波瀾之序
戸の開く軽い音が聞こえ、老爺は客かと目をやった。
しかし、誰からも声はかからず、ただ、ひょいと跳ねる栗色の結い髪が書籍の山の上に見えた。
白姓で呼ばれる書肆の主は、軽く首を傾げた。
棠梨の国では珍しい髪色の少女が誰か、彼は知っている。けれど、今天はここに来るはずのない者だ。姉を后妃の位に就けたことにより、少女は、本来なら庶人が通うことの叶わぬ『大学』に、上学することになったのだから。
少女が嬉しそうに通うのだと告げてから、三日ほど――もしや退学にでもなったのではあるまいな、とこわばる白老人の前に、書籍が差し出された。
「これいくらで売れるかな」
まだ新しい課本である。
「韶華よ……」
「いくらかなあ?」
桃夭たる十六歳の微笑みは愛らしい。だが、褒めることはとてもできない。
褒めるどころか、暗夜で出会った女に眉目がなかったかのようで、老爺の背粱は寒くなった。
気圧されるようにして受け取った課本は、折り目もなく、ほとんど読まれていなかった。
もっとも韶華――香青路では知名な杜家の行第二は、墨で描かれたものなら一次見ただけで覚えてしまう。
さらに、それを紙上で肖似に再現できる本事を持っている。
課本など必要ない、と言われれば、その通り。
なのだが韶華の笑みは、あらゆる理由を凌駕して、老爺に不穏さをもたらした。
「多少銭?」
「そうだな、まあ……まだ新しいものだし、今年はどうか分からんが、明年の貢挙で使いたい者もいるだろう。估買そのままを返しても良いぞ」
「それは助かるなあもう事ないし」
「なにがあった……?」
還債しつつ、老板はおそるおそる尋ねる。
「聞きたい?」
少女の微笑みが凶狼なものへと変わる。
言わずともよいと言えたなら、良かったのだが。
「聞こう」
「紕繆を指摘したら、四門学の教授にも追い出された!」
にも。
つまりほかにも、追い出された。
言を呑み込み、ぐっと眉を寄せ目を閉じた老爺に、少女は頬をふくらませて全てを語り始めた。
***
「それで、どうしてここに来る」
花招を終えた男が大息を吐く。
韶華はそれに答えず、近くにいた甲士から槍を奪った。
武人でもない少女にしては、動作は鋭く敏捷で、武器を取られた甲士を責めるのは、単方面的過ぎるかもしれない。
なんと言っても、彼が対手にしていたのは、徐静影――假の演技だというのに、双眸の紫石に容赦はなく、膠固すぎるほど真卒な質を表して、緩みのない攻めをしかける男である。礼を済ませた甲士が、短気していたとしても、やむを得ない。
もう少し、当たりが柔らかくならないものか。
甲士に怜憫しつつも、韶華はゆっくりと槍を構えた。
「停! 外行が危ないだろう」
「不要担心。こういう長いものなら、そこまで知らないってことはないよ」
とりあえず、誰もいない空中に向かって、巧みに操ってみせる。
韶華の母親は打手である。常に長棒を持ち、悪人をあしらう姿を見て育っているので、要領は分かっていた。
それでもどこかが不妙に見えるのだろう、静影はいきなり眦目尽裂した。
「韶華! 武人が武具を使うのは、棠梨国の一人のためであり、また庶人を守るためだ。軽易に扱うな! それにおまえは振り回せているようで握る力が弱い。いつ手から抜けるか分からなくて、見ていて怖いぞ。だいたいその踏み込みでは、敵手に届かない。ほとんどが、おまえより個兒が大きいんだからな」
「ああもう、怒る言が長いよ」
「ほら、寄越せ!」
「あの……主将」
並ぶ甲士のひとりが、そっと声をかけた。
「なんだ? もう今天は解散して構わないぞ」
「はい、それは分かっているのですが……その」
少女と主将の槍の取り合いは、まだ続いている。それを微動だにせず見つめる男たちの表情には、彼女はどちらさまで、と尋ねたいが尋ねたらなにが起こるか分からないから誰か犠牲になれという心境が、張りつけられていた。
もっとも、疑問も当然である。
彼らがいるのは、棠梨国南衙軍において、皇帝の侍衛を務める左右領の陣営である。そこにどうして少女が、とは、兵でなくても思うだろう。
そもそも武官でも文官でもない者が、入り込めるような場ではない。
まして甲士たちは、突如現れた少女に驚くのみならず、彼らの主将に、軽く名を呼び合うような女人が存在するとは、万にひとつ思いもしなかったのである。
「もう……小気だなあ」
槍を取り上げられた代わりに、韶華は、並ぶ甲士たちに向かってにやりと笑いかけた。
「列兵を煩わせて済まないが、わけあって名は伏せさせてもらう。ただし痛あっ」
「匪徒の模擬は止めろ。ここをどこだと思っている」
「だからって、槍で叩く? ひとの頭を? 望舒党だって罪なき市人には、なにもしないのに!」
「匪徒は匪徒だ。やつらが狗盗なのは、否定できないだろうが」
「まあね」
韶華が認めたことで、頭上で跳ねる槍が離れた。
すかさず槍を奪おうと手を伸ばすが、その狗と狙の争いを引き離すかのように、甲士が間に入った。
「最近、動きのない望舒党はともかく……主将、左武侯将軍から妖しい事件があると、お聞きになりませんでしたか」
「妖しい?」
訝しむ静影の旁で、韶華は動きを止めた。事件そのものより、武侯軍という言が気になった。
左右武侯といえば、宮都甘棠の夜察と巡視を行う軍だ。静影が韶華を窘めた理由である望舒党も、武侯軍の扱うところだ。静影の属する侍衛の左右領の軍とは、あまり係わりがないはずなのだが。
「やあ、なんと言いますか、不審人物ってやつなんですが……やたらと幼子にまとわりつくんだそうで。でも、拐子というわけではなくて。当心するよう、親たちに言うしかないとか」
「小児にまとわりつくって……妖しすぎるぞ。当心だけでは不成だろう。張望を増やすべきだな」
「そうなんですけど……武侯の内では、張望を嫌がってるらしいんですよ。聞いた話では、子どもがひとりで遊んでいると、お貌が汚れてるよと言って手巾を差し出し、子どもが口許を拭うと、いきなり奪って逃げるんだとか……だから、口拭いの化者ではないか、と」
「口拭いの化者……」
「そんなのいるわけないですよねえ? 怖がるなんて、どうかしてますよ。ただの変態でしょうに」
大きく口を開けて笑う甲士の前、韶華は笑ってみせたけれども、心中では笑えなかった。
それは静影も同じだったらしく、震える拳で口許を覆っていた。笑っているわけではない。端整な面貌が、明らかに心病を露わにしている。
短い逡巡ののち、紫石の双眸を曇らせ、韶華にささやいた。
「口を拭うって、あれか。香の秘方の……確か、幼子のものがいいって、書き込んだんだよな? あれは売ったと聞いたが、誰に……?」
「そりゃあ至高の香にするには、愛らしい女児の唾液と混ぜるとヨシ、って書いたけど、でも誰が手に入れたかなんて知らないし。まさかあの迷于香が……」
「止めろ、言うな。それにあいつだって官人だぞ」
「唾液を集めようとする変態が、ほかにもいたら、そっちのが嫌だってば!」
頭を寄せ、ささやき合うふたりをどう取ったのか、甲士が成心らしい咳をした。
「えー……主将。ですので、戴将軍が良方はないかと尋ねておりますが」
「分かった」
短い言は、つまり今話すところではないと示すものである。とりあえず確かめるまで、静影ができるのはそれだけだ。
将の意に従い、事件については口を閉じたが、甲士たちはまだなにか言いたげな顔色で解散しようとはしなかった。韶華が誰か、というより静影にとってどういった人物であるのかを知りたくて堪らないようだった。
少しだけ考え、韶華は静影に頷きかけた。
姑子の児女を介紹する行いが、どういう意思をもたらすか、知らない――わけではないが、とりあえず韶華と静影に応用できるものではないはずだ。
韶華の居心が分かったのか分からなかったのか、静影は額角に指を当て、封口した。
「ねえ……そこまで悩むようなこと?」
「ここは結舌を願う」
なんだとう、と韶華が言うより先、静影の言が続いた。
「この次の慶賀を知らぬ者はいないだろうが、みなには教えておこうと思う。まだ公表されていないが、これ……この……これはだな、つまりその……令妹だ。新たに一人の妃となるひとの」
廉利で知られる男にしては、切れの悪い説法だった。
どういうわけか、甲士たちの内からも、彼らの将と同じくらい切れの悪い嘆息が上がった。
「で、では主将……! その令愛は、いずれ……官品を賜わるということで?」
「えッ? 官品っ? なにを言ってるの」
とはいえ、後宮に児女を入れるとは、その家門の恵みとなることと等しい。母親や姉妹に、品が与えられることも珍しくない。
それくらい韶華も知っているが、官人ですらない庶人の杜家には、難しい話だろうと思っている。
姉の朱蕣が得るのは、皇帝の後妃としての処境。丕子である皇太子の、いずれ妃となる女人のこともあり、皇后の位には就かないだろうというのが、世の風聞である。
しかし、皇后にならないのであれば、正妻ではなく妾だ。そんな白衣の女の親眷が、官品を『もぎとる』ことを、貴族たちが許すとは思えない。
「どうした。なにを動気っている?」
「関心は無用です。っていうか、わたしは動肝火なんか起こしてませんよ? どうしてそう思いますかッ」
「誰かに、なにか言われたのか」
韶華は答えなかった。そうして答えないことが、答えになると分かっていても、答えたくなかった。
静影は大息を吐くと、韶華に軍の陣営と宮城を分ける大きな城壁を見るよう、促した。
「この城壁を、おまえはどう見る?」
「よくぞまあ造ったものですね」
より深くなった大息が、静影から韶華に贈られた。
「そうではなくて、これは……ひととひとを隔てるもので、だが、向こうには特別なものがあると思わせる、幻でもある」
棠梨の帝に仕える者が、その権威を幻というのに韶華は驚きを隠せなかった。
「幻を守ることにも、意義はあるんだよ」
静影の笑みは軽く、嫌なものではなかった。
「だがな、韶華。宮城に入ること、その意思をよく知らず、羨む者は多い。おまえはどうなんだ。分かっていたか? 令姉は覚察していたようだが……見るがいい。この果てのない大きさを。おまえは后妃の妹として、この壁を越えて、宮城を行き先のひとつとできるようになった。公主とまでは言わないが、郡君や縣君……爵位を持つ国公の妻くらいの扱いは、受けることになるだろう。その責に、慣れなければいけない。それを、分かっているか? だから」
「大学に通えるよう、して下さったわけですね」
少女の口許から狼の唸りが聞こえ、手下の兵たちが怯えたように身躯を引かせた。
「もっと学びたいという心目は、ずっと持ってた。だから蕣姉も勧めてくれたし、大学に上学できるなら、そうしたいと言ったんだよ。だけど皇上の勅令におきまして、庶人のわたしが通えるのは僥倖! なんて思わねばならないとかええそうだよ一次行ってみればいいよあんなやつら該死……!」
「やはり、そういうことか」
多半、韶華を知る者たちは、最も『それ』を恐れていた。庶人を下に見る貴族とともに、ほのぼのと話し合うことができる少女ではない。必ず、激しく、徹底して舌争に克ち、疎まれるような気がしたのだ。
理解を示した静影に向かい、韶華は吠えた。
「そういうことッ。知ってた?」
「いや……ただ、重明が……あいつも下級官吏の出だから」
「ああ、王先生ね。今初めて親しみを持ったよ」
妖しき罪の疑いがある迷于香の男だが、貢挙を通った尖子ではある。それなりの労苦をしたと知れば、これからは王香試と呼ぶに吝かでない。
内心だけの同伴を得て、韶華は背粱を伸ばした。
動気があまり続かないのは、すでに白果舎で、吐き出すだけ吐き出しているからである。そもそも静影には係わりのない煩苛であり、それをぶつけるとは礼を欠くこと莫大だ。
「騒いじゃってごめん。なんか三日で追い出されたって、みんなに言いにくくて。まだ通ってる振りしてるんだ」
「三日……」
静影の内で韶華に傾きかけていた理が、大学と釣り合いを取り戻した。
「あっ、わたしが悪いと思ったね、その表情はっ。そりゃあね、初めに国子学に行って、半天で進士のひとを怒らせちゃったのは、悪かったわよ。それで太学に変えさせられたのッ」
「半天……」
「そこではね、主修を決めてと言うから、儀礼にしたわけ。なのに、不成とかなんとか言われて一日ずっと舌争で終わっちゃった。果然として、四門学に移ることは認めてもらえたんだけど」
なまじ庶人が通える大学であったために、韶華は過火なほどの坏心に応じなければならなくなった。
やがて全てが韶華に降り、消気したと思われた午下、どこから得た小報口かしれないが、風波を起こすなという教授たちによって、いきなり退去を命じられたのである。
理由も聞かせてもらえないとなれば、韶華も大学に居続ける心境は失せた。帰り際、まだ学ぶ場はあると誰かに言われたのを不顧して、白果舎に課本を叩き売ったのだ。
「文官と合わないっていうなら、武官ならどうかなあって。だから……武挙について、訊こうと思ったんだ」
「武挙って……」
言に詰まる静影を韶華は見上げた。
「やっぱり女は受けられない?」
「真的に言ってるのか? あれは……女人には、というより、もうおまえには遅いと思う……」
「どうして」
「武挙は、素を見るためのものだからだよ」
直に才能ある者を選ぶ文官と違い、武人は鍛錬の時を持たずして武人と成ることはできない。
ために、武挙は十三歳までの男子に行い、武人に足る器があるかどうかを判定するのが目的だ。そして及第した者は、兵営の養成所や軍校で訓練を受ける武官候補として扱われる。
「つまり、選抜のようなものだから……介士になるのに、必ず受けねばならないものでもないんだ」
地方で兵を集める考試ならともかく、宮都での武挙は、貴族などの子弟が、親から官位をつなぐための風格なのだ。
武功を上げる見機がない以上、庶人は一介の処士で終わることが多い。受けても無法――と、そこまで言い切ってしまうことは、静影にはできなかった。
「そっか。良い考えだと思ったんだけど、どうにもならなさそうだね。大学は、なかったことにして、白果舎に戻るかあ……」
「いきなり諦めるな。女人は武官になれないかもしれないが、文官には、なれるんだから」
「でも主将、これからは、宮都でも女人の武官があり得ますよ。我の郷里が言うには、近いうちに、女人に限った武挙が行われるそうで……」
「なんだって?」
「いえあの……後宮ですが、今はまだ紅女史が監督してる女官で足りてますけど、后妃が入るとなると、堤防の手兵が必要でしょう? それで……」
「俺は聞いてないぞ、そんなこと……だいたい、誰が判士をするんだ」
「それなんですよ、郷里が聞いたのは。女人の判士が召呼されたという話で。後宮のことは、女人に任せよ、ということなんでしょうね」
頷く男に、飛びかからんばかりに韶華が尋ねた。
「それが誰だか、知ってますかっ?」
「いえ、名は知らないのですが……ええと、西街の女打手だそうです」
「西街の、女打手ッ?」
声を合わせたふたりには、女打手が誰かなど、想料するまでもなかった。




