団団心事之二
静影は持っていた片書を韶華に渡した。
なにかと思えば太常寺からの證明信――の写しであった。洒脱でありながら清楚とした筆迹である。
「これは……?」
「俺はおまえのように、一瞥で覚えられないから、かなり略してあるが、禮院禮生としての料を特別に貸すので、杜韶華を『学生』として扱うように、と書かれたものだ。庶人としてでは上学が難しいので、そうなったようだ。だがこのために、辞めるには、太常卿に准許を得なくてはいけない。そんなこと……おまえは、してないだろう?」
しているはずがない。韶華が大学に通うのに、太常寺が絡んでいることさえ知らなかったのだから。
呆然とする韶華の旁で、小さな頭が片書を見ようと心切になっていた。大学について知りたい永児である。
静影は少年に微笑みかけた。
「きみは、大学に行きたいのか」
「行きたい。でも……ぼくは庶人だから、入れないんだね」
「いや、入れる。韶華に法子が必要なのは、いきなり編入させようとしたからだ。きみはまだ幼いのだから、歩ごとに進んで行けばいい」
怕羞する少年と、頷く男。見ているだけなら微笑ましいのに、なぜか、韶華の口からひどく棘のある言が洩れた。
「静影……小児には優しいね」
「そうか?」
「そこにいるのは瑠璃を欺負る小鬼なんですけど」
「今は欺負て……ないな? 見ろ、もうしないと言っているぞ」
忙しく頷く少年たちを示し、静影は不穏さを露わにする韶華に、悍馬を静めるが如く、双手を広げてみせた。
「えー、それは不妙って大哥……!」
少年にさえ分かることが、静影には分からなかったらしい。香青路の凶狼という韶華の称呼を知らなかったことを除いても、姑子に対する動作でないことは、明らかであるのに。
景景の手に握られていたはずの棒が、風を切る音とともに消え、落下するより速く、地表に打ち下ろされた。
もっと正確に言えば、静影の脚先に。
知名甚だしき棠梨の将が、呻き声ひとつ上げなかったのは、ただの偶然である。
「し……韶姉、好! 一打で大哥を倒した! オレにも、そういうの教えてくれるかなっ」
「不愧是! 韶姉は強いねえっ。景景も、教えてもらえば強くなれるよ!」
「そういうの、不容だから」
少年たちの下拙な演技も、韶華を消気させることはできない。黙して悶える静影を見ながら、景景は投げ返された棒を受け取った。
「永児……もう韶姉に謝るしかねえよ」
「そ、そうだね。でも景景、ぼくだけが悪いみたいな説法やめてくれない?」
「だって瑠璃に難看って言って、泣かしたのおまえじゃん。オレはそんなの……言わないし」
「瑠璃がみんなと遊んでたら、すぐ仲間外れにしようってけしかけるのは、景景だよ。いつもそれで、瑠璃が泣いて帰るんだ」
「そこは連座だろっ」
ふたり少年の責め合う姿を当前にして、韶華は少しだけ遠い目をした。
罪を犯したものが、誰に問われたわけでもないのに、自ら投案するのはなぜなのか。
しかし彼らの投案は、ある部分で効果があった。韶華の動気は、静影へのものであって、少年たちに向けるものではない。
「少し作弄しすぎたね……今、悪いのはそこで悶えてるひとだし。だから助言しましょう、永児」
妖しげな笑みを皮相に張りつけ、韶華は高らかに告げた。
「いくら庶人が入れる大学でも、四門学は勧めないわ! あそこは、国子小学から来た者しかいないのよ。学堂からでは、擯、諸、門、外!」
「えっ……でも、西街に国子小学はないよね? ぼくはどうしたらいいの?」
永児の疑問ももっともである。
棠梨の子どもが学ぶ場には、ひとつは学堂――市人の誰もが、年齢を満たせば入れるものと、もうひとつ、国子小学というものがあった。
それぞれ管理が別だと思えば分かりやすいが、国が認めているのは国子小学だけで、入学できるのは貴族や顕官の子息に限られる。
つまり国は、庶人を教養することを務めと考えておらず、官吏を退いた者などが開いた学堂に全てを押し付けているといえる。
学堂の入学が六才からなのは、国子小学に入る年齢の八を満たすより先に才能を伸ばせば、運が良ければ跡継ぎのいない官吏の家に、領養される可能性があるからだ。
もっとも、永児に限って言えば、張家の宗子が領養など不在。
だから学堂を出たのちに、やはり私営の大学にあたる書館に入り、各次の上位を取って、俊士生として国子大学に入れてもらう法子となる。
「でもそれって長くかかるし、仮に席をもらってるみたいなものだから、男子なら貴族か顕官の家門に半子として入って、仮でも資蔭を得るべきね! そうすれば、国子学か太学には入れるし。わたしのお勧めは国子学ね。そもそも抛っておいても官品が頂ける家の令郎しか来てないから、すっごく平穏。進士さまを激昂させなければだけどね!」
「ただ怒らせただけじゃないのか……」
苦しげな息の下から、静影が呟く。
韶華は少しだけ勢いを落とした。
「怒らせたのは、わたしが入る前のことについてだから、どうしようもなかったんだ」
わけもなく激しく責められたと腹を立てたものの、彼らはただ、憤りをぶつけていただけだった。今の大学にいる進士は、去冬の合格者なのである。
「よく分からないよ、韶姉。去冬?」
永児が首を傾げる。傾げたくなる心目は、あの時の韶華も同じだ。官人になるまでの歩など、知らなかったのだから。
つまり、貢挙を経て進士を得ると、品階を与えられてから吏部銓に加わることになるが、そこで官位を得なければ、庶人となんら変わらないのである。
全ての階段を済ませるまで、進士たちは大学に留まるが、本来はそう長くいるわけではない。
ところが今年は納女考試が行われたために、彼らはそもそもの品階さえ、授与されていないのだという。
「ああ、それは俺も聞いている。吏部銓のための時間が取れないとか……」
「それはでも、尚書省の借口だよね。進士のひとたちは、このまま忘れ去られたらどうしようって……思ってるみたいだよ。分からなくもないけど。なんだか、今年の貢挙がないかもしれないって、話まで広がっててさ」
「その可能性は、高い……らしい」
「そういうの、もっと早く知らせるべきだと思うよ」
「すまない」
氷のように澄んだ紫石の双眸は、決して外表ほどには冷たくない。それでも宮城の向こうを羨む者たちには、跳ねつけられたように思えるだろう。
おそらく韶華も、同じように思われた。
あと少しで壁を越えられる。それが滞り、悩む彼らの当前に、好奇の思いだけで大学にやってくる者がいれば、どれほど怒りを募らせるかしれない。
「知らなかったとはいえ、心煩ついてるところに起因がさあ、早、そこ紕繆ってない? とか言い始めたら静かにしていろと命じたくも、なるかもね」
「静かにすれば良かったのに」
「できたら韶姉じゃねえよ」
「そこ、聞こえてる」
韶華の勢いが戻ったと知って、静影は微かに笑った。
「おまえが悪いわけじゃない。乱発火されたと分かっているなら、もう対侍できるだろう。武挙を考えるのもいいが、しばらく大学に通ってみろ。おまえの才能を信じている者がいるんだ」
「そんなひと……」
いるかな、と言いかけ、少なくとも姉は、信じていることを韶華は思い出した。
低声ではあるが、ふたりの少年も是と呟いている。
「分かるだろう? 重明も、そのひとりだ」
今は殿中省において香試を勤める王重明だが、以前に属していたのは太常寺である。薬園師としての才能を、香好みの皇帝に見出され、破格の出息をした。
そして良くも悪くも、並びから飛び出す者に向けられる視線を、その身に浴びることになった。
だから重明は、疎まれることを知りながら、先の門道を使い、太常寺に證明信を出すように頼んだのだ。
「あいつとは、香試になってからの付き合いだが、才能を認めさせるのが難しいことを、誰よりも知っている男だ。おまえが大学を辞めてしまったら、どうしてその才を知らしめてやらないのかと悔しがるだろう」
「そんな良いひとが……あんなことを?」
「言うな」
短く下したものの、静影の表情には怯えがあった。
「えっと、あの迷于香、真に不妙そうなの? 静影が回収しないと不成な感じ? だったら幼い子になにかある前に、捕まえないと」
「それなんだがな」
紫石を隠すように、純黒の髪が目許に影をつくる。
炎天の下で背の高い男が僅かに俯くと、どこか狷介さが薄まって見えた。
羞じているような、あるいは羞じらっているような。
不妙な話の続きのはずなのに、韶華の心目はひとつ、跳ねた。
「韶華、こんな時に言いにくいのだが、少し……」
「淑英女士!」
静影のささやきは、猛然と路に駆け込んできた男の叫びに打ち消された。
界隈で打手をまとめる経管である。
「小妹っ、淑英女士は居るかい! ああっ、いいところに甲士がっ! とにかく来てくれ!」
「まあ叔叔、どうしたの。急ぎの工作でもあるの?」
経管の大きな声に気づき、杜家の女主が外に出てきた。己の姑娘と知己の将兵がともにいるのに片刻、驚いたものの、すぐに経管へと向き直った。
「すぐに来てくれ! 化者、じゃなかった、拭い魔が出たんだ!」
拭い魔。
いつの間に外号がついたのか。
「叔叔、拭い魔って……」
「おおい、向こうでやつを捕まえたぞお!」
韶華と静影の最も知りたくなかった事実が、明らかになろうとしていた。




