真的後果之三
ただ座れと言われても、座る序列を示されないと、なにか挙措を試されているような気になってしまう。
とりあえず韶華は、皇帝に近い北の端に座り、同じように迷うひとの起先になった。
落ち着かなさを身じろぎで紛らわしているうち、突如としてに熱く甘い匂いが漂ってきた。候補の女たちが来ようとしていた。
しかし高廊から降りてくる女たちに、すぐに気づいた者は僅かだった。玉女の身にまとう香りは届くけれど、まるで音がしなかったのだ。
矩歩は水に波紋を広げるようにすべらかで、柔らかな衣擦れがひとの動きを表すのみ。貴賓とみなされた女たちは静かに壇に並び、ふわり、と牡丹の花が開くように座った。
見る者の大息を誘う艶やかさだ。そんな花の貌に目を奪われなかったのは、韶華だけであったかもしれない。女たちの間に座る長姉朱蕣の姿を探しあて、ほっとしていた。
ふと、女たちの膝に小さな帛幃が置かれているのに気づき、韶華は首を傾げた。
(あれって、初めに渡された帛で作ったやつだよね? まだ持ってたの)
あの幃こそ第一の考試と思ったのだが、違うのか。
見比べて韶華はにやりと笑った。
長姉の節省に敵う者なし。それは家族ゆえの驕りではない。一瞥で巧拙が分かってしまう。
姉だけが短い糸をあますところなく使い、細やかな紋様を作り上げている。針脚は緻密で揺らぎがない。さらに縫い代をぎりぎりまで減らしているから、幃は誰よりも大きかった。
独笑する韶華をよそに、文官は皇帝の来臨より先にかかるナントカカントカと言いながら、将兵を呼び入れた。
(武人が並ぶと、局促になるんだけど……)
韶華が思うところは武官も考えていたらしく、金糸や玉も鮮やかな、華麗な絹甲に身を包んでいた。
装う介士という珍しさに加え、ひときわ醒目であったのは、玉帳のすぐ下に控えた侍衛の将だった。文官のゆったりとした優美さとは異なるが、動きのひとつひとつが廉隅しく、美しい。男子も装うと違って見えるものだと韶華は考えた。
次に呼ばれたのは美観に重きを置いた文官で、いきなり宜しいと呟き、座る韶華たちを睥睨した。装えば良いというものではないことも、よく分かった。
「さてここで白衣らに予め申しておくが、この一場においては、如何なる背叛も許されぬ。しかし拝謁に至った事由を鑑みて、不見識による作法不当は僅かながら認めよう。防守の責を負うのは、棠梨に名望を集める左領左右府将軍ぞ。小故にあっても非心は見逃されるものではないと、心目に刻みおくがよい。徐将軍」
偉そうだなあ、と韶華に思われていると知らず、文官は侍衛の将に頷きかけた。徐将軍と言われた男の横顔が前を向く。
「うごっ」
韶華は慌てて口許を袖で覆った。
居並ぶひとが、文官が、広坐の端に目を向ける。
そこでは柔らかな栗色の髪に綵花を飾り、紅袍の濃淡も清楚な少女が、えづくが如く震えている。叛徒には見えず、また、身ごもるような齢でもないことを考えると、文官はまず少女が奇しき病にでもかかっているのかと疑った。
「そこの者……」
「相公! 気にせずとも良い。次を進めてくれ」
「うむ……では」
守り為す将軍に直に言われ、文官も拘るのを止めた。少女の肩が激しく揺れたようにも見えたが、ただ序次通りに香試たちを呼んだ。
「これより香を判ずることになるが、前に考試の準的を伝えねばならぬ。これまでは階段において算出された数が、及第に達した者だけが次へと進めるようになっていた。しかし甲乙つけ難いことも多く、一人の勅令もあり……」
「呂よ、過樹国の生まれでもあるまいに、話を伸ばすな。退屈してしまうぞ」
「はっ、申し訳ございません!」
拱手する文官に合わせ、広坐の者たちは叩拝した。
文官にかけられた「呂」という声は、玉帳の向こうから聞こえている。沙棠宮の主、棠梨国を治める一人のものであるのは明らかだった。
「公平であらねばというのは良いことだが、全て聞いていたら、子夜になってしまう。児女であれば、眠ってしまうところだ」
韶華はぎぎぎと歯を噛みしめた。
引き合いに出すなと暴れ出したい、この酒鬼がと叫びたい。それを耐えたのは、徐将軍――静影の必死の視線を感じるからだ。査牙であると言われ続けた紫石の瞳が少女に伝えている。頼む、黙ってくれ、と。
(だけど……!)
噛みついてやりたいのは、静影に対しても同じなのだ。静影が将軍だと気づかなかったことが、さらに心煩を増やしている。初めに気づかなかったのが悪いので、乱発火なのは韶華も認める。
(でも! 禁書すれすれの雑誌に投稿しますかッ、それも真の名でっ。将軍がっ)
欄目に記す時は渾名ではあるのだが、南衙軍の徐膠固では、あまり伏せたとはいえまい。
「もう隠れているのも飽きたな。開けよ」
弄月が皇帝として軽やかに告げる。もとより人家――韶華の怒りがどこに向いているのか、気にするような男ではない。
淑やかに開く玉帳より姿を現した棠梨の一人は、とても楽しそうに笑っていた。
「そう畏まるな。今天にここで面試をすると決めたのは余だ。ここまで考試を終えるのに、思いのほか長くかかった。我が妃を選ぶためとはいえ、あまたの玉女を留め置いては、宮都の男たちに恨まれよう。これで少しは短くなるか」
「万世がため、眷命にあふれた裁決にございます」
「では王主文よ、始めてくれ」
「皇上、恐れながら申し上げます。我ら香試は、その責を果たすことができそうにもないのでございます……!」
王重明は猛然にして言うと、低頭して顔を袖で覆った。ほかの香試たちも示し合わせたかのように、それに倣う。
並んでいた時から暗い顔色をしているなと、韶華も気づいていた。頬の墨が落ちきっていないのかと思ったくらいである。
「重明、どうしたのだ。余の信を受けた身で、できないと言うのか」
「香試として、慚愧無地の境地にございます。この責は小官も敢死で以って応えなければと考えておりましたが、ですが……香が……ある香りだけが……我らを虜にするのです!」
それならそれで、構わないのではないか。と、皇帝のみならず、文官以下全ての者が首を傾げる。
「否! ただひとつを天地之最とする……それは香試として許されぬこと、一人のみが定めることでございます! 嗚呼、なのに……ほかもそれぞれ決して劣るものではないのに、手に取ろうとも思えない。仙女を当前にして輝きを失った佳人のように、不成なのです!」
泣き伏せる香試たち。誰も身動きが取れない中、しばらくしてようやく呂公が応じた。
「で、では王主文。その……虜となった香りがどのように優れているのか……伝えてくれまいか? とにかく?」
「嗚呼! 我が貧しき言では、語り尽くすに足りません! その妙なる香りは強くもなく、弱くもなく、近づけば軽やかに逃げ、離れれば追いすがる! なのに馥郁たる花圃に足を踏み入れたような、桃源郷に迷うような、幻に耽るのを許す! ほころぶ花の匂いにむせ返り、はたと気づけば、愛らしい少女が幼くも妖冶なる微笑みを浮かべ、桃の頬にくぼみをつくる……その香を一言で表すならば、丹花からこぼれる吐息、蒼穹より贈られし天花なり!」
一言じゃないだろうとか、褒めるのに天花は止めろだとか、幼女の吐息って変態かだとか、いろいろと思うところはあるはずだが、嘉悦の涙を流し、香幃を握りしめ、冷戦をする男からひとびとは目を離せなくなった。傷口をつい、触ってしまうような感覚だろうか。
弄月は重明の迷于香な情態には慣れているようで、軽く頷いて促した。
「して、重明よ。その香とは、どの数のものか?」
「百八でございます!」
「煩悩が多そうだな……」
苦笑いをした弄月は、迷うことなく朱蕣を見た。
妹を誇らしげに見ていた杜家の長姉も、弄月の視線に気づくと微笑んだ。
数を告げられるまでもなく、香試の褒める香が韶華のもたらしたものであると、ふたりは信じていた。
「静影、答えよ! かつて余が徐小君を妻に求めた時、なにをしたか」
「はっ……小石を平らに磨いて渡し、これを誓いの鏡にしてくれと頼んだと……いや、願い申し上げたと」
「再び為すことを許してくれるだろうか……」
誰の返しも待たず、緩やかに男は立ち上がった。
「かの女の後事より、余がそばに誰も置かなかったのは、その身から匂い立つものを、亡くした者と比べてしまう故からだ。だが、この百八の香は古い想いさえ包み込み、惹かれることを許す。余はここに宣言する。後妃に迎えるのは、杜朱蕣……百八の香を納めた女である」
「御意!」
拱手と叩拝と、ひとり身悶えしながら香を掲げている男と、なにか言いたげに口を広げた少女が納女考試の終了を聞く。
御苑を見渡し不服の意がないことを認め、棠梨の主は頷いた。同時に玉帳が静かに閉じられる。
全ては幻のような一幕――それは杜家の姉妹の労が報われ、願いが叶えられた時といっても良かったのに。
これを信じて良いのか、韶華にはよく分からなかった。
広坐にいる者たちも、同じ心境であったようだ。あまりに軽易に事が決まってしまったのではないか、と。
皇帝が去り、貴賓が去り、守りの将兵も去って、文官たちがまだ泣いている香試を連れて行き、ようやくたったひとつだけがひとびとの胸に残る。
全ては決まったのだと。