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古書神来之四


「なんなら桂油は(オレ)のを分けて……おう、終わったのかい、大兄(にいさん)。ありがとよ!」

 園丁(にわし)は、虚ろな静影(セイエイ)様態(さま)には気づかなかったようである。置きっぱなしにしていた手巾(てぬぐい)のもとに戻って行った。

「ごめん。なんかほとんどやってもらったような」

「いいってことよ」

「そんな平らな声で言われても」

「ほらよ、大兄。これが助けてもらった零銭(だちん)だ……天黒(ひぐれ)まで間があるぜ!」

 慰めようとする韶華(ショウカ)を制して、園丁が静影に包みを差し出した。韶華にも当然、渡されている。

 受け取ったものの、静影は神奇(ふしぎ)そうにそれを見ていた。が、それが金銭で、どうしてこうなったかを思い出し、韶華に助力費を突き出した。

「これをやる……じゃなくて、俺が買うんだったな。だけど何を買うんだ? しかもさりげなくって、どうする」

「とりあえず、さりげなくって、行動指針をなにもかも口に出すことじゃないと思うんで……」

 寡黙さが女心を冷めさせる典型(タイプ)かと思えば、さにあらず。曰く言い難い不成(だめ)さである。

 韶華は大きく息を吐いて、静影の泥土で汚れた大きな手を軽く叩いた。

「いいよ、これはもらえない。もらう理由もないしね」

「ある」

「え?」

「兵は副業禁止だ」

 紫石(ひとみ)の硬い輝きに揺らぎはなかった。静影は承知の上で、したことなのだ。

古怪(へん)なひとだね……じゃあ、瑠璃(ルリ)に饅頭でも買って帰る。でもあの……」

 迷う韶華を静影は黙って促した。

「あのね、佳期(デート)じゃない……佳期じゃないんだけどね、少し古書市につき合ってくれないかな。介士(へいし)をうしろに立たせておけば、宰法(ぼったくり)の押さえになるんだよね……どころか、脅しにもなる。便宜(べんり)でしょう」

「おまえも、なにもかも口にするのは止めろよ……」

「なんか言った? あのね、見るところは決まってるんだ」

 静影は口を閉じ、韶華を追った。

 先を行くぽんぽんと跳ねる結び髪は、韶華の浮いた心境(きもち)を表している。それは、籬にぶつかりそうになっていた、灰心(しょんぼり)した姿からは想像もできないもので、静影を和ませた。

 ふわふわした小動物を見守る楽しさ、とでも言えば良いのかもしれない。

 しかしそれも、韶華が獲物を見つけて飛びかかるまでのことだった。

「やっぱりぼんやりしてたら不成だわね。いいものがないなんて……すでに書痴の餌食になってるだけだった! うーん……時が時だから、香合に類するものは(さら)われてるはずだ、け、ど……」

 目光(がんこう)も鋭く、少女はさっと攤子(ろてん)に近づいた。またあとで、と言った店とは並びになるが、どちらも掘り出しものが多く、行きつけにしていた。

「真の秘籍は、表面に記されてなどいない! さあ(いで)よ、我が求めしもの……」

 韶華は並べられた(はこ)に鼻を近づけ、ふたつを選び、(むしろ)に全てを並べ出した。

 蒼然とした書籍と巻軸が陽を浴び、埃と芸草(虫よけ)とが放たれる。

「分かる? 芸草の匂いが強いのは、売られる少し前まで誰かの書院にあったものだから、そこに出色のものはない。筐が新しいのも同じく、最近増えたもの。稀籍がないわけではないけど、ここの老板が見逃すはずはなくて、だからわたしが見たいのは……!」

 匂いが薄く、奥に置かれて形の変わったもの。と、誰も聞いていないと思っているので、韶華はさっさと検分を始めた。

 存在を忘れられた静影は、韶華によって散らかされた書籍を珍しそうにひっくり返しながら、深切(ていねい)に筐に戻していた。

 売り手がそういうものを集めていたのだろうが、煽情的な艶本(えほん)が多く、少女が目にするのはどうかと思うものばかりだった。

 静影の労心(しんぱい)をよそに、韶華は表紙だけで判別できるようで、瞬時に書籍をより分けている。門外漢の静影がどうこう言う必要はなさそうである。

「あっ……!」

「どうしたっ」

 韶華が振り向く。しかしその面貌(かお)を見たくないと静影が考えたことを、誰も責められはしないだろう。

 無言の静影の顔色に記された字を韶華は読む。だが、笑いを止めることはできなかった。

「ふふふ許すわそれくらい許しますふふふだってこれはふふふわたし買ってくるうふそれも買うのね!」

「待て、違う……!」

 静影の持っていた書籍を奪い、韶華は座る老板へと駆け寄った。

 書籍巻軸の別を問わず、ふたつで一共(まとめて)一銭。

 それが筐に貼られた估買(ねだん)であり、今の韶華になら言い値で買えるものとなるが、秘籍を探し出し、舞い上がっていることを感じさせないためにも、交渉は必須である。

  だが老板は、韶華の気勢を怪しみはしたものの、静影の顔を一瞥すると、当初の値で売り払った。

「やっぱりね、ありがとうありがとう! あなたがいてくれたからふふふうふ……ああこれ、どうぞ」

「これは要らな……」

「いいからいいから! わたしもう饅頭屋に急ぐから! じゃあね!」

 先ほど奪い取った書籍を再び静影の手に押し戻し、韶華は晨風(はやぶさ)のように走り去ってゆく。妖しい笑みは、そのままだった。

 残された静影は、昏い紫石を手許の『艶熟女喰記』著、陰羽(インウ)という官能小説に向け、表紙に絵のないことを感謝すると、黙って口袋(ポケット)に捻じ込んだ。



***


 それはおそらく季節の終わりの雨だった。

 ぱしゃりと水溜まりを踏む沓音(あしおと)は、汚れを気にして大息(ためいき)とともに去り、手車の軋みが荷の重さを知らせる。

 澄み広がる青天の下、ひとびとは雨に弱った家を直し始めた。

 かんかんかん、と木鎚で杭を打つ音が路に響く。

 大厦(やしき)に住むひとびとも雨天の禍からは逃れられず、院子(にわ)を清め、石榻(ベンチ)に散った葉を取り除いている。

 ()家の女主は、そういった大厦の守りを頼まれ、長女を連れて出かけて行った。

「かなり傷んだなあ……」

 もうひとりの杜家の主である父親は、季児(末っ子)のお守りのかたわら、雨漏りで濡れた書籍を文房(しょさい)から運び出していた。

 雨を敵に回せば、芸草(虫よけ)があろうとなかろうと傷んでしまう。奇書はあっても稀書はないので読めさえすれば良いのだが、書痴というものの質として、曝書(日干し)に励むことにしたのだ。

「韶華、運ぶのを……おや?」

 さらりと長い髪を揺らし、父親は首を傾げた。家の内に、眠る瑠璃(ルリ)以外のひとの息がない。

「韶華?」

 そっと声を潜めて呼んでみるが、やはり――(いら)えはない。

 瑠璃が眠るまで西方見聞録を読んでいたのは父親も覚えている。いないのなら、いつもの作房(こうぼう)に行ったのだろうと考えるしかない。

  だが、韶華が何も言わずに出かけるとは――

「わりとあるね、そういえば。うむ、ひとのことは言えないが、なにをしているのか気がかりだよ、お父さんは……ああ、でも」

 ここのところ思い詰めた目をしていた二女は、朝の陽光を見て、ふっと顔をほころばせた。まるでもう悩むことはないと言わんばかりに。

 ならば、良いのだろう。

 父親は再び書籍を運び出すことに集中した。

 眠る幼子の寝室をのぞけば、二女の去路(行く手)は分かったはず。西方見聞録に並べて、禁苑の字が描かれた図片が放置されていたのである。



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