波瀾之杜家
棠梨国の宮都甘棠において、乱すものといえば、西街である。
形においては都城の方形を乱し、風情においては斜里で乱し、公にできない賭銭によって、市人の貧富さえも入れ替え、乱す。
日来流行りの匪賊望舒党も、西街から現れたと言われており、なにかと紛紛として忙しない。
そんな西街の曲直が、不料にも井然と保たれているのは、多くの打手たちの努力によるものであった。
西街にも府上はあるが、甘棠の北の両半――北洛に住む貴族や大家は京城の巡察によって恰当に守られても、庶人は、そうはいかない。
ために、西街を含め南洛では、束房が、あるいは老板などが、紛事を収めるのに打手を雇った。
打手たちの大部分は、黒道に係わる者である。しかし西街では、黒道は黒道にだけ従うものとされ、そういった者は使われない。
白衣の徒が頼れるという意思では、西街の打手は特別。
さらに西街を知名にしたのは、ほかの街にはいない女打手がいることであった。
***
「お母さん!」
西街の路のひとつ、香青路の白屋に駆け込んだ韶華は、がたつく戸を開けながら叫んだ。
「どうしたの、韶華。やっぱり大学は行かないことにしたの?」
「はあッ? なぜにそれを!」
驚く韶華に、母親はにっこりと笑いかけた。
淑英の笑みは慈愛に満ち、純篤なる母そのもの。固然、同じ笑みで、流気の徒を一蹴することもある。
まあつまり、荒れた世を渡るに長けた女打手、杜家の女主を対手にして、含糊せるものなど、ありはしないのである。
「やあねえ……あなたがどこかに通うつもりでいるなら、課本なんて、持たないでしょう? 書籍なら一次見れば覚えるんだし。なのに連天、持って出かけているのは、もしかして、重重と大学を変えているのかしらーって思ったの」
なんらかの理由によって。
「でも、昨天は持って帰ってこなかったから、了了決まったのねって思ったのよ。なのに今天も、同じ刻に家を出たじゃない? それで、ああこれは、全く別のところに行ったなって。通うと決めたなら、あなたは早くから行って、待ち構えるはずだもの」
「うん……やっぱり、隠し事はしないに限るね……」
韶華としても、嘘はつきたくなかったので黙っていたわけだが、動静だけで知られてしまうとは思わなかった。敢えて隠そうとしなかったのも事実だが。
「まあ、あのね……ひとつだけ改正しておくと、行かないんじゃなくて、行けないの。もう来るなって、言われたんで」
「ひどいわね。お母さん、抗議しに行って良い?」
邪鬼家長を解き放つわけにはいかず、韶華は慌てて断りを入れた。
「いいんだってば、とりあえずは! それより、後宮のための女人の兵を募るっていう話、その判士を、お母さんがするんだって?」
「そうよ。判士もだけど、訓練が主な行なの」
淑英の言うところによると、昨天宮城からの使いが来て、武挙の判士をするように命じたという。
命じるとは穏やかでないが、皇帝の玉璽が押されている以上、そういう扱いになるらしい。
しかしながら、訓練はともかく、判士がなにをするかについては、後宮で女官が当面に知らせるという、甚だ分かりにくい命だった。
「不妙な干法……宮城は内ですることを、そんなに伏せておきたいのかな」
「そうねえ。でも、軍の将兵として求められるものと、女人の手兵に求めるものは違うのよ。それを公にして、坏心ある者が弄假す策を取って、後宮に入り込んできたら困るわ」
「確かにね……」
後宮には姉がいる。後宮に坏人が混じれば、朱蕣が危険に晒されるということになるのだ。
考えようによっては、后妃となる女の母親に武の専長があるのは、莫大なる好運であるかもしれない。
「だからね、お母さんも謹んで豆包を受け取ったのよ」
「はい? 豆包?」
「お使いの郎子が瑠璃にくれたの」
可愛い子だったわよ、と卓子の上を示す。ついでに買ったような、絳雪酒楼の包みがぽつりと置かれていた。
「まさかと思うんだけど……これが報酬?」
「違うわよ。でもねえ、判士の話は、あって良かったと思ってるの。後宮に行けば朱蕣に会えるし、半子どのに瑠璃の薬のことで、ありがとうと言いたかったから」
「半子! 一人を半子と呼びますか! 確かにうちは姉妹しかいなくて、半子かもだけど!」
嫁がせたのではないのか。皇帝に対して不敬では、と言かけて止める。
淑英も韶華も『棠梨の帝』というひとを知っている。かの男は、皮相だけ畏れられても喜びはしないだろう。
(だけどなあ、半子は……まあ、弄月大人としては、喜ぶかも)
韶華は包みを手に取った。
「武挙の判士かあ……いろいろあって、武挙にちょっと興趣があったんだけど……宮城から話が来ただけで、まだ詳しく分からないんだね」
「そうね。武挙が始まる刻も知らされてないし、訓練もいつまでなのか……通いとはいえ、あまり長く家を空けたくないのよね。ここのところ望舒党が静かだから、打手の差遣はないけれど、いつまた始まるか分からないし」
「えっ。そっちは、不要担心で……いいんじゃないでしょうか……」
「まあねえ。打手のみんなも、そう思っているのだけど」
宮都を騒がす望舒党だが、狙うのは主に貴族。しかも、そもそもが西街を拠点としているらしき匪賊である。西街に大家多しといえど、襲われるはずがないというのが、打手たちの考えだ。
「だけど、韶華が後宮に勤めるっていうのは、悪くない考えよね。軍の従卒では、戦が労心だけど、宮城の奥で、朱蕣を防護するだけなら……どうする? なんだったら、お母さんの門路で」
「いやもう、いいんだって、とりあえず! それで瑠璃は? これ、まだ食べてないみたいだけど」
大きな豆包は、全く手をつけられていなかった。
そういえば、と韶華は首を傾げた。
ふたりいた姉がひとりになって、季児は韶華の帰りを門口で待っているのが常となりつつあった。今天は母親を呼びながら帰ってきたというのに、まだ姿を現さない。古怪だと思っていると、
「瑠璃、あのひと嫌い」
紗障の後ろから小さな声がした。
韶華がのぞき込むと、地板にぺたりと座り、幼い少女が頬を膨らませて姉を見上げていた。
「嫌いだもん。瑠璃のこと見て……驚くし」
大きな青い目が潤み、涙をひとつぶ、こぼす。
韶華は泣き出した瑠璃を抱え、牀几に座らせた。
瑠璃を思わせる瞳を韶華は美しいと思う。けれど碧眼は、身体の弱さとともに、ずっと幼子を苛んできたものだ。
殊方との交易により、棠梨にはさまざまな国の者が住んでいる。南洛の南市近くには、西方の者が好んで住む街もあった。だから殊方の者がいても、決して珍しくはない。
しかし、都城を行き交う異なる国のひとびとが、どれほどいつもの光景となっても、殊方の男女の目や髪の色の違いに、驚くのは避けられない。
香青路界隈ではもう、知らない者はいないが、父親の血が濃く出た韶華の焼栗色の髪以上に、杜家の季児の碧眼は醒目だった。
「見て驚かなかったの、静影哥哥と、窮鬼だけなの」
「窮鬼って……そんな泣かないで、瑠璃……そういえば静影は、驚かなかったね。武人だから慣れてるのかな」
ならば、宮城の使いも慣れていて欲しかった。韶華は内心にある妹を泣かせた者黒表に、豆包少年と記しておいた。
「それに、嫌い……お母さんまで、行っちゃうから。韶姉だって……」
「ああ、瑠璃は、みんな家からいなくなると思ってるんだね。そんなことな……」
「お父さんは居るよ! 瑠璃のそばに必ずね!」
戸の陰から眼底を昏く滾らせ、かつては西街の冶郎と謳われた男が手を差し伸べた。
杜家の主、今は枯れた柳のような痩せ女――棠梨国において、貧しさから子を置いて逃げた女の情が凝り固まった伝説の妖怪にしか見えない男が、愛児を見つめ、求めている。
空子から骨ばった手が伸ばされる図は、恐怖戯劇さながら。だが幼子は涙を振り払い、嬉しそうに飛びついた。
「そうだよね、お父さんはいるよね!」
「お父さんはね、瑠璃と韶華と朱蕣を守ることだけが生きがいなんだよ」
「え、お母さんは?」
韶華の返しに、父親はふっと俯いた。
「淑英は……私の命脈だから……」
「やだわ、郎君。恥ずかしい」
親の相好を見せつけられると、砂葫芦を舐めていて、冒失、頬に串を突き刺したかのような気になるのは、なぜなのだろうか。
韶華は羞じらう母親と父親を見ながら、妹を手招いた。
「お母さんは宮城で少しの間、することがあるって出かけるけど、天天、回家ってくる。わたしが大学に行って、帰ってくるみたいにね」
「韶姉、大学から帰ってきたの……?」
「うっ。いやまあほら……瑠璃も壮健になってきたし、学堂に行けるよ。ひとりで退屈っていうことも、なくなるよ」
学堂と聞いて、幼子の顔色はぱっと華やいだ。
「それから、近いうちに、わたしと宮城に行こう。蕣姉に会わせてあげる」
「真的……?」
「わたしも会いた……いし」
熱のこもった視線を感じ、はっと顔を上げると、二親が韶華を見つめていた。
ふたりだけの世界にいたにも拘らず、こういうところはすぐ発覚する。韶華は静かに目を逸した。
百歩譲って、母親は構わない。召呼を受けている身であれば、正式に宮城入りすれば良いだけだ。ただ父親は。
(そこらの令女より美人だけど、男を後宮に入れるのはなあ……)
不妙、不成。というより不在。
しばらく考え、韶華は黙って豆包を父親に押しつけた。
忘れなさい、の納賄である。
真に理解したかは疑わしいが、父親はなにも聞かなかったかのように、季児と仲良く食べ始めた。
韶華は、それを見ながら大息を吐いた。
今、韶華が考えねばならないのは、男を後宮に連れて行くことではなく、自身の将来――豆包と同じように、悩みも食べられたら良かったのに、と思わずにいられなかった。