青冥之楽花之二
「朱蕣、そうまで妹が愛しいのなら、嬪従として雇うのはどうだ?」
「不許です」
「これも断られた!」
皇帝の言を美麗な笑みで斬り捨て、杜家の長姉は韶華から手を離した。
「二女には好きなことをさせてやりたいんです。大学に進むのでも、打手稼業を継ぐのでも構いませんし、もし女官になりたいのなら、そうすればいいのです。女官なら、わたくしだってそばにいられて嬉しいわ。でも、姉がふたりも宮城に入ってしまうと、季妹がひとりになってしまうから……せめて瑠璃が学堂に通うまでは、女官は待って……」
もう一次お姉ちゃんと言いながら、韶華は離された姉の手を取った。
朱蕣が妃と決まれば後宮に入る。それは分かっていたし、会えなくなるかもしれないとも思っていたが、こんなにあっさりと別れがくるとは信じがたかった。
「瑠璃のことは、わたしが守る。わたしのことも、気にしないで。やりたいことなら、これから考えるし。しばらく瑠璃のそばについてるのは確かだから」
「お願いね、韶華。でも、お父さまが困っていたら、必ずわたしに知らせてね……大概、お母さまがなんとかするでしょうし、伝えなくても良いと言うかもしれないけれど、どんな小故でも教えて……」
「分かった。知らせるね。方法は、なんとかする……」
「いや、後宮から出られないということはあるまい」
涙眼でいる姉妹の旁で、皇帝が胸を張った。
静影は侍衛の将としての預感から、はっと息を呑んだが、続く言を阻止するのは間に合わなかった。
「好きに出たらいいのだよ。私も瑠璃に会いたいよ。それに弄月として出歩いている男が、妻を同伴してなにが悪かろう?」
得色な弄月へ、斉心に回撃が行われた。
「皇上、もうそれは許されません!」
「そうだよ、なに言ってるの。それは不在よ。だってお姉ちゃん、皇帝の妃よ? 酒鬼弄月の妻でーすって言えるわけないでしょう。たとえば輿に乗って郷里に戻った時でも、お姉ちゃんを妻なんて言ったら、なんか珍奇なのが大話してるーとしか思われないよ?」
「一を言えば、百が返ってくるな。少しは放過し……」
弄月の呟きの残りは、呂公が来て呑み込まれた。
棠梨の相公のひとりは忙しそうにやって来るわりに、御苑で見た姿と違うので、着替える暇はあったらしい。
「大君、我が棠梨の主よ、急ぎ申し上げたいことが……」
皇帝だけしか見ていなかった呂公は、近くにきて妃となる朱蕣や将である静影に気づいた。僅かに眉をひそめ、それでも拱手は優美に為す。
皇帝の影に入っていた韶華に目を向けるのはあとになったが、奇病を疑った少女が旁にいると知って、驚きの顔を見せた。さりげなく韶華を皇帝から遮るように前に出たので、皇族への敬意に間違いはないらしい。
「紅女史より、貴賓に一言賜わってはどうかとの伝を承りましたので、お越し頂き
たく……」
「分かった。行く」
呂公に導かれ皇帝が去る。ともに朱蕣も去り、残された韶華は寂しさに慣れなければならないことを、思い知った。
「あれ……? 静影は行かないの?」
「俺はただの武人だからな」
「それ自屈? 将軍なのに、そんなだから狷介って言われるんだよ。そのせいで、わたしだっ……」
「ほう、わたしだって……なんだ?」
静影の険しさを持つ双眸が、韶華を見据えた。険しすぎて紫石さえ暗くて分からないほどだ。
「韶華……おまえ、まさか内奸で……俺を調べているのか?」
「は? 内奸? 違う違うちーがーうー」
「じゃあなんで黒風がおまえの家で、俺の後言を書いた封信を見つけるんだ!」
「誰だそんな白話流したのはッ! じゃなくて、黒風とやらがなんでわたしの家に入ってるのっ。それにあれは後言じゃない!」
「つまり封信はあるんだな?」
「なによ、自身で出したものでしょうっ? 読まれたくなければ、書かないでよ。読むわたしの身になれ。恋愛の指南を訊いてるのは、静影なのに!」
「待て……なにを言っている……」
静影の呟きを受けて、韶華はびしっと指を突きつけた。もう全てを言ってしまうつもりでいた。
しかし、当面にしてはならなかった。怒りを滲ませた双眸がいきなり消気て、迷子のようになっている。そんな静影の微かに眉を寄せる顔は、なぜか韶華をひどく焦らせた。
「だって……投稿してるでしょう? 白果っていう雑誌に……膠固とか言われるから、吃香ないっていう悩みを」
「雑誌? なんだそれは。雑誌は、投稿できるものなのか?」
「えええっ? 違うの? だって子どものころ情書を捨てられたとか、狗に追いかけられた好きな子を助けようとして、逆に噛みつかれて泣いたとか、いろいろ書いてたのに、嘘なの?」
「情……情書はともかく、狗には噛まれたが……ほんの小童の時の話だぞ」
静影の困る様態に嘘はない。その上、投稿の方法まで分かっていないとすると、あの封信を書いたのは、違う人物とみなさざるを得ない。
「つまり……俺の名を騙り、俺のことを語っている封信が、なぜかおまえのところに届いているわけだな?」
「なぜかというと、まあ、雑誌だからなんですけども……なんか……不妙? もしかして、鹿追偵人?」
「よく分からんが、俺の個人情報がだだ洩れになっているということか」
そういうことになる、かもしれない。静影が真に投書をしていないのならば。
「その出した者の住処は……書いてあるのか」
「あるけど……守秘義務というものが、あってね……それにそこまで詳しければ、名義も正しいのを書いてると思う」
「俺の守秘義務はどうなる。それでもいいから、見せろ」
「それはちょっと、不許というか……」
僅かながら韶華の内に打算があった。静影は『韶華は封信を読んでいるだけ』と考えている。雑誌に係わっている、すなわち欄目作家であるとまでは、気づかれていないのである。ならば、
(ここは路人の振りをして……)
「まだなにか隠してるな」
「なにも隠してませんっ。それに……それにねっ。謝るべきなんじゃないの、わたしに! 溺れた時、なにをしたかって! なにをって、なんだけどもっ」
「溺れた時って……なにも……」
ばたばたと脚を踏む少女の言いたいことが、やがて男に伝わる。
当下、静影の目の回りから血の気が失せ、心情というものは、ひとによって顔の出が違うのだと、韶華は逃避のように理解した。
「違う! 助けようとしただけだ、おまえを死なせたくないから! そういう……なにもしてないぞ、俺は。触れてもいないからな」
「なにも……してない」
間近にあった温かな吐息と、冷たい雫を覚えているのに。
目を開けた韶華を、濡れた瞳で見ていたのに。だから――静影が消気ていると、落ち着かなくなるのに。
「あれは……泣いているのかと……」
「泣きたくもなるだろう。助けようとして、いきなりぷぴーとか泥水を吹きかけられたら!」
「うう……」
恥ずかしさを抑え、ごめんなさいと言えるくらいなら、韶華も耳の端だけが赤い蒼白のひとを責めたりしないのである。
沈黙の中で、韶華はくるりと勢い良く踵を返した。
「それなら……調べてみるよ。誰が静影の鹿追偵人か。それでいいよね?」
「構わないが、誰なのかは教えろ」
「うーん……それはできないな。その代わり、わたしが守るから」
綵花で飾られた栗色の髪を揺らし、韶華は振り向いた。
姉に向かって、まだなにをしたいのか分からないと告げたが、ひとつだけ分かることがあった。
字だけでしか知らなかったひとが、当前にいる。どんな星の導きか知らないが、係わりを持つなど考えられなかったひとが、「韶華」と名を呼んでくれている。だからもっと知りたいと思っても、悪くはない――はずだ。
「少なくとも鹿追偵人と同じくらいには、静影のこと知ってるわけよね。もっと近くいれば、もっとよく分かるかな……」
「その言では、おまえこそ内奸なんだがな」
「失礼な。守ると言ってるのにっ」
ひょいと跳ねる髪が、静影の鼻に甘い香りを残す。
それが武人の胸の内に微風を起こしたと、韶華は知らない。
裳裾をひらりと揺らし、捷足で長い回廊を進む。風に旋回する花のような軽やかさが、楽しくてたまらないといった韶華の心境を表す。
ともにいると、楽しい。
まずはそれをやってみよう。
「なにができるかな。軍に入ってみようかな。あ、職場に女のひとはいないんだっけ。武官に類するような女官ってあった? それになって、美人を集めて徴婚茶会を開こうか。それとも偉い文官になって、上から命令しようか? 徐将軍を膠固と呼ぶのは禁じるとか」
「どれも回絶する。おまえが軍に入ったら、起先に封口を命じる」
「うわ、細人ッ」
天を仰ぐ男の先で、少女が笑う。
青冥に響く音が震わせた、花のような笑いだった。
第一部了




