急症之二
「なにゆえ一人がこのような場に光臨なさいますかッ」
老医伯の叫びに応じたのは、弄月を知らない子どもらだけであった。
「なに言ってんだよ、爺爺は。一人て?」
「知らないの、景景。もっと学べよ。皇帝のことだよ」
「うるせえ、永児。おまえ学んでるわりに、頭悪いな。皇帝が宮城の外にいるわけないじゃん。それにオレ、こいつのこと知ってるぞ。報春路の酒鬼って呼ばれてんの。だからあれだろ……皇帝って、例えみたいな……」
「ああ、流気が言うやつだね! おれは玉門楼の夜の帝だぞーとか」
「それな」
違うよ。と口にする者はいなかった。
というより、そう言うべき者はがくがくと震え、執り成してくれるかもしれない武人が失落から立ち直り、さっさと少年たちを追い出してくれたらと考えていた。
怯える老医伯に次の矢を射かけたのは、韶華になった。
「一人て……弄月大人があ? 静影ってば、どうなの。直に面貌を見たことなくても、介士なら皇帝くらい見分けられるでしょ」
老爺の魂魄が、一瞬遼遠に放たれそうになる。
しかし少女の澄んでよく通る声は、武人の魂魄をも揺さぶり、天地を正すのに成功した。
「韶華……あのな、こちらにおわすは、真に我が国の主で……」
「探してたひとだよね。弄月大人は、静影に見つかったら困るって言ってたけど」
「そうだよ。だから俺が探してたのは、皇帝なんだよ。軽易に出かけて戻ってこな
いから……こんな時に」
なにかをふっ切り、査牙な紫石の双眸が梟悪な光を帯びて弄月を睨んだ。
「いかがでしたか、京城漫歩は。充分に楽しんだようですから、さっさとお戻り下さい。申し上げておくと、殿下が気勢凶凶で行哲になってましてね……まあ、たっぷり怒られて下さい。こんなに長く逃げ回っていられるとは思わず、本将ひとりで探したのは間違いでしたね。ところでまさかと思いますが、自ら後妃を選ぶ打算で出かけたわけじゃないですよね? 黒風が妓楼には行ってないと言ったから、酒楼を探してたんですが」
「固然だ、妓楼には行ってない! それは嘘ではないぞ!」
父親の邪視に長姉朱蕣の藐視が加わり、弄月――あるいは棠梨の皇帝は全方角に向けて謝り始めた。
酒鬼落空、と永児が景景にささやく。
少年たちの奔放さを皇上に執り成すどころか、皇上を絞り出し始めた静影を見ると、老医伯も微笑まずにはいられなかった。それが許されるような気がしたのだ。
そして静影の息が切れた間を使い、顔を引き締め、拱手をした。
「大家、思わぬところでお会い致します。覚えていらっしゃるとは思いませんが、先帝に疾医として仕えました、尹且にございます。天妃薬をお使いになられたのなら、もうその少女は安泰でありましょう」
「天妃?」
韶華は北斗丘の薬草園の名が、天妃園であったことを思い出した。
老医伯は問うような韶華に向かって頷く。
「亡くなられた元妃の美称であるよ。なかなかの本草家で……まあこれは、老人の昔語りだな。そこに置いてある螢惑の葉は、おまえが持ってきたのか。それも天妃薬に使われているよ。丸薬より煎じたもののほうが、よく効くがね」
ついでに朱蕣に向かって、いきなり口に押し込んではならん、とつけ加えた。
「さあ、それでは帰ろうか。淑英女士、なにかあったらまた。おまえたちも人家に押しかけるでないぞ。瑠璃を休ませてやらねばならん」
少年らを追い立て、老医伯は杜家を辞した。
「皇上、我らも戻りましょう。とういうか、連れて行きますので」
「少し待て、静影……朱蕣、貴女に言わねばならないことがある」
「なんですか」
妓楼の流れで若干冷淡な返しとなるが、朱蕣は弄月を当面に見た。無状ともいえるし真誠でもあるが、高強な女の魄力に誰もが息を呑んだ。
「美しい女なら、いくらでも見た。だが、美しく在る女は貴女だけだ。だから……先に断られてもいるから、言いにくくもあるな。もし貴女が私の後妃になるつもりがあるのなら、考試などせずに貴女を選ぶ」
「皇上、それは……!」
「不許です」
「え、また断られた?」
弄月は嘆息とともに肩を落とした。
もっとも、聞いていた者たちの思いは肩どころか、下巴が落ちるどころでは済まない。とくに静影は弄月と朱蕣とを交互に見、そして助けを求めるように韶華を見た。
韶華にとって、姉というひとを知らない静影の煩悶は理解できる。朱蕣が居心なくして微笑んだのは、弄月に対してだけだと知らないからだ。
弄月が姉を気にしていたのも預感していた。だから、どちらかというと姉が断ったことに驚いていた。しかも両次である。
(どうして断るの? やっぱ嫌? そりゃあこれで皇帝って信じがたいけど!)
「韶華、声に出てるぞ?」
「な、なにが?」
韶華と静影の呟きは、朱蕣の艶やかな笑みを見て止まった。
「わたしの心境を申し上げるならば……わたしは是と答えたいのです。貴男の後妃になれるなら……そう言ってしまいたい。ですが、考試は受けなくてはいけないのです」
どうして、と誰もが思った。
答えはそこにあると、朱蕣は韶華をじっと見つめた。
「わたしのことを、妹は信じている。考試を勝ち取るだろうと。わたしもまた、妹を信じています。宮城の者たちを恍惚とさせる香を作り、皇帝が妃をわたしに決める支援になるはずだと。そうして韶華の才能を知らしめたら、きっと道は開ける。妹を西街の内だけで終わらせたくないのよ。だから、考試は行わなくてはいけないのです。どんな道を求めるにしても、準備をしている甘棠の女たちのために」
「そうだな……すでに考試は始まっているようなものだ」
小さく呟き、弄月は頷いた。街で交わされる言のいくつが、考試のことだったのか、思い出すまでもない。
「貴男はただ……待っていて下さい。面試に加わるわたしを見るまで、なにもせずにいて下さい。そしてわたしを見て、選んで。それに門路を使って後妃の位を得なくても、わたしは考試に受かりますわよ?」
「その言に期望しよう!」
笑う弄月は、痩せ女という子への情に中略な妖怪に似た者に睨まれ、慌てて口を閉じた。恐怖からではない、眠る幼子を起こさないためである。
静かに立ち去る主君に続き、がちがちに固まった身体を延ばし、静影も居室を出ようとした。
韶華は急いで袖を掴み、首を傾げる男を引き留めた。言わねばならないことが、いくつもあった。それこそ、盛り盛りと。なのに出たのは短い感謝の言だけとなった。
「待って、あの……ありがとう」
「俺はなにもしてないよ。皇上の薬があって良かったな。でも次からは、アレがいたら知らせてくれ」
「そうだね……そうする……」
しかしなあ、と韶華は黙ったまま静影を見上げた。
弄月をアレ呼びして探すより、宮城からの出走を阻止するのが先ではないかと思うのだ。おそらく、韶華たちが北斗丘から戻るのに使った水渠を彼も使っている。あんな細い濠ごときで、あそこまで軽易に宮城へ出たり入ったりできるのは、困るのではないかと思う。
(宮城の守りとしてもどうよ……)
「じゃあな。俺は帰るよ」
「帰れ、じゃないのは初めてだね」
「そうか?」
微笑む静影につられ、韶華も微笑んだ。紫石ばかりが醒目ような双眸でも、いつもそうやって笑っていればいいのにと思う。
「また、来るかなっ? ええと、ほら、披肩を返さないといけないし。作房に来てくれたらいいよ。路のひとに訊けば、誰でも知ってるから」
頷こうとした静影の当前に、ついと淡粧の佚女が立った。韶華の母親だと気づく間に、女は深く頭を下げた。
「韶華によくして下さり、ありがとうございます。皇上との拝謁には驚きを禁じ得ませんが、瑠璃が助かったのも、棠梨の祖の光彩に守られてこそ」
「いえ……驚かせたのは、我が主君の卒爾さゆえですから、謝るのはこちらで」
「それでも伝えなくてはと思います。ねえ、郎君も言って下さるかしら? ところでアナタどなた……って」
女打手の底光りする目に見つめられ、静影は蛙と蛇の図を思い出さずにはいられなかった。
二親の知らないところで姉妹が男と知り合うのは、やはり見過ごせるものではなかったらしい。
次に怒られるであろう二姐妹は、ただ、うつむいていた。




