納女敷求之三
「そこでいきなり撲面から攻撃してくるか!」
「えっ? あれ? あれ……?」
韶華は空になった手と、叫ぶ男を見比べた。
投げつけられた書籍が帙に入っていなかったのは、男にとって幸運だった。頬を押さえつつも、それだけで済んでいる。
もっとも痛みはかなりのものであったらしく、韶華を見下ろす目は、磨き出された紫石のようだった。
「不審な……影がついてきたのかと思って、驚いて……」
「だから、こんなところをうろつくなと言うんだ。しかも、こんなに遅く!」
男は不快さを隠さないまま、さっと辺りに目を巡らせた。闇に沈んだ姿から革甲のこすれる音が聞こえ、甲士なのは間違いなさそうだ。
「影ってどの辺りだった」
「えー……っとですね。あっち」
韶華が指で示したのは、正面。後ろにいた男とは、明らかに係わりのない方位である。
「前面に怪しいものがあって、どうして振り向きざまの攻撃になるんだ!」
「いやほら、あっちと思ったてたら後ろから声がかかるし。だから陰鬼だったら嫌だなあって。勘違いだったけど」
「勘違いさせたのは俺のせいか? ……まあいい。なにもないようだから、早く帰れ。見間違いならいいが、匪徒だと危ない。送ってやりたいが、俺はひとを捜すので忙しいんだ」
火影の淡い照りを背に、男はぶつぶつ言いながら書を拾った。
(あれ? このひと、夜察じゃないの?)
夜察にしては戎衣が軽い。しかもひとりでひと捜しとは、どうにも不妙である。
韶華の怪しむ気を感じ取ったのか、男はきちんと重ねた書を差し出し、軽く頭を下げた。
「驚かせて悪かったな」
姉の朱蕣より少し年上だろう。鼻梁のすっきりとした真卒そうな好男子――なのにまず得られる印象は、双眸の紫石の勝ちすぎたところだ。これだけでもう、親しみに欠けるとしか言いようがない。
当人は己がひとに与える印象に気づいていないのか、あるいは通りすがりの少女と和好するつもりはないのか、それ以上は微笑もうともしなかった。
差し出された五冊を受け取り、韶華も頭を下げた。
「こちらこそ、怪しいひと扱いしたままでごめんなさい」
「したまま……って、まだ怪しい扱いか!」
「だってねぇ? 夜察でもないのに、ひと捜し?」
言われたくないことであったのか、男は苦い汁でも舐めたような顔をした。
「アレを……捜そうと思っているのは、俺だけだから……」
「そうなんだ」
いろいろと妄想の広がりそうな話である。
「理由があるなら、この界隈の打手に頼んでみたら? わたし、良い打手を知ってるよ?」
「ありがとう。でも、とりあえずひとりで捜してみるよ。この辺りに居るような気がするんだ」
夜察を使わない、打手にも頼らないでは、藍雪路でひと捜しなど叶うまい。よその歓楽街と違うことを、男は知らないようだった。
「どうしてもって言うなら、抛っておくけど……ちょっと気になるから、訊いてもいいかな。どんなひとを捜してるの?」
「中年というよりは少し若い男で……見ただけで嗚呼、という感じの」
「ひとりで頑張って」
「言いにくいんだよ! 当人は韻士ぶっているけど、ただの大戸にしか見えないだ
ろうし」
(この界隈じゃあ、そんなのばかりだってば)
韶華が呆れて言えずにいると、割り込んできた大きな影が代わりのように笑い飛ばした。
「疎いにもほどがあるぜ、大兄。そんな奴は、ごろごろいるってのに」
「あ、狙の取り立て人!」
「その呼びは止めてくれよ、小妹……大兄が混乱してるじゃねえか」
見れば男が忙しく首をめぐらせている。どこに猴子がいるのだろう、と探しているようだった。
「狙なんかいないってば! いくら端でも西街だって京城なんだから! 狙は例え
というやつで!」
「それなら狙は、怪しい影のことか。つまりこの男がつけ回していた?」
「違うー!」
韶華と大男の声が重なった。
「大兄。あんたにうろつかれると、すげえ累贄になりそうだ。街のみなに、アレってやつを捜させるから、早く帰ってくれ」
「捜すにしたって、あんな説明じゃ分からない……あっ、肖像画を作れば? 白果、じゃなくて、玉門楼お抱えの絵師に頼むといいよ」
「いろいろ考えてくれるのは、ありがたいが……」
「おう、そうか。そうだな、ちょっと強顔か」
大男から男へ、厚意を受け取れないなら去れ、という圧がかかる。
しかし睨み合いはすぐに終わった。意然にも、甲士が先に折れたのである。
「すまない。ここでの做法を知らないのは、俺だけのようだ。もし見慣れない男が現れたら、俺が来た時に教えてくれ」
「大兄の名は? 舎弟を使いに走らせてもいいんだぜ」
「俺は徐静影。だが知らせはいらない。大事にしたくないんだ」
「えっ……南衙軍の、静影……?」
「そうだが」
月の光の意の優美な名の男は、訝しむ紫石を狼狽える韶華に向けた。
「どこかで会ったか?」
「えっ? いいえっ? いいえ違いますね、違います。いつも読んで、いや聞いたような気がしただけで、誰かよその門士なんじゃないかなあ。ねえ?」
「そう言われても……」
男たちが混迷に捕らわれている間に、韶華はずるずると下がった。そして慣れた方法で躯の向きを変える。
もうこれ以上、ここに居るわけにはいかなかった。
「それではみなさま、さようならっ」
すい、と陰に入った韶華を男たちの目は追えなかった。灯火の明るさと闇の差が彼らを惑わせたのだ。
声だけ残し、少女は闇に消えて行った。
だから男たちには、彼女が父親から奪った封信の流麗な字と、それに似合いの美名を持つ男の顔が重なったことは、知りようもなかった。
***
瑞頌老師、私のつまらない悩みにいつも地道な助言を下さり、
真に感謝しております。
良い齢をして怯懦なと言われるかと思いましたが、温かなご指南に
涙にくれるばかりです。
確かに誠意だけは、私の胸に常にあります。
なお、私の職場では出会いが少ないというより、全くないのが
実情です。
界隈で静女のみなさまを見かけることもありますが、容貌に自信を
持てない私では、声をかけるのもためらうばかり。
ですが助言の通り、誠意をもって……いえ、これは試してから、
したためるべきでしょう。
老師、良い結果でなくても、または封信を出しても構いませんか。
もし佳期ということになれば、陽道――
「って桃夭になにをををッ! もうっ……あの白、いや黒爺爺っ……!」
韶華の叫びに、どこかの狗が応じて吠えた。
煽られて走る速さをさらに上げる。白果舎に置いてきたものを少しでも長く心中から追い出すために。しかし小房子の卓子に積まれた紙片は、明天になったとて消え失せたりしないのだ――
「だいたいねっ……字は見たら覚えちゃうんだから投稿の欄目は嫌だったのよっ。でもまさか会うなんて徐静影!」
韶華――またの名を瑞頌老師。雑誌『白果』の専欄作家。
だがしかし。
声望がいかに高かろうと、賛美を受けようと、愛読者の顔など見たくなかっのである。
追悔する韶華の起こす風が、黒い影を揺らした。