胡思乱量
たとえば韶華にとって、近来得た喜事といえば、姉の婚姻が叶ったことである。
そこにもうひとつ――拭い魔が捕まったと聞いて駆けつけた場が、加わることになった。
「違うって言ってんだろがー」
男たちに押さえられ、暴れる男がいた。
声を聞いただけで、静影には違うと分かったかもしれないが、韶華はひとだかりをかき分け、思っていた男でないことを確かめてから、大息を吐いた。
もしや迷于香の官方、香試王重明であったなら、なんと言って助け出さねばならなかったか、考えるだに恐ろしい。
宮都甘棠を騒がせる変態が、知り合いだなどと、誰が知られたいものか。変態の友という誹りを受けずに済んだことは、祝いでも良いはずだ。
しかしそれは、捕まった男は拭い魔ではない、ということを示している。
そして実を言えば韶華と彼は、面生でもないのであった。
「あのですね……」
「ええー? この叔叔が拭い魔?」
「園丁に見えるけど……変態は、見かけじゃ分からないよね」
子どもらがささやく旁で、経管は打手たちを見て笑みをつくった。
「みんな、よく捕まえてくれたな。剛剛、ここに武官さまがお出でである。府上に連行して頂こう」
「いやだから待っ……」
「府上に行くまでもない。離してやれ。彼は園丁で、拭い魔ではない」
驚くひとびとの間で、園丁は静影を見上げ、涙眼になった。
「大兄、覚えててくれたか……っ」
「そうなの、わたしも知ってる園丁の叔叔だよ、拭い魔じゃないよ」
「小妹っ……」
園丁は近くにいた韶華にも気づき、すがるように再三頷きかけた。
猛然現れた将兵はともかく、界隈でも知られる韶華が知る者というなら、真正に園丁なのだろう。
それでも打手たちは、すぐには手を離さなかった。言われたからといって、従うような男たちではない。やがて紫石の双眸の明白さに押し負けるようにして、園丁を解放した。
男たちの手から逃れると、園丁はほっとしたように、腰にぶらさげていた手巾で貌を拭った。
それこそが、拭い魔としての差鎖を誘ったことは明らかだったが、止めろと告げる者はいなかった。炎天の下で働く園丁に、汗を拭うなと言うのは酷だろう。
「でもよ……この園丁、西街で見たことがないんだがなあ」
打手のひとりが、疑わしそうに静影を見た。韶華を疑うのは、怖かったようだ。
「馬叔叔、このひとが園丁なのは、事実だってば。わたしも会ったし。それに、見かけなくたって当然でしょう。西街に園丁が必要な院子を持つ館第なんて、あんまりないじゃない。妓楼なんかじゃ、決まったひとしか入れないんだから」
「それはまあ、そうだがなあ……」
「吾は、いつもは南市の近くで行をしてるんだよ。小妹と会ったのは、広場の近くだったが、あそこは……花客の王家のものでな……」
決まり悪げな園丁の様態からすると、燕楼、すなわち妾を住わせた別宅であるらしい。
「主持してたのは吾じゃあないが、あの時は、とにかく急いで隠したいから覆ってくれと頼まれたんだ」
「隠すねえ……あの院子、桂花が揃ってたけど……まさか納女考試のため?」
「そうなんだ。主から、香りのある花を盗まれないようにって。まあ、令女たちは選ばれなかったがな。なにやら、えらい美人に決まったそうじゃないか……一人もその馥気に惹かれたという、相対するものなき、花の如き女人だとか」
「そうともよ。一瞥すれば仙女さまも逃げ出すような、玉女だとも」
朱蕣への賛辞を聞いて、男たちの園丁への視線が急に緩み始めた。
西街の者なら、杜家の長女が後妃に選ばれたことは、誰でも知っている。自己を褒められたように感じるのだ。
流れが変わったのを察した園丁は、西街褒めを繰り返した。
「あの考試では、西街の女人が最も多く、終いの一場まで残ったって聞いたよ。吾が知ってる南市の辺りじゃあ、立即と帰ってきた令女の嘆きばかりさ。それでも、訂婚を請う紅娘が天天、門口に並んでたよ。この界隈じゃあ、列ができるだけじゃ済まないだろう」
「そうか、南市でもそんな感じかい。自尊じゃないが、西街はもっと凄いぞ」
「だろうなあ……まあ、王家の令女は、次を狙って訂婚を断ってるようだがねえ」
「まあ、なんか知らんが、変態扱いして悪かった。兄弟、良ければ呑みに行こう」
好主意と言って、園丁と男たちは酒楼に向かった。腰包になりそうな経管まで混ざっているので、長い宴になるだろう。
男たちが相好して去って行くと、女子どもと静影は、まさに取り残された。
だが、そもそもが拭い魔を見に集まっただけなので、あとはただ、ぼんやりと首を横に振って、三三両両と来路を戻って行く。
「えっと、それじゃあ韶姉……再見」
「次は武術を教えてね」
子どもたちに手を振って応え、韶華は静影を見上げた。
紫石の内に諦めが見える。とても疲れているようだ。しかし言わざるを得ない。棠梨の将を、変態の同伴にさせないためには。
「今天は違ったけどさ、早いとこ、あのひとをなんとかしないと」
「そのことで、おまえに助けを頼みたかったが……もう、そんな暇はなさそうだ。このまま、あいつの家に行くことにするよ。天黒も近くなって、姑子に頼むのは間違ってるしな。早く」
「帰れ、でしょ」
分かってるよ、と韶華が大きく頷くと、ふたつの結い髪も力なく揺れた。
「静影を助けるほうが楽しそうだけど、専程、大学とを居間ってくれたひとのためにも、もう少し……通ってみる」
「それがいい。後宮の武挙は、まだだろうから、慌てることもない」
「にしてもさあ、皇太子っていくつなの?」
韶華の問いに、静影は紫石の双眸を古怪そうに瞬かせた。
「園丁の叔叔が言ってたじゃない、南洛の顔甲粲女は、皇太子狙いだって。まだ妃のひとりもいないんだよね? それとも、知らないけど後宮には、隠してる愛妾が万といるとか?」
「いない……はずだ」
「真誠でよろしい……まあ、大君子である一人が後妃をもらうくらいの齢なんだから、嫁を迎えるには若い、のかな」
「殿下は、俺よりひとつ年下だ」
「えっ、年下? そっか、えっ……」
韶華は顏を逸し、咳込む胸を軽く叩いた。続く言を急ぎ呑み込んだものの、静影の当前で、焼栗色の髪が跳ねるのは隠し切れなかった。
「どうした、韶華。着涼か、炎毒か?」
「いえっ……なんでも、ない、ですッ。まあ……あの、それで後宮もなしって、よく許されてるね。棠梨の丕子が独り身って」
静影が皇太子より年上だとしても、光棍で悪いことはない。はずである。が、韶華はできるだけ静影に話が及ばないよう、言を選んだ。
「よく考えるのは悪いことじゃないよね。事情はそれぞれだし対手……でも、待って? 訂婚はしてるかもよ……名門なら会ったこともない、どこかの令媛と幼い頃に話が決まってても、古怪はないし? 当人だけが知らないとか……あり得る、よね……」
「みなが気にするのは分かるが、殿下の后妃については……いろいろと理由があって、決まってないんだ」
「は? ああ、東宮については、そういう事情も分かるよ。そうではなくて、静影の……」
俺がどうかしたか、と首を傾げる男は、韶華の弄假したかったことに、全く気づかなかったらしい。
それはそれで良いともいえる。自身が未婚であることを、難と感じていないのだから。
(でも双親は、そう思っていないよね……)
徐家は息子を光棍のまま、抛っておいて良い家世ではない。いつになっても息子が女人と酬応う様態がないというのは、かなりの心事になっているのではないだろうか。
(事情ありの皇太子以上に、言われてると思うんだけど……いいのかなあ)
恋愛欄目への投稿が、静影のものと思っていた時であれば、実は悩んでいたんだなあと思えなくもないが、そうではないと知った今は、問わねばならない、かもしれない。
「ね……お嫁さん、欲しくないの?」
「願えば決まるものでもないんだ。宮廷というところでは、後台……」
「そっちの話じゃなくてね。まあいいやもう……」
韶華は大息で話を終わりにした。膠固で知られる男に風情を尋ねる無用さを、思い知るだけだった。
「だけど皇太子の後宮も、いつかはできるんだよね。ずっと伶行というわけには、いかないんだし」
「まあな。いずれはな……」
静影の口気には、僅かな暮気が混じっていた。
「これで明年、皇太子のための、後宮の考試があります……ってことで、また貢挙に遅疑があったら、進士のひとたち、消気するよ。さっさと作ればいいのに」
上次の納女考試でも疑問に思ったが、皇太子が、なぜ後宮を持たないのか古怪である。
開首に朱蕣が考えていた大家を探す法子は、皇太子の後宮に、『女官』として入ることだった。そこでなら、顕官なる諸位と出会える。捕えることができる、というわけである。
姉のように女官狙いでなくとも、皇太子の後宮を「待って」いる者は多い。とくに児女を后妃にしたい大貴族たちなどは、幕後で争っているに違いない。
反正そのほとんどが後宮入りするのだから、早めに集めておいても構わないと思うのだが、
(お姉ちゃんみたいに、どの位に就かせるかで揉めてる……のかなあ)
妃の序列にこだわりがないのは、韶華が庶人だからなのか。
「韶華、おまえ……後宮に入りたいのか……?」
静影がひどく弱い声調で問う。
「入れるかな……どうかなあ」
遠い宮殿を思い浮かべ、韶華は、ふと引っかかるものを感じた。
皇帝の空の掖庭が、後妃となる姉ひとりのために、女人の衛兵を求めているのならば、皇太子の妃たちのためには、もっと募兵されるはず。つまり、女人のための武挙は、恰当に行われるということだ。
人数を揃えたいのなら、模倣だけの武術しか知らない韶華でも、合格できるような気がした。景景ではないが、今から鍛錬すれば、首席とは言わないまでも、前十位は狙えるかもしれない。
次の武挙は間に合わなくても、さらに次を狙えば良いのでは、ないだろうか。
そのためには、大学も重要だ。国子学に上学しているという料があれば、秘書省の東壁にも入ることができる。
棠梨の稀少な書籍が揃えられているという東壁。そこで武道の秘籍を探してみれば、きっと――
(そうだよ……! 大学も武挙も、どっちも諦めなくたって良いんだ……!)
二兎が跳ねて行く光景も見えないではないが、構うまい。
口許に薄い笑みを浮かべた韶華は、黙ったままの静影を振り返った。
定神不在幽人の如し。
顕士今眼睛混濁たり。
同意でも反駁でも、なにかしら回応があるものと持っていたのに、韶華が思わず身躯を引いてしまうほど、静影は言いようのない表情をしていた。
「静影、どうしたの……?」
「いや……なにが?」
「なにがって……洩気て」
魂魄が九泉に沈んでいるように見えますが。
「そうか。変わったところは、ないはずだが」
と言われても、頷けるところはひとつもない。
紫石のような目が、韶華を見ているようで、見ていないと思うと、高揚していた心目が、急に沈んで行くのを感じた。
「あんまり……そんなふうに、黙らないで欲しいな」
「そんなと言われても」
「だってなんか……なにも言われないと、係わるつもりがないって……思われてるみたいで、欠佳なんだ。微に入り細に入り怒られても、気にしないけど」
「そこは気にしろ。というか、無言のほうが不利って、おまえの老底というやつが知れるぞ。だいたい、なにもかも言にするな、と前に言ったから……少しは考えるようにしてるだけだ」
静影の口気にはまだ昏さが混じっているが、照様に言い返されて、韶華はほっとした。
呆れているような紫石を見るのが、やはり良いのである。
「少し商量があるんだけど、後宮に入るなら、輔助してくれるかな。瑠璃を連れてくなら、楽な法子が良いんで」
「瑠璃? 瑠璃を後宮にって……」
「良いよね? お姉ちゃんに会えなくて、寂しそうで……」
「後宮に入るって……そういう意思か。まあ、そうだよな。それしかないか……」
静影は力強く頷いた。
同意を得た韶華もほっとして、大きく頷いた。
「だよね、やっぱ水渠を使うのが良いと思うよね!」
「待て、水渠ってあれか!」
「ほかにあるなら、それでも良いけど。あれだったら、東宮の後宮のすぐ旁に着けるし、今なら、そこにひといないし」
「殿下の後宮を気にする理由は、それか……」
「奥まで入るのが厳しいなら、東宮後宮の院子まででも、充分なんだけど……」
堪えた笑みとともに、静影は分かったと呟いた。
「入れるよう、配合しよう。ただし、どこを歩くにしても、紅女史には、見つからないようにな」
「分かってるよ……って、静影、楽しんでる?」
「べつに」
草率な説法にまた戻ったものの、正色の黒玉のような紫石の双眸に、査牙しさは含まれていなかった。




