波瀾之白果舎
大学を放り出されたことが、家人に明らかになり、韶華は次日、堂堂と白果舎に向かった。
雑誌『白果』の恋愛指南の専欄作家は、なかなかに忙しい。
固然それは、大学と作家とを兼ねなければならない、という事由があってこそ。今は当てはまらないかもしれない。
とはいえ、ほかに急ぐこともない。次の策と思った武挙についても、すぐに処理できないとなれば、元の行に戻るのが善――白果舎の牌子が見えたところで、韶華は帯に差した小筒を、確かめるように触った。
竹で編んだ筒に、色糸を巻きつけた細工物で、字を書けるようになると同時に、父親から贈られたものだ。
いつも持ち歩いているそれには、今は細筆が二支入っている。白果舎で行をするには、使い慣れた筆に限る。
だが、小筒に触ったことで、韶華は内心に抱えたものに気づかされた。
微かな心事が、白果舎にあることに。
「やれ、やっと来たか」
韶華を見るや否や、老板である白老人が奥の椅子から立ち上がった。
「白公公、どこかに行く事でもあるの?」
老爺は韶華に静かに、の動作をしてから、黙って隅を指さした。
忘れるのも難しい、小さな韶華の心事。長らく白果舎に姿を現さなかった男が、几案に向かい、苛々と頭を掻きむしっていた。
「冬栄先生……ようやく来たんだ」
「ああ、老早からな」
「なんか心急そうだけど……家事でなにかあった?」
「どうも料理が気に入らなかったようだな。まあ、わしらには言わんだろうがね。それとな、おまえに端午の扇を持って来たぞ。長く休んだ謝罪のつもりかね」
「端午ってさあ……もう夏至になるじゃないのよ」
韶華は呟き、書籍の上に置かれた檀香扇を手に取った。
淡い栴檀の香りがする白い扇は、ひと振りごとに芳しい風を送り出す。端午の祝いには遅れたかもしれないが、これからの暑さをしのぐには、切合のものだ。
「いいのかな、もらって」
最近香について学んだだけに、手にした扇が、安いものでないことが分かる。
広げた扇面から漂う仄かな甘さは、攤子で売っているような品類では、あり得ない。同事に贈るにしては、大仰すぎるのではないだろうか。
令に敏感で古奥なのは良いが、不相応な佳品を見ると、気の細やかさが方角違いであるような気がした。
(大家で育ちが良いと、そんなものなのかなあ……)
韶華はいつの間にか消えた老板に内心で舌打ちをして、男にありがとうと声をかけた。
「どうせ売るのだろう。だったら高いものが良かろうと思って、それにした」
「そこまで小気じゃないよ。これは売らないで、妹に渡す。それにしても、なにを苛ついてるの。いくら忙しいったって、わたしだって冬栄と同じで、いろいろあったんだけど」
「聞いた……若の令姉が、後宮に収まるんだってな」
ぎっぎっぎい、と椅子の軋む音とともに冬栄が振り向く。
その気色があまりに冴えないのを見て、韶華は首を傾げた。
家事に悩んでいるのとは、違うように思える。しかしまさか、朱蕣が后妃となるのを悲しんでいるわけでもあるまい。杜家の者とは面生のはずである。
もっとも、冬栄は自身のことについて、ほとんど語らない。尋ねても無用なのは分かりきっているので、韶華は言いたいことだけを口にした。
「わたしの主持する欄目なんだけど、いつから男子恋愛指南になったの?」
「指南? ああ、いつからだったかな……我の欄目の『管保酬応!』が超量になって、麻煩そうな封信を家相の投稿に混ぜてたから……そのあとなのは確かだ」
「そんなことしてたのか! なんか家の窓の向きの話なのに、人家の妻との倫情が書かれてるのは、不妙だなあって思ってたけど!」
韶華は自身が使っている几案を、ちらりと見た。
昨天までの堕落の巣が、投稿の封信も原稿のための烏紙も、きれいに整理され、並べられている。
冬栄が白果舎に来た証でもあるが、思い返せば、こうやって片づけられた時に、封信が混ぜられていたのだ。
「家相の作家に、どうして恋愛指南をさせようと思ったのか……」
「おまえは我と違って、全て読んで回答するからな。だからこそ、瑞頌老師は心血を注いで助言してくれると名望が高まり、感謝状まで来たんだ。そうなると投稿欄の題を変えるのも、当然だろう」
「知らないよ、感謝状なんて! 悍然で家相と情話を繋げて書くわたしの労苦を、少しは知れ!」
と、怒ってはみたものの、冬栄が思い出せないくらい前から投稿を混ぜていたのなら、アレが来始めた時期を確かめるのは、不成かもしれない。
「あれとは?」
冬栄の冷めた視線が韶華に向く。
韶華は冒失、声に出していたらしい。
「ええと……」
アレ。すなわち棠梨の名将、徐静影――左領左右府将軍の、恋愛請教の封信。
しかしこの回答は正しいとは言えない。あれは、誰かが南衙軍の徐膠固の筆名を使った、假冒しての投稿なのだ。
静影のことを知り尽くし、投稿者はどう考えても鹿追偵人。
そういう者が、実は近くにいることも稀ではない。つまり、冬栄がという可能性も、ないではない。
(まあ、それはないか……)
大息ひとつ吐いて、韶華は椅子に座った。
「誰にも言わないで欲しいんだけどね、わたし、投稿者に会ったんだ」
冬栄の秀麗な眉が上がるのを見て、慌てて、韶華が瑞頌老師であることは教えていないと付け加えた。
「係わりのないことだから、言わなくてもいいかなって。だって、そのひとは投稿してないって言うの。封信に書いてあることは、真正らしいんだけど。でもそれって不妙よね? 個人情報だだ洩れだよ? それで誰が鹿追偵人か、調べるって言ったんだ」
「奇想な」
「そう言われると思ってたよ。だけどなにか気づいたことないかな」
「杜韶華、故意に言わないでいるな。どの投稿者についての騙りなのか分からないのに、我にどうせよと言うのだ」
そこは慮って下さいよ、と言いたくもなるが、韶華は耐えた。
「だいたい、そんな徒事に係わっている暇はあるのか。おまえは、大学に上学すると聞いたが?」
「あ、もう通い終わりました、はい」
冬栄の白浄なる面貌が、白白になった。
「そんな驚かないでよ。あとは誰でもいいから偉いひとに捻じ込んで、推薦状をもらえば今年の貢挙も投考できるよ! する打算はないけどね!」
「おまえというやつは……」
呆れる冬栄に鬼瞼をし、韶華は積み上がった封信をひとつ手にした。
幸いにも偽静影の封信ではない。定期の投稿ではあるが。
「とにかくね、少し暇になったし、調べたいこともあるから、また恋愛指南の欄目を続けるけど……もう増やさないでよね。武挙があれば、そっちで忙しくなるかもしれないし」
「武挙? 後宮の募兵か?」
「やっぱり、風聞になってるんだね。考えてるだけなんだけど……うーん、爺爺ってば、毎次雄大な志向を書いてくるなあ。大婚に合わせて、新たに妻を娶りたいんだって。そういや、大婚っていつ?」
「令姉から聞いていないのか……」
「聞けると思ってるんだ」
当然の返しを得て、韶華は大息を吐いた。
言も交わせないのに知るわけがない。姉が妃になると決まった日、韶華は、あれから朱蕣と会っていない。
「封信をさあ……宮城からの使いが、恭しく持ってくるんだけど……」
詳しく書くことを止められているのか、忙しく過ごしていると、知らされるのみである。
「杜家にとっては、初めて児女を嫁がせるのに、酷いよね。お姉ちゃんが、どの妃の位を賜わるのかも知らないんだよ? 上のひとびとの考えも……分かるんだけどさ。庶人の妃には、郷里と係わりを絶って欲しいんでしょう? 冬栄先生も、ここに来るまでに香青路の近くを通ったなら、分かるよね」
冬栄は頷いた。小さな房子が並ぶだけの、妓楼や酒楼があるわけでもない路に、入れ替わり立ち替わり、包みを持ったひとびとが集って、いや、集っていた。后妃を出した一門と、繋がりを持ちたい者たちが列を為しているのだ。
「あれでも数は、少なかろう。正式には、杜朱蕣の名が明らかになっていないからな。もし三夫人の位でも賜われば、大貴族だって好討に来る」
「だよね。だからお母さんが外で打手の行をしないで、家にいるんだけど」
実のところ、あまり必要なかったりもする。杜家を見た者は、母親に追い返されるまでもなく踵を返していた。
戸から外を覗く父親が痩せ女――棠梨で恐れられている、子への情が凝り固まった女妖に見えて、呪われた家だと思ったらしい。
「来るひとは、まあ……そこそこ大家だから、界隈の酒楼は寄ってもらえて喜んでるよ。でも、子どもの居る家は困ってる。外に出せないって。うちも妹が退屈しててさ。静影が巡察を寄越すと言ってくれたけど……」
「静影……」
冬栄が眉をひそめた。
「あれ、知ってるの……って、将軍の名くらい知ってるか。冬栄先生、名門一家については詳しいしね。で、大婚っていつなの? 下月じゃないなら、すっごくあとになるから、諦めろと書くわ」
紙を取り出し、韶華は老爺への答案を書く準備を整えた。
「冬栄先生?」
「ああ、大婚は……そもそも下月は、嫁を娶ることが忌まれている。一人の嘉礼に瑕疵はあってはならないから、青女月になるのではないかな」
「そっか。じゃあ九日節に合わせるだろうと書いて、老人には、登高のが楽しいよと勧めておこう」
さっと書き入れて、ふと韶華は顔を上げた。
「青女月までは、後宮に動きはないんだね? でも本月には確か……行幸があったよね。お姉ちゃんを宮殿に残して弄……皇上は、なんとかって宮に行くの? それに、そういう時は」
中途で切れた言を繋ぐように、うむ、と冬栄は大きく頷いた。小故に怒りを募らせていた面色が、ようやく戻ってきていた。
逆に韶華の目は、どんよりと曇る。
分かっていたはずだ。冬栄が諦めるような男ではないと。
「やっぱり、まだ、やるんだ……」
「当然だ。なぜ止めるなどと思った。少しばかり間が空きすぎたくらいだ」
拳で几案を叩く男に驚き、書肆に入りかけた客が慌てて出て行った。
韶華は窘める視線を冬栄を向けるが、男は全く気にしていない。ひとりで幹気を昂じていた。
「もう大学を終えたというなら、暇だろう」
「そこそこ暇ですけども」
言の端を濁しながら、睇視で卓上の封信と同事を見比べる。長姉を後宮に送り込む先と後で、あまりやっていることに変わりがないのが、少し寂しい。
(まずは大学で……いろいろと学んで、次を考えようって思ってたんだけど……)
迷いを察したかのように、冬栄は韶華を撲面から見つめた。
「副手としてのおまえがいないと、困るんだ……おまえの小技は、実に有用だ。次の方案はできている。黙って従ってくれたら、それで構わないから」
「それ、褒めてるのか、貶してるのか分からない」
「世のためになることだぞ。おまえも、楽しいと言っていただろう」
まあね、と韶華は小さく応じた。
開首は好奇だとしても、彼への配合を楽しんだのも事実である。
韶華の心境に反比するが如く、冬栄は溌刺と言い切った。
「すぐに始めるぞ。宮都の影なる英雄、望舒党をな」
「おや、まだやるつもりかい」
いつからいたのか、白老人がぼそりと呟いた。




