも続く舟がないのは、棠梨ではとても珍しい。
宮都甘棠は、甘河を使って運ばれてきた貨を、張りめぐらされた渠によって動かしている。多くのひとを生かす商いは、送料するより大量で、黒風で泛濫した時でもない限り、来往が見えないなど、あり得ない。
しかしここは、単なる水渠ではない。
楫を持つ手を休め、韶華は天空と両傍の壁を見上げた。
左は宮城、右は東城。
天に近いひとびとの住む場と、官吏が忙しく立ち回る場と。
庶人が易易と見るも適わぬものを、一次に見ることができる、本来は通ることのない、秘められた水路である。
この隔てる壁の、どちらの内にも韶華は行ける。
棠梨の将はそう言ったが、行きたいかどうかは、よく分からなかった。
楽しいと思うのは、場にあるのではなく、ともにいるひとによるのだ、と答えたら良かったのかもしれない。
ただ、初めて壁を見る妹には、なにもかもが珍しく、楽しく思えるようだ。
韶華は、はしゃぐ瑠璃に静かにと声をかけた。
「なんか誰も彼も知ってそうな路程だけど、公表にはできないから、見つからないようにしないとね」
「うん。瑠璃、うるさくしすぎたね……お父さんも、来れば良かったのに」
「それはちょっと……」
ふたりが向かうのは後宮なので、いくら父親が元美貌の痩せ女――貧しさから子を置いて逃げた女の情が凝り固まった妖怪に見えようとも、連れて行くのは、不成だろう。
とはいえ、連れて来るべきだったかなあと、思わなくもない。
韶華は中途で舟を降り、東城に行く打算でいる。ただ、その事を終えるのに、いつまで掛かるか分からないとなれば、幼い妹を舟にひとりで待たせるわけにはいかない。
ゆえに、静影に配合を頼んだ、のだが。
「来られなくなって……誰が迎えにくるか、分からないっていうのはね……」
大息を吐いた姉を気にして、季児が振り返った。
「韶姉、どうしたの。もう降りるの?」
「んー……そろそろだね。瑠璃は、これから会うひとと後宮に入ってね」
「やっぱり偕に行けないの?」
韶華は、不平を露わにした妹の丸い頬を指でつついた。
「大学のことで王先生……香試さまに、礼をしに行かないといけないから」
「極了不愉快的?」
「そこまでは思わないけども」
小児にも分かるほど、郁葱とした心境が露わになっているらしい。
もっとも、静影からの頼みごとさえなければ、ここまで困らなかった。かの香試が宮都を騒がす変態かどうかを、どうして韶華が探らなければ、ならないのか。
(自身で質しに行くって、言ってたのに……不見だったからって、ひとに頼む?)
乗便の任にしては、重くないか。朋友の壊事を知りたくない心目は、理解できるけれど。
ぼんやりと考えに耽っていた韶華は、押さえていた楫の揺れを感じ、身躯を起こした。
「迎えって……あれかい!」
「あっ、令令!」
瑠璃が迎える者に向かって、小さな手を振る。
水渠のそばに立ち、満面の笑みを浮かべ、手を振り返すのは、棠梨の主、万世を統べる一人であるはずの男、弄月だった。
口にするのは控えたが、皇帝本人が迎えとは、そこまで棠梨の帝は暇なのか、と突っ込みたくなる。
「やあ、来たね。黒風に頼もうとしたら、逃げられてねえ」
「皇上が手兵に命令を断られるんですか……」
「不成だよねえ。でも却って好在ではないかな。あれも、掖庭にまでは入れないからね。余が向導すれば、工作がいらない。おいで、瑠璃。令令のこと、覚えていてくれたんだね」
「うん」
少し羞じらいながらも、瑠璃は弄月に手を差し出した。
嬉しそうに幼子を抱きかかえる皇帝に、心里上で遅疑を感じないでもないが、とりあえず面生の者が迎えにくるより良いのだろうと、韶華は考え直した。
「それじゃあ……瑠璃のこと、頼みます」
「おや、きみは来ないのかい」
「とある官方に事がありましてね……しかも、いつもお勤めの場には、いらしてないらしく、東城のどこぞの房に入り浸りだとか」
「ではあとで、おいで」
韶華が答えるより早く、弄月は歩き出していた。爽朗なほど、ひとの話を聞く気のない男である。
傅かれるのが当然の男なら、あんなものかもしれない。
しかし、だからこそ気づくべきだった。
照料される子どもと同じような男が、幼子を照顧できるわけがない。韶華と別れてすぐ、わりとあっさりと、瑠璃は伶行になってしまったのである。
***
「韶姉……」
しばらくの間は、幼い少女は周りにあるもの全てに著迷になっていた。
だから、手を繋いでいた弄月と、いつの間にか離ればなれになってしまったことに回神したのは、広壮な宮殿の寂静とした様態が怖くなってからだった。
ひとの影さえ見えない、ぴたりと閉じた扉の並ぶ樓道では、大きな声で呼ぶのも憚られ、泣きたくなったが、
「壁に沿って歩けば、どこかの門にはつくよ」
と、弄月が言ったことを瑠璃は思い出した。
扉も壁と考えて良いのだろうかと、そっと小さな花兄で触れると、なんの妨げもなく扉は開いた。
片刻、息を止めて身躯を固くしたが、誰からも咎められなかった。
やはりひとはいないのだ。覗き込んだ庁堂は、反面の扉が開いており、その空子から見える、濃い緑の輝きに覚えがあるような気がして、瑠璃は向こうへと通り抜けた。
階はすぐに見つかり、誰もいないことを確かめてから、院子に降り立つ。
白い壁から覗く、槐の木があるところは、弄月が起先に向導してくれた場に似ていた。
向こうへ行けば、弄月に会えるかもしれない。
炎天を避けるために端の潅木の影に入り、瑠璃は通り抜ける法子を探すことにした。
韶華の言によれば、大家ほどモノを放手不管にするという。ならばきっと、壁のどこかに壊れたところがあるはずだ。
まずは近くの、と潅木の杜鵑の内に入ろうとして――ひとと目が合った。
瑠璃も驚いたが、対手も驚いたらしい。大きく目を見開いていた。
若い男で、静影と同じくらいの齢に見えるが、瑠璃にはよく分からない。
父親ほどではないが、悄麗な面貌をしており、流した長い髪を一部分だけ翠玉で留めている。
使丁ではない。男が身に着けた絳い紗の衣は、見たこともない気派なものだ。
弄月より井然とした姿だから、弄月より偉いひとかもしれない。
言にしていれば、等一下と言われただろうが、瑠璃の内心は、まず男に叱られるという恐怖で埋め尽くされていた。
幼い少女を、まるで醜いもののように睥睨する男――腰に付けた、光も透き通るような白玉の佩が、男の恐ろしさに反して、軽やかな音を立てた。
「どこの小女だ。ここに入って良いと誰が言った?」
男の言い捨てるような冷たさに、瑠璃は動けなくなった。
怒られいるのだから、悪いことをしたのは瑠璃なのだ。謝ろうと思うのに、声にならない。凍りついたような舌を、暑さが溶かしてくれることもない。
涙が滲む。あふれそうになる。
けれど、この怒る者は、泣いてもきっと許してくれない。却って、もっと怒るだろう。幼子は涙を手で拭おうとして、突如、樓道から走り込んでくる大きな音に、身躯を震わせた。
「幼女、幼女が……!」
双手を揉みあわせた男が、瑠璃を見て叫んだ。
細長で百年労務とは係わりのなさそうな男である。面貌に覚えはないが、瑠璃を幼女と言った声には、聞き覚えがあった。
「ああ、なんという天示か! 九天より賜わりし至高の香魂が、このような卑しき巴人の元に降り立って下さるとは……! あまりの僥倖に、この王重明、地に伏す心境でございます……!」
「瑠璃の……」
家に来たひとか、と幼い少女は尋ねようとした。
それより先に、男は瑠璃の旁で跪いた。
「おお、瑠璃とは……なんと愛らしく、麗しい名でありましょう」
「おい、王重明!」
「どうなさいましたか、令堂とはぐれましたか。恐れながら、小生が、御苑まで向導致しましょうか」
「王重明、この迷于香、聞いてるのか!」
瑠璃は惑いながらも、小さく好と呟いた。
柔らかな香りのする古怪な男は、王重明王重明と騒ぐ絳い衣の男が全く気にならないらしい。鼻から出す、熱のある切れ切れの息は少し怖いけれど、偉そうなひとより偉そうな上に、少なくとも瑠璃には優しいので、信じても良いように思えた。
幼い少女の考えを証実するように、王重明は可怜的と言いながら、すっと懐から手巾を取り出した。震える手は、血を失ったかのような白浄であった。
「おそれながら、その……涙……天よりもたらされし宝珠、甘露……を、拭わせて頂けれ、ば……僥倖……」
奇怪なことに、手巾はひどくしわが寄っていた。まるで両端から強く引き合ったようだ。
瑠璃がそれを見ていると知ると、男はしわのない部分が角にくるように、深切に巾を折り込んだ。
そして瑠璃の眼角を、そっと、細心をもって優しく軽く、拭い取った。涙を含んだ手巾を見つめる男の目光は、父親が愛児を見つめるそれより熱く、濃密な幸せに満ちたものだった。
「王重明!」
「そう声を上げなくとも聞こえておりますよ、殿下」
手巾をしまい込んだ重明が、男に向き直った。幼い少女を背に庇うことは、忘れていない。
「かように声を荒くなさいますから、幼子が驚くのです。幼弱な児女を泣かせるなど、棠梨の世子が為すこととは思えません」
「泣かせたとは無状な。小王が、なにをしたというのだ」
「脅かしたでしょうに。遠くから見ても分かるほど、震えておりましたよ。嗚呼、嘆かわしいことです……! 棠梨の万世を思うのでしたら、皇太子としての責を思い出して頂きとうございます。そも、どうして今、ここにいらっしゃるのでしょうか。何鳳翼が、殿下を探しておりましたが?」
「そっ……それを早く言え」
憤然として男――皇太子はふたりを置いて歩き出した。
偉そうなひとが、それより偉そうなひとに、偉そうなひとが探していると言われて急ぐ姿は、瑠璃を少し混乱させた。
もっともそれは重明の気にするところではないらしく、男を見送るや否や振り向いて、瑠璃に頷きかけた。
「さあ、参りましょうか?」
頷き返した幼い少女は、ほとんど無意中に手を差し出した。
ところが、対手がなかなか握ってこない。首を傾げて見れば、なぜか男は岩盤に彫り込まれた像のように固まっている。目の焦点も合っていない。
どうしたの、と言おうとしたが、この香りの良い男を令令と呼ぶか、哥哥とするかで、瑠璃は迷った。
称呼によっては、剛才まで笑っていた対手が翻白眼かもしれないから、と姉から教えられている。
でももう翻白眼なんだし……と、しばらく悩んで称呼を決め、口を開きかけたところで、微かに呼ぶような風色を感じ、瑠璃は樓道に目を向けた。
面熟な男が、歩いてきていた。
「静影哥哥!」




