団団心事之一
「なんだか、いきなり暑くなったなあ」
烈火のような陽を避けて作房に入ったものの、暑さは韶華の身躯にまとわりついて離れない。
炎陽の神が最も力を示す令であれば、やむを得ないのかもしれないが、うんざりしながら、房内の香りを吸い込んだ。
まだ微かに螢惑の甘さが、残っている。
湧き上がる切なさは、香りが記得したものを掻き立てているからなのか、去向を迷う心境からくるものなのか。
不久前まで、全てを納女考試に費しながら、緑の濃くなるのを見ていた気がするのに、時の移ろいは早いものである。
「なんだろうねえ……暇はあるのに、悩んでる暇はないというのが、困る……」
韶華は卓上に置かれた函と、刺繍を施された帛の袋を見て、大息を吐いた。
姉を後宮に入れたことによって、韶華は、皇帝をも魅了した香の匠、という誉れを得た。
香試になるつもりはないが、界隈の令媛から頼まれれば香を作っている。
卓上にあるのは全て、そのために揃えたもの。これらを配方している間は、韶華の髪や衣に香りが移るので、家に帰る次に、瑠璃が喜んでいた。
だが、そろそろ香りで存在を知らしめるわけには、いかない。訂購のあった貨物は納め終えたので、次があるまで使わない。片づけておこうと思うのだが。
少し考え、韶華は隅に置かれた櫃から、布の塊を取り出した。
烏黒をした衣、それは貴族たちが乗馬に際して着るような、褶と袴のひとそろいだった。
そして市人が見れば、まず匪徒を思い浮かべる貨でも、ある。
棠梨の若い女たちが好むのは、やはり華やかな裙襦だ。
もっとも韶華のように、動きやすさから脛衣を選ぶ者も多く、それが極まって男の化装をする者もいる。
だから街を歩く女人の姿はさまざまで、袴を着ているからといって、匪賊に思われることはない、はずである。
しかし静影は、烏黒の衣装を着て北斗丘に入り込んだ韶華を、怪しいことをする者だと決めつけた。
大約、正しい判断である。
棠梨の鋭将と言わねばならない。
衣装は、どちらも北斗丘の川に落ちたあと、漫漫と洗ったこともあって、汚れは残っていなかった。心事であった移り香も、思ったほどにはついていない。
これなら烏黒の匪徒、望舒党をするのに、難はない。が。
「やっぱり、断ろうかな……」
「韶華姐姐、いる?」
古びた戸が、がらりと開けられた。
「不佳でしょう! 来るのはいいけど、返事を待ってから戸を開けなさい」
烏黒の衣を函に押し込み、門口を振り返った。
ごめーん、と全く謝る気のない悪童と、しまったという様態の張家の宗子と、対照的に見えるふたりが、そこにいた。
「景景、どうして長棒を持ってるの。瑠璃と遊ぶのに、それは……」
「べ、べつに瑠璃を誘いに来たんじゃないぞっ。叔叔が怖いから、こっちに来たわけでもなくてっ」
「ぼくは景景と違って、遊ぶためにきたわけじゃないからね」
無用に偉そうな景景に続き、永児も対抗するように胸を張る。手には帖子を持っていた。
「ぼくは、杜二姐が大学に行ってるって、聞いて……それなら、ぼくも、どうやったら行けるのかなって」
「オレだってさあ……あの、杜大娘がさ、オレの母ちゃんに頼みごとしてんの聞いたんだ。それで気になったんだけど、武挙って……武人になる法子だよね、確か」
少年たちの渇望する目が、韶華に注がれる。
下次は、韶華がごめんと謝りたくなった。大学は追い出されている上に、いずれ行われる武挙は、おそらく女人のものである。少年たちに教えられることは、あまりにも少ない。
「ええっと……そんなに中用なことは、言えないんだけど」
暗に訊くなと示した打算は、それでもいいよ、と輝く少年たちの目を前にして、陥落した。
韶華は言を撰びつつ、心細く語った。
まず、今、話題になっている武挙は、後宮の手兵を増やすためのもので、男子には係わりのないこと。そうでない武挙も当然あって、景景の年齢であれば多半、受けられるだろうということ。
伏せたのは、言うところの武挙がいつ行われるか、そして、白衣の介士にとっては重要なものではない、という部分である。
「オレでも……参加できるんだ? それですっごく努力したら、武官になれるかもしれない?」
いつも遊び回っている少年が、努力という言を出す。そのことに驚いてはならない。
だから、少年が次になにを言い出すのか、韶華には分かった。
「今からでも鍛錬すれば、合格できるかな? 韶姉、教えてくれる?」
「景景、その称呼は猥眼しいんじゃないの。まあ、いいけどさ……でも武術を教えるなら、家母のが向いてるよ?」
なにを思い出したのか、景景の表情に狼狽が混じった。
杜大娘は怖い、だろうか。
「わたしが教えると、自己独特的になるけど、いい?」
「いいよ! それじゃ、今天から」
「待ってよ、景景。韶姉、ぼくの話は? ぼくは大学の話を……聞きたい」
「だから猥眼しいってば……うーん」
張家は西街でも知られる大家である。用項については、労心ない。
おそらく、入れるには、入れる。庶人も受け入れてくれる四門学という大学は、あるのだ。しかし。
「ええっと、ふたりとも、少し外に出ない?」
「暑いのに?」
「そうでした。じゃなくて……杜家に片書があるから、取りに行きたいんだ」
天真に頷くふたりは、悪童といえど、まだまだ小人だ。無用に時を稼ごうとする韶華の策に嵌まった。
いかにして夢を壊さず、真実を扮飾するか――庶人が入れる大学はひとつしかなく、それも貴族の郎子たちと、代々通いはしても、官吏になれない大家の浪子たちばかりで、一共敗類を数えるだけだなどと――まだ条理を知らない子どもに、言えるわけがなかった。
「そういえばさあ、韶姉。オレ、藍雪路で望舒党を見たよ」
「えっ?」
「ええー。望舒党って、どうして分かったんだよ、景景」
侮弄する友へ、少年はむきになって言い返した。
「だって黒い衣を着て、面貌も分からないくらい速く、逃げてったぞ」
「黒い衣ってだけじゃあ……狗盗かもよ」
「狗盗なんかじゃないって。房頂を、ぱあーっと越えて行ったんだぞ。預検に来たのかも」
景景が示した房頂は、ひとの住んでいない房子のものだ。猫でも見間違ったと言いたいところだが、韶華には思い当たるものがあった。
(藍雪路で、黒い衣かあ……)
考え込む韶華の袖を、永児が軽く引いた。
「なに?」
「大学って、どういうところ?」
「うーん……官人になるための場、かな……」
言ってみると、それが真実に思えた。
墨で描かれたものなら、一次見れば覚えてしまう韶華にとって、ひたすら書籍を読むだけの課は、意思がない。
得るものが全くなかったわけではない。同じ課本を使っても、教授によって解釈が違うのである。
しかし、有趣と思ってそこを問えば、ただ叱責されるのみ。そして尖子と自尊する学生との舌争へと続き、渇れた声を以って下課となるの繰り返し。
覚えることが、理解ではない。
それが香の秘方を得たあとで、韶華が改めて気づいたことなのに、大学では覚えるだけが、全てのようだ。
大学で、なにをすべきだったのか。
それが分からなかった者に、大学を語る言は見つからない。韶華は永児の頭を軽く撫でた。
「あのね、わたしは大学をね……」
「韶華」
杜家の前に立っていた影が、穏やかな声で韶華を呼んだ。
「静影っ? どうしてここに来てるの」
不久前、静影からかけられたのと似た言が韶華の口から洩れる。
問われた男は、紫石の双眸を僅かに曇らせた。
事があるから来た。とだけ言えば、少女がもっと解釈しろと返してくるのは、分かっている。
とはいえ生来、膠固な質である彼に、それ以上、言うことはなかったのである。
前額にかかる髪をゆるく掻き上げ、韶華と、両旁の好奇に満ちた子どもたちとを交互に見た。
「なあ永児。韶姉って、この大哥と酬応ってんのかな」
「えっ、なんでそう思うの。少し真卒すぎない? 韶姉の漫談に、ついていけなさそうだよ」
「聞こえてるんだけど」
「あっ、思い出した。夜の帝といたひとだよ! それなら白天の……皇帝って感じじゃないよね。ええと……」
「白天の宿将とか、良くない?」
「好主意! でもそこまで好吃ないと思う」
「停!」
両の手を拍打する音と響く声が、少年たちの口をぴたりと閉じさせた。静影の実に武人らしい、掌握の做法であった。
「人家で騒ぐものではない。それに年上に対する口気でもないぞ」
「ご……ごめんなさい」
「ごめんなさいっ。いつも親に韶姉を見習えって、言われてるからっ」
項垂れる少年たちを見ていた静影の紫石が、韶華を責めるものになった。
「ちょっと景景? 責任を推委するのは止めてくれるかな?」
「だって、母ちゃんも学堂の老師も、そう言うよ?」
「倣うところが違うと思うんだけど! 静影、責める目で見ないでよ! 景景、もう武術の鍛錬につきあってやらないからっ。退学して暇だけど……」
韶華の消え行く言に、静影が否定を被せた。
「違うぞ、韶華。おまえの席はまだある」
「え、でも」
「ある。それを教えに来たんだ」




