河伯憐之二
「ぷぴー」
明るさの向こうに紫石が滲んでいる。
ぽたりと落ちてきた雫が韶華の頬の上を流れ、なんだろうと思う間に、小さな雫の冷たさがひとつ、ふたつと続いた。
それは静影が顔を拭う毎に、濡れた袖から落ちるもの。なにかを耐えて歪んだ顔は、迷子が親を求めているのに似ていた。
「韶華……」
ささやきに応えようとして冷たさに身を震わせ、韶華は溺れかけたことをようやく思い出した。
「助けてくれたん……」
「大愚か! 狙も木から落ちるを体現したつもりか! 地面に落ちるより良いのかもしれないが、これだけ川が荒れていれば、溺れるには充分だ! 岩に引っかからなければ、俺は……」
「ごめんなさい……」
怒るひとの顔色があまりに鉄青に見えて、戯れにも笑い飛ばすことはできなかった。
「どこまで……頑固なんだ。呆れるよ、離そうとしないから。俺の手を掴んでくれたら、もう少し楽だったのに」
「それは……あっ、螢惑の葉!」
「しっかり持ってるよ」
焦る韶華の目の前に、静影は包み込んでいた手を持ち上げて見せた。
雫の流れ落ちる大きな手の中に、白くなるほど固く握った少女の拳がある。手を広げるには少しこわばりすぎていたが、添えられた温かさに促され、蕾の開くような緩やかさで動かすと、赤い葉がひとつ。
どれだけ韶華が嬉しそうに見えたのかは分からない。ただ、静影の口許もほころぶのを見て――蝶の羽ばたきが韶華の胸の中に起きた気がした。
「ほら、起きろ……帰るぞ」
「うん」
静影の手に引き起こされた後、韶華はそっと葉を口袋にしまい込んだ。
先に歩き始めていた静影は、ついて来るだろうと思った韶華がそのまま立ち止まっていることを不審に思い、振り返った。
「なんだ? どこか傷めたのか」
「違うの。すっかり持ってたのを忘れてた。川の中で助けてもらえたのって、これがあったからかも」
静影の鼻先に突き付けられたのは、河伯の護符だった。
髪の先から雫を滴らせ、小さな木片を掲げる韶華は意気揚々。神に感謝するのは悪くない。しかし、
「助けたのは俺だろうがよ……だいたいなんで山に来るのに入山符じゃなくて河伯の護符」
「近くに住む狡童の妹へのお土産よ……でも瑠璃はいらないって言うから、わたしがもらったの。いつもの行いからすれば当然なんだけどさ、想いは届かなかったわけ。小児でも女人心を解さなかったら白白……情書だってさあ、いや、なんでもないわ」
口ごもる韶華を先を進む紫石がちらりと見る。濡れた前髪を上げているせいで、双眸の天蓋となる秀でた眉が、烈しい不審を表しているのがよく分かった。
「ほら、あの……なんていうか時というものがあるから、情書だとか、ひとに渡したものが捨てられても、気にしてはいけないと思うの」
「捨て……って、なにを言っている」
静影が薬草園の門を開ける。不審はますます濃くなっている。
「やだな知りませんよ情書の話なんか、ねえ? あ、でも字は洒脱で嘉手よねっ。よく褒められるでしょう?」
「どうして知って……」
「いえ、忘れて! 全くもって忘れて下さい! あらあら、小舟が見えるわ。あれでここまでいらしたのですね!」
「なんの戯劇だ……」
笑う韶華を見てはならないものと決めたらしく、静影は肩を竦めると、黙って坂を下り始めた。
天妃園は北斗丘のごく一部分でしかないが、韶華が落ちた川に沿って広がっているようだ。下流には舟が係泊されており、入って来たのと同じ形の門があった。
いっそそこまで流されてしまえば、帰りは早かったのかもしれない。
そう呟きかけて、韶華は静影に睇視で睨まれた。細人と思わないでもないが、流れついた先がどこの幽明の地か知れないので、黙って叱られておいた。
「よく来てるんだね。天妃園の内に入ると、獣道みたいなものでも路がある。これは、あなたが踏んだからできた跡だよね」
「まあな。雨のあとはあまり行きたくないんだが、珍品採取に勤しむ人物を知ってしまったら、嫌な預感がしてな」
「そうですか、関心をありがとうございますっ。でもなー……わたしも登山は初めてじゃないけど、雨のあとはひどいんだねえ。行かないと分からないよ」
「日が落ちたら、もっとすごいことになるぞ」
「うん、それは分かる気がする」
言いながら韶華は崩れた石段の上にひょいと乗った。
「舟に乗ったら、甘河のどの辺りに着くの?」
「……東城の水渠を通り抜けて、中橋に」
「それは……」
便宜と言おうとして、韶華の笑みは中途で固まった。
北斗丘に向かうには城外を廻る路程と、甘河支流を北上する路程のふたつある。甘河を北上するための舟費はかなり高価で、庶人の係わるところではない。それは北洛の貴族だけを対手に商う者たちが占有しているからだ。
武人である静影ならば、使うこともできるだろう。しかし彼の教えた路程は、それではない。東城の濠と言ったのだ。
東城は宮城の東にある官吏の街である。北斗丘から南下すれば、確かにそこに着くだろう。支流ではない濠のひとつもあるかもしれない。ただし東城は宮城と密につながっており、官人でさえ往来に自由はないのだ。
「その水渠ってさあ……みんなが使うようなところなわけ?」
「まあ……みんなというか、一部分というか」
静影の口気が陰に籠っている。あまり褒められた行程ではないらしい。
「そうだよね……わたしの覚えている限りでは、中橋まで南下する路程って、東城と宮城の中間を通るんだけど。っていうか宮城の内にあるよね、水渠……」
「そうなる、かな。だからまあ……見つからないようにしろよ」
「隠れるとこあるの、これで!」
韶華は小舟を指さした。水路でよく見る釣船より粗劣なものである。
「わたしは構わないですよ。辺りがよく見えるし、そしたら楽しそうだし。わあ、後宮にはなんて精彩な果園があるのかしらーとか、ここを公主が歩いていらっしゃるのねーとか、東宮の宮殿とはここだわー次にはどんな后妃が集められるのでしょうーとか、宮城に忍び込んだ匪徒として、最期に見たいだけ見て判罪というのも悪くないよね」
「止めろ……俺がなんとかするから……」
「では!」
少女の身躯が軽やかに小舟に飛び乗った。
「もし見つからずに済んだら、他日、瑠璃を乗せてもいいかな? あまり遠くに行かずにいろいろ見られそうだし。冊子の絵を見るだけよりきっと佳いと思うんだ。やってみないと分からないことって、あるから……」
「乗せるかどうかはともかく、山に行く時は沓を選ぶよう、言っておけよ」
「ひどいよねー! 外行のくせに、田好が井然と指南とか新鮮ッ! 暢銷書だなんて嘘よ!」
「誰だよ田好って……」
「聞きたい?」
是の返事を待たず、韶華は語り始めた。
そうして静影は、舟の進む短くはない時を、田好という人物の脚色を知ることに費すこととなった。




