青冥之楽花之一
「あら、どこへ行くの?」
帰ろうとしていた韶華は、郁李の声に呼び止められた。
これより後妃が決まったことを、ささやかに祝う宴が開かれる。当然、韶華も出るものだと考えて、郁李は声をかけたのだ。
しかし、韶華に出るつもりがないとすぐに気づき、今日まで后妃の候補であった令媛は、古怪そうに少女を見つめた。
「こんな奥の宮に入れるのは、もう絶不かもしれないのに、楽しまないで行ってしまうの? 見て回ると、いろいろ楽しいわよ。まあ小妹は朱蕣の召呼で来られるから、いいのかしらね。あ……ここは召辟と言うべき?」
「出される供帳は気になるけど、まず決まったことを二親に伝えたいから」
「そんなの、太監から使いを出させなさいよ。そもそも正式な使者が向かってるはずよ、任せたら良いわ」
大家の令媛であるゆえに、郁李はひとを使うことに迷いがない。
己の口から知らせたいと思うものの、韶華もひとつ気になることがあり、勧めに従う気になった。
韶華が頷くと、郁李は令媛らしからぬ淘気な表情を見せた。
「みんな、来てー! 朱蕣の、あの香りを作った杜二女よ!」
嬌声が響いたかと思うと韶華は室内に連れ込まれ、気づけば令媛たちに取り囲まれていた。
「すごいわねえ、貴女。あの香りには驚いたわ。そうそう、お祝いを言わなくちゃね。良かったわね、令姉が後妃に決まって。わたくしも真に狙ってたわけではないけれど、少しは……って考えてたのよね。でも、あの香りでは敵わないわ!」
「ねえ、あの香……同じのでなくて良いから、似たのを作ってくれないかしら?」
「あら狡い! わたくしだって欲しいのに。どう? 小妹、作って頂けない?」
「じゃあわたしは美容液を! 布良仙多だったかしら? 貴女、本草学にも詳しいのよね? 朱蕣とは言わないまでも、すべっすべの肌になりたい!」
「やだ、とっくにむちむちじゃない!」
「なによ!」
笑いにさざめく佳人たちが、心から朱蕣を祝福しているのに韶華は少しだけ驚いた。
おそらくずっと后妃候補として敵手だったはず。なのに固い友情で結ばれ、選ばれたひとりを祝いでいる。そこには羨む情生はあれど、妬みはない。
郁李が韶華の考えを察し、花兄で呆けている頬をつついた。
「考試がわたくしたちを一にしたのよ。なにがあったかは……教えられませんけどね。ねえ?」
応ッ、と拳を突き上げる美女百人はちょっと怖い。隅で柳眉をつり上げている佳人もいるので一致団結というわけでもないらしいが、詳しくは知らないままが幸いである。
「朱蕣はずっと小妹を褒めていたわよ。わたくしもあなたに会っているから、すごさの一片くらいは分かるけど、あの香りは……惹きつけられるわ」
「そうだッ、なにで作ったのだッ! 黒沈香ではあるまい、それは僅かだった! 蒔蘿子油か? いやそれでは、あの幺弱な女児の甘やかさはでない。教えろ!」
「変態よ! 変態が現れたわ!」
騒ぐ郁李を無視して重明が韶華の肩を揺さぶる。真正にして天生の迷于香であるらしい。
「そもあの配方は自作か? それとも秘伝が? 香の口伝を持つ一族か?」
「芳香要術を手に入れただけだから……」
「なんだとッ? あの……幻の! 今もまだ持っているのか? 見せ……見せて下さい。お願い致します」
「王香試、ここは貴賓の間でございますから……」
麻煩になってきたところで守兵が来た。重明は旁から腕を押さえられ、ほぼ罪人のように連行された。
「待てッ! 私は不埒な用意でもって来たわけではないッ! 放せ!」
「なにを騒いでいるんだ、重明は?」
「せ……ええと」
韶華は見下ろす棠梨の将から目を逸した。『静影』と、そのまま名を呼んで良いものか迷っていた。
介士と思ったひとが、将軍の位にあるというだけで情態を変えたくはないが、あの恋愛指南への投書がどうしても頭から離れないのである。
「韶華、俺のことは好きに呼べ。おまえももう皇帝の義妹だろうが」
「そっか。そうなるんだ……でもさ」
弄月を姐夫と思うのは嫌だなあ、と感じていた。皇帝と知った今も、まだ遅くはない、係わってはいけないと、身躯の奥から叫ぶものがあった。
「後宮の心事とか、掛念とかではなくて……放心してはいけないと、思うんだ。どうしてかな」
韶華の神来について、静影は思い当たらないでもなかった。
かつて第四皇子の妃であった叔母が、皇后と呼ばれるようになってまもなく亡くなったと知った時、おそらく今の韶華と同じものを感じたのだ。
しかしそれは慶賀を迎えようとしている時に、言ってはならないことである。
静影は支吾したことを知られないかと思いながら、別の話を持ち出した。
「あの香……知らないだろうけどな、小給使が運んできた時から、ひとが群がってきたぞ」
「そうなんだ?」
「ああ。ほとんど面試らしいことなんかしてないのに、皇上が令姉の名を告げても誰もなにも言わなかっただろう。あれはもう、控えの間で決まってたからだよ。俺が作房で嗅いだ時より、ずっと佳い品になってたよな」
「螢惑の葉ってすごいよね……でもあれ、料想なんだけど、瑠璃が噛んだのが効いたんだと思う」
「噛んだ、って……」
韶華が香の料に使った螢惑は、熱にうなされていた幼い少女の口から取り出したものである。
「ま、ただの考えなんだけどねー。だから変態でもすごいわ、あの香試。幼い子の唾液を嗅ぎ分けるんだから。もう売っちゃったけど、それを芳香要術に書き込んでおいたから、あのひと、いつか手に入れられるといいね」
狭い余白がさらに狭くなったが、なにも書いてないよりはいいだろう。
「まあ、あれは……売りたくもなるよな。そうすると、おまえは香試になりたいわけじゃないのか。望めばすぐにでも香試に登用されるぞ」
一瞬、韶華は重明に仰々しくついて歩く姿を思い浮かべ、即、却下した。
その変遷が顔に表れていたらしく、静影は苦笑いでやはり嫌かと呟く。
「韶華、おまえはきっと納釆を家族のために使ってしまうだろう。それは願っていたことかもしれないが、だからこそ、奨励金は自身のためだけに使え」
「奨励金って?」
「おまえが作ったあの香りに出されるものだ。棠梨之最と認められた証だよ」
ふわふわと綵花を揺らし、韶華は赤くなる頬を押さえた。
いつも堂堂としている少女ゆえに、当然だと誇るかと思っていた静影は、思いがけない姿に狼狽した
「……いつも飾りが可愛いな。いや違った、当人を褒めるのか。うん、韶華、その
花の飾りは似合っている」
「ありがとう。あんまり褒められてる気はしないけど。でも、香が認められたのは静影が螢惑の葉を取るのを許してくれたからだよ。すごく偉いひとなのに、盗人みたいなことさせてごめんね。夷三族に……九族にまで及ぶ罪だったかもしれないのにさ」
「俺に妻はいない! っていうか、分かってて巻き込んだのか!」
「仲が良さそうだな、静影。余の義妹と貴賓室で立ち話とは」
「皇上、お戯れを」
皇帝に拱手をする将軍の傍らで、じきに皇妃の妹となる少女は白眼を姐夫に向けた。
「ひどいなあ。そんな目で見られるようなことを、私はしたかい?」
「したっていうかさ……」
韶華は弄月から朱蕣に視線を移した。
「わたし、今天が面試だなんて思わなかったからさ、お姉ちゃんに会えて嬉しかったけど……もしかして、もう妃に決まったから……後宮から出られないんじゃないの?」
韶華が宴に出る気になった理由は、そこにあった。
風聞において宮城に入った女たちは、その時から、百年一歩たりとも宮の内から出られないと言われている。
もっともそこには少なからず差鎖があり、貢ぎ物として殊方から贈られた婢妾や罪人としての宮女を除けば、自在とは言わないが、出るも入るも可能である。
しかし後宮の貴嬪については、過不去という風聞があってもやむを得ない事由があった。
そもそも後宮に入るような、翠帳に隠されて生きる高位の女たちは、都城にいてさえ出歩かない。だから掖庭で皇帝に侍るまま、死を迎えるまで外に出る必要もなく過ごす。歴代の皇妃がそれでは、入ったきり戻ってこないと庶人が考えるのも、当然だろう。
「韶華、韶華、分かってる。ありがとう。わたしの愛しい妹……あなたがわたしの妹で嬉しい。わたしたちの願いは、みんなで叶えたのよ。だから許して。わたしが後宮を出られなくても悲しまないで。ただお父さまやお母さま、瑠璃には伝えて。愛しているって、ずっと守るって……」
朱蕣は韶華に抱きつき、ささやいた。朱蕣としても敢えて忘れていたことだが、考試のために宮城に向かった日、それがあの白屋で家族が揃う、最後の時だったのだ。
やはりそうなのか。と韶華は泣きたくなった。
「お姉ちゃん……」




