急症之一
「小妹、どこに行ってたんだ!」
送料外の旅程を終え、すっきりと爽やかな顔色で港口に降り立つ韶華へ、ひとりの老爺が叫んだ。
「どうしたの、叔叔。慌てちゃって」
「西街に行った吾の使いが戻ってきたんだよ。淑英女士が家に帰ったから、する事がなくなったって。おまえさんとこの季児が、不佳って……」
「馬を借りるぞ! 韶華、乗れ!」
港口にいるのは荷を運ぶための馬であって軍馬ではないが、静影は迷わず一頭の引き手を掴んだ。
杜家の情況を伝えた男も、動けなくなった韶華を抱えるようにして馬に乗せた。すでにその身が老境にあるにも拘らず、あるだけの力を込めることを惜しまない。馬は貸してやるから、早く行けと無言で示した。
「家はどの路だ、韶華」
「香青路……」
聡明さは毒になることもある。静影の目には、韶華が一瞬にして心事に侵食されたことが分かった。
考えてはならないと言うのは容易だ。だが静影は敢えてなにも見なかった振りをして、馬を走らせた。
***
淑英が家に駆け込んだ時、父親も家を飛び出そうとしていた。
「熱が高くて、息ができないみたいなんだ。医師を……」
「尹大医を連れて来るわ。待っていて!」
母親は身を翻し走り去る。そこから僅かに遅れて朱蕣も戻ってきた。いつもは慌てない玉女が走っているのが珍しかったのか、子どもたちもついてきている。
「お父さま、瑠璃は?」
「熱が下がらなくて……」
「あいつ、不佳の?」
好奇のつもりでのぞき込んだ少年は、いつもと違う騒ぎに震える言を洩らした。
愛児を欺負る悪童とはいえ、幼い顔色に恐怖が現れるのを見て、父親は慰めるように微笑みを浮かべた。
「さあ、帰りなさい。瑠璃のことは、きみには係わりないから」
「でも……」
項垂れる少年のそばで別の少年が、やっぱ叔叔って没有大人気概よな景景をまだ恨んでるわ、と呟いた。さらに洟を垂らした小児が景景加油、とつけ加える。
門口の前にひどい寒風が吹き荒ぶのをよそに、景景は身を翻し、走り出した。
「景景、どこに行くんだよー」
「大医を呼びに行く! だって今天は永児の家に行ってるんだぞ! 杜大娘、それ知らなくて医院に行ったかも!」
どこで誰といつ遊ぶかという子どものつながりは、それぞれの家常を知ることでもある。だから子どもは、表から見えない巷の動静を、誰よりも早く知っていたりするのだ。
淑英が医者の不在を知って呆然とした時、わあわあと騒ぎながら子どもたちが現れ、全てを話した。そして報春路まで戻り、景景と永児に背を押され、息切れしている尹医師を見つけることになる。
「もう走れんぞ……急がねばならんのに」
「わたしが貴男を背負います。景景は……」
「オレ、荷を持つよ。杜大娘、走りにくいだろ」
「じゃあ、ぼくは医院に行って、副手に薬とか持って来るように言うよ。瑠璃のこ
と……頼んだよ、大医」
「瑠璃とか猥眼しいぞ、おまえ!」
杜家の幼い少女に少年たちがよく絡むのは、知りたいという心目をうまく伝えられないからだ。しかし明白な居心があれば、正しく行いで示せるのである。たとえ熱でうなされている少女が、それを知らないとしても。
***
静影が馬を止めるのと韶華が飛び降りるのは、ほぼ同時になった。
少女の無謀ともいえる動きを止める者はいない。韶華に続き、静影も武人らしい俊敏さで路地に入り込んだ。
香青路のひとつ向こうの路だが、旁路を使えば直に行くより早く着く。なにより馬が入れるのは、そこまでだった。
「韶華、止まるな」
「だって……」
「あの子は無事だ、そう信じろ」
韶華が背を押され家に飛び込むと、朱蕣だけが寝台の旁で瑠璃を見守っていた。
「お姉ちゃん!」
振り返った長姉の目に、頼りを得たと思う微かな光が宿る。
対して、ぐったりとする小さな身躯は熱を持った浅い息を繰り返し、もう、うなされる力も残っていないようだった。
「お母さまが……尹大医を呼びに……でもまだで」
救いを求めて手を伸ばし、朱蕣は妹が濡れていることに気づいた。さらに、主の許しもなく入ってきた不行儀な男にも。
しかし紫石の双眸は、どこで会った男かを朱蕣にすぐに思い出させた。
「このひとが披肩の……いえ、今はいいわ。それより韶華、薬はないの? 瑠璃がもう応えてくれないの。お願い、助けて。だってあなたはいつも、そこらの国手よりよく効く薬をつくるじゃない」
必死の長姉に見つめられ、韶華は無意識のうちに口袋へと手を入れた。
冷えた指に触れるのは、螢惑の葉だ。
(でもこれは……)
「薬草を持っているのね? 採りに行ってたの? 韶華、早くそれを……!」
朱蕣は韶華の微かな手の動きを見逃さなかった。さっと赤い葉を奪い、幼い少女を見つめた。
「これで……!」
「違う、お姉ちゃん、それではっ……后妃の」
「いらない! そんなもの瑠璃が助からなかったら、いらないのよ! 家族を守るために后妃になろうとしているの。なのに瑠璃を失ったら、なにもならないわ!」
「違うのそうじゃなくて直に口に押し込んだら不成なの! 煎じて薬にするのああ瑠璃が息できなくなっちゃう!」
ぐにぐにと葉を押し込まれた幼い顔が、熱以外の理由で苦しそうに歪んでいる。
静影は惑乱する二姐妹を引き離そうと近づき、肩を掴まれた。
「なにを……え?」
「その子が、きみらの妹か」
韶華も朱蕣も、いるはずのないひとの声に振り返る。驚きのあまり、静影の様態にも気づかなかった。
ゆるい動きで弄月が幼い少女のそばに座った。酒楼で見るのと、白屋で見るのでは、かなり違った人物に思える。風雅な香りと、なめらかな動きがそう思わせるのかもしれない。
「弄月……令令、どうしてここに?」
「令令ッ?」
静かにと静影を睇視で制したあと、弄月は瑠璃を腕に抱えた。
「路で子どもたちが騒いでいたからね。杜大娘に知らせると……それで、もしやと思っていたら、黒風が教えてくれたよ」
「黒風ッ!」
封口らせるのが麻煩になったか、弄月は静影を無視して懐から小さな幃を取り出した。正色の黒に紫の蘭が織り込まれた綾文で、紐の端にある翠玉には棠梨の花紋が彫り込まれている。
弄月はそこから丸薬を取り出した。香幃ではなく、青嚢であるらしい。
「薬ならある。ただ小児には悍薬だろうから、両半にしなくてはいけないね」
そして指で幼女の口の中から、そろりと釣り上げるように葉を抜き取り、片刻考え、寝台の枕の上に置いた。唾液でべろべろになっているが、稀少な葉には違いない。
「さあ、瑠璃。このまま呑むんだ……噛み砕かなくて良いから」
弱々しく開いた唇が、指の先端に乗った丸薬の一半を呑み込む。
弄月は少女の熱を確かめるように額を撫でた。汗で張りついた前髪を退けると、丸みのある頬とあいまって、より幼さが強められる。
やがて瑠璃の喘ぐ息が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
「静息になれば、じきに熱は下がる。これを置いて行くから、次に起きた時、熱がまだあれば残りを……韶華、もしやきみの家は呪われているのかい? あんなところに痩せ女が」
「瑠璃を離せ!」
柱にしがみついていた痩せ女――子への情に凝り固まった妖怪に似た者が、弄月から幼子を奪い、抱き締めた。
「瑠璃、お父さんだよ!」
「え、父親? 男?」
邪視に背梁を冷やす弄月の前に、老爺を担いだ女傑が走り込んできた。こちらは姉妹の母親であるとすぐに分かる容貌である。
「瑠璃! 郎君!」
「ほれ小子、荷を渡せ……おや、熱は下がっておるようだぞ」
「じゃあもう……結実?」
老医伯はへたり込んだ少年に微笑み、二親と二姐妹にも頷いてみせた。それから呆然としている見知らぬふたりにも目を向け、声にならない悲鳴を上げた。
両の手を頭に当て失落している若い武人にも見覚えがあるが、父親に突き飛ばされたらしき壮年の男は、ここに在ってはならないひとであった。




