河伯憐之一
宮都甘棠の北辺は、広大な丘陵地帯である。
それを越えると北の領国、白棠に行くことになるが、宮城に近い小山は棠梨国の皇族の斎場であり、禁苑となっていた。
この入ることを禁じられた苑が、北斗丘と称されることは市人の誰もが知っている。そしてまた、北の際にある国キュウに行く街道を通れば、実は入れてしまうことも。
韶華が使った行程は、それであった。遼遠なキュウ国へ向かう商隊に、ついでとばかりに乗り込んだのだ。
西苑の門が開いている刻であったため、北上するのに大廻りせずに済み、中午には北斗丘に着くことができた。しかし、そこからは棘手ることになった。
「歩きにくい……歩きにくいんだってば。分かってたけど!」
吐き捨てはしたものの、韶華もすでに怒る気は失せていた。沓裏の泥を持っていた小枝でこそぎ落とそうとして、
「あ……」
ぽい、と枝を放り投げる。
山の黒い土は水を含むと都城のものより重くなる。小枝は過労によって折れ曲がり、すでに刮刀の用をなさなくなっていた。
新たな枝を拾い、踵についた饅頭のような泥の塊を引きはがす。
山に入ってからは、ずっとこれを繰り返し、木々の葉から落ちる雫の美しさを眺める暇もない。深山を登っているわけでもなし、そろそろ見えてもよいのにと思いながら、大息を吐いた。
「確かにさあ……あの香炉の球に彫られてたの、地図というより絵だったから、正確な距離は分からないけども。おかしいなあ……宮城のすぐ北なんだけどな。甘河の支流から入った方が楽だったかな。でも船費なんか出せないし」
それに、こっそり行こうと思うなら城壁の外を廻るしかない。どれほど歩きにくかろうと、諦めるわけにはいかない。
天妃園という秘方を知ってしまったからには。
「うう……泥が憎い。指南書の通り、爪のついた橇も持って来たのに……」
履いたそばから足は泥にがっちりと嵌まり、ただの遇人と化したのである。
「田好とかいう山遊指南を書いた男、山なんか行ったことないね。賭けてもいい」
ぶつぶつ言いなが韶華は辺りを確かめ、泥だらけの手を木に伸ばし、支えにしながら斜面を登り始めた。
「あ、れ……かな。やった! 見えた」
登りきるまであと少し、というところで銀色の門扉――緑蔭の奥にひっそりと埋もれ、誰もその存在を知らず、ゆえに近づくひともいない禁断の薬草園――その入口が韶華の前に姿を現した。
静けさに守られ、歩きにくさ以外は妨げるものがない。韶華の欲しいものは、すぐそこにある。
「ええと……門からしばらくは赤楊の林があって、で、橡を探して……」
「詳しいな」
「うはあっ、どうして」
気を緩ませたせいで、影に気づくのが遅れたようだ。査牙しい紫石の静影が韶華を見ていた。
「そういえば、名を訊いていなかったな」
「まあその……杜韶華です」
韶華は真誠に名乗った。親の知らないところで男に名を教えることになるが、これはどうしようもないだろう。
「あの地図に、ここは書いてなかったと思うが……あれか。古書市で見つけた書籍に書いてあったか?」
「そ……ソウデスネ」
「嘘か」
「ソウデ……いえ知らないです、わたし道に迷いました」
「都城を出たら、漫歩とはとても言えないぞ。それに、その仮装……望舒党か?」
静影の紫石の双眸が、韶華の頭から脚先までを見回した。
「ええ仮装ですよ仮装、仮装に決まってるでしょう。ほら、今、庶人の間では義賊の望舒党がものすごく時好で! わたし道に迷いました」
「……それを信じてもらえると思うか?」
「す、少しは。だって、望舒党の姿でわたしがなにをすると言うの。盗むつもりでいたなら、わざわざ怪しい扮装なんかしないって。わたし道に迷いました……」
「盗みに入る打算だったのか」
「わたし道に迷いました……」
「とりあえず正しい道からは外れているな」
韶華は項垂れた。もう無法である。
しかしすぐに頭を上げ、静影の紫石を当面に見つめ返した。
「地道にやれって言われたし、わたしもそのつもりだったけど、どうしてもやってみたい配方がみつかったの。それには、とある木の葉が必要で……この天妃園にあるの……」
「そんなに珍しいものなのか? 確かにここは、あらゆる薬草を集めた園だが」
「棠梨の全てを、あるいはほかの国も探せばあると思う。でも天妃園より遠いところなのは間違いない。だから採りに来たの。天妃園がわたしのものでない以上、盗むっていう言しか使えないけれど、その木の葉がひとつだけ欲しくて。採ることでその木が枯れることはないし、都に持ち込んだ葉が他の植物に影響を与えたりもしない。だからたったひとつ……それだけで良いから、わたしに下さい。香を作るのに必要なの!」
韶華の願いはひどく利己的なものである。だから不成と言われたならば諦めなくてはいけない。それを受け入れるつもりはあるが、ただ、諦めきれない心境を少しでも静影に知って欲しい、と思ってしまうのは――あまりにも狡いような気がして、韶華は泣きたくなった。
「そんな沓でよく来られたよな」
静影は呆れたように呟いた。
「それでまだ歩けるっていうなら、一葉……採れ」
「い、いの?」
大きく口を開けた韶華に静影は頷いてみせた。
「北斗丘は……俺の主持するところではないんだが、できるだけ張望するようにしている。おまえの言う天妃園は……万世のためになるようにと願い、作られたものだ。いろいろあって半ばで放棄されてしまったようだが、いつか開かれる日が来ると信じたひとのために、俺は……荒れていないか見ていたんだ」
静影の口気は少し寂しげであった。見ているしかない借口のようでもあり、できなかった心急でもあるようだ。
「たった一葉でもひとのためになるのなら、報われるだろう。だが、俺もついて行く。いいな?」
忙しく頷く韶華を見て、静影は門を開いた。
すでに開けてあった、のではなく、よく見れば鍵がないのである。万世のためとはそういう意思かと思う韶華に、静影は木々の先を示した。
「俺にはどの木のことかは分からんから、おまえが……ええと」
「韶華。杜韶華」
「……小妹が先に行け」
「名乗り、要らなかったじゃん!」
静影はぷいと横を向いて、韶華を通した。
呼ぶ気がないなら訊くなと怒り出すところだが、韶華は歩みを進めた。名を呼ぶ恥ずかしさは、理解できなくもない。
「あれ? 歩き易い……?」
「この辺りは、俺がよく歩いているからな。いいのか? このまま小径に沿って歩くと、上には行かないぞ」
「うん。この岩場を上がる。わたしの探している木は、螢惑っていうの。橡に紛れて育つ木なんだけど、新緑の時候、急に新晴となった中午に開いた若葉は、万能の薬となるの。古くは解毒や殺菌に使われ、煎じれば解熱や鎮静、頭痛、消化不良だとか滋養強壮に効果を持つ。血行促進にもなるし、皮膚に塗ればたちどころに傷が消え、二日酔いにも効くみたい。とある毒と混ぜると、仙人になれる薬になるっていうけど、それはちょっと信じがたいよねー」
「俺には全てが信じがたいよ……」
鎮静と強壮が並びたつ神異。皮膚と二日酔いで、塗るのか飲むのかはっきりしろと言いたくなる。そもそも毒とともに飲んで死ななければ、それは確かに仙人だとか、いろいろ思うところはあれど、使うのは静影ではない。
「それが香作りにどう係わるんだ?」
「螢惑の若葉は、開いたばかりは赤いんだって。で、その時に採れば、赤いままなのね。でも、午下になればもう緑の葉に変わる。片刻の色が香りを引き立て、より芳しくする秘方になる……古書市で手に入れた秘伝には、そう書いてあった。つまり、今天の葉でないと使えない……」
橡の樹皮を確かめつつ、韶華は下草を踏み込む。そんな少女の背がひどく思い詰めているように見えて、静影は目を逸した。
「そんなに香は重要か? 姉を后妃にして……幸せになれると思っているのか」
「少なくとも、お姉ちゃんの暮らしは困らなくなる。おこぼれは考えないでもないけれど」
韶華は次から次へと木に触れ、見上げ、螢惑を探した。
「やっぱりね、瑠璃のちゃんとした薬を買いたいんだ……お母さんには篭手と袍を買って、お父さんは書籍……って、もう文房からあふれそうだから牀子が良いかもね。いっそ書庫? それか、瑠璃が学堂に轎で通えるようにしてみるのも……」
「おまえはどうしたいんだ、韶華」
「わたし?」
名を呼ばれたことにも気づかず、韶華は立ち止まった。
木々の間に差し込む光は、新緑の色を帯びて薄い陰をつくる。黙っている静影の端整な顔を、恐ろしく直心なものに見せた。
「わたしは……あっ! あった……!」
「な、なにが」
韶華は言うより早いと静影に飛び掛かり、顔を上へと向けさせた。
高みに白い花を咲かせた橡の切れ間、赤い葉を枝先に重ねた木が、崖の旁から割り込むようにして生えている。
そう高さのある木ではない。
だが、韶華の背丈では届かない。開いたばかりの葉を採るためには、崖を這い上がらねばならなかった。
「俺が飛び上がって掴む……で、ぎりぎりか」
「不行! 赤い若葉が掴めるとは限らないし、ひとつだけでいいの! それに螢惑は弱い木なのよね。陽の当たるところにしか蕾がつかない」
よく分からないという顔の静影に、韶華は開いた手を交差して見せた。
「枝の両傍に並ぶ新芽は、開いて大きな五葉になる。蕾はその葉の……手の背の辺りにしかつかない。だけど蕾がつくのは、枝の先なんかで陽が当たったものだけ。内で葉が重なり、蕾がつかなかった葉は、いずれ枯れて落ちてしまう。わたしが欲しいのは、それなの」
「つまり内の……え?」
交差させていた手を揉み合わせ、にやりと笑う韶華に静影が困惑する。
「肩、貸して?」
「それは構わない、が」
次の瞬間、怒声が森に響き渡った。
「痛い痛いだろうが貸すどころじゃないぞ止めろおまえは狙かッ」
「少しだけ、少しだけだから! 雲梯代わりになって、踏まれるくらい耐えて!」
「言うのは楽でも痛ッ」
韶華にはほとんど顧みられていないが、静影も武人である。少女ひとりの重さが身躯にかかったとしても、そうそう揺らぎはしない。
とはいえ抱えるのでもなく、負うのでもなく、踏まれるというより狙に襲われているという様態に陥っては、対処のしようがない。早く採れと祈るばかりである。
「採った、採ったから!」
「いいから早く降りろ!」
ふっと軽くなったのは、焦る韶華が飛び降りたから。やれやれと身体を伸ばし、静影はそれが間違いであると気づいた。
「韶華!」
木は崖に生えていた。すなわち、崖下があるのだ。
しばらく続いた雨のせいで濁流となった川が、韶華を呑み込もうとしていた。
(泳げる、けど……)
韶華は喉に流れ込む水を歯を食い縛ることで耐え、激しい流れの内でぐるりと身を回した。
水面が知りたい。呼吸できる上面を知りたい――
だがそれは叶わず、冷たい濁流に力を奪われて行く。
「……掴め」
静影の必死の叫びを聞いた気がして、韶華は手を伸ばした。そしてなにも見えない水中で、赤い色を見る。
(螢惑の葉……)
「韶華! 岩にぶつかる、手を!」
否、これは離せない。捨てられは、しない。
愚かよの、と誰かが言い、憐れみを、と誰かがささやく。
それを夢と現に分けることは、韶華にはできなかった。




