古書神来之三
曝書の季節でもあるこのころは、古書市は都のあちこちで行われた。
もっとも今年は雨天続きで、そうもいかなかった。攤子であれば、取消にせざるを得ないのである。
好容気の青天に恵まれ、久久に開かれた古書市は、なかなかに盛行。韶華の思うより多くのひとであふれていた。
「うーん、あんまり変わり映えしないなあ……」
「まあ、そう言わずに見てってよ」
面熟の書肆の老板と話しながら、見て回る。それはいつものように、そして楽しみにしていたことであるのに、慢慢に韶華はぼんやりとひとの流れに乗って歩くだけになった。
「おおい、小妹! うちはここだよ、見てくれないのかい」
「あ……少し待っててね」
呼びかけられても、止まる気にはなれない。ただ鈍い矩歩が影を踏むのを見つめる。
理由は分かっている。掘りだしものが見つからない――のではなくて、韶華の考えが正色に向かないからだ。
(地道な風格って、わたしには難しいわ……うう、でも天妃園か……)
頭を離れないのは、弄月の示した薬草園だ。植物採取は止めようと決めたはずなのだが、あれがあればあれを使ってああしてああするとああなるかも、といらぬことを考えてしまう。
(だって、お姉ちゃんの努力に応えるには、わたしには、それしか)
ひとを避けて旁に入り、韶華の進みはさらに遅くなった。
考試に受かり、妃となる。
言ってしまえば易しいけれど、それを成すために努力することが、どれほど朱蕣に重くのしかかっているのか、韶華は考えもしなかった。
面試に受かる香という、残さなくてはいけない果を前にして、韶華は初めて課されることの恐ろしさに気づいたのだ。
「それをまさか、略奪でなんとかするってわけにはいかないよねー……」
「なにを言っている、おまえは」
「どうしていつも、わたしの行き先にいるの!」
「いつもと言われてもな」
日の光を受けて眩しそうな紫石が困ったように瞬いた。
静影としては、籬に当たりそうになった少女を引き留め、怒られるとは思わなかったようである。
韶華も叫んだ気まずさから立ち直ると、背の高い影が正派な革鎧を着ていることに気づいた。張望の正中ということだろう。
「ごめんなさい……久しぶりの古書市で掏摸も稼ぎ時だし、警戒くらいするよね」
「いや、帰り道だから」
「紛らわしいッ」
とはいえ韶華は改めて静影に謝った。混雑する市を、心ここにあらずといった体で歩くものではない。
「謝らんでもいい。庶人が泰平に暮らせるようにするのは、俺の勤めだ。だいたい良夜にうろつき、重明に蹴りを入れ、花を採るために河に突込むような女……ではなくて小妹が灰心いると、気になるだろう。それに略奪って……銭を落したとか、それでなにかが買えなかったということだよな?」
「ひとのことを女児と言いそうになったことは、見逃しましょう。傍晩を良夜というのも張大ですし、お使いを言いつけられた小児であるかのような扱いも気になりますがっ。書籍が安くないのは確かだけど」
小さな猫鼬と眼鏡蛇が戦うかの如きふたりの対峙は、すぐに終わった。
「一銭くらいなら、買えないこともない」
「えっ?」
「大兄、大兄。そういう時は腕組みして上から言うんじゃなくて、小妹をだね、さりげなーく市に導いてから黙って買ってやるんだよ!」
籬の向こうで、園丁がにやにやしながらふたりをはやし立てた。
「それにさあ、いきなり銭の話ってもの艶がないね。小妹にすれば、甲家を誇ってるようにしか見えないぜ! いいとこ見せたいなら、今ここでちょっと稼いでさ、さっと銭の包みを差し出してやんな!」
言って姿を消したかと思うと、土嚢が籬を越えて放り投げられてきた。しっかりと受け取った静影を見て、再び顔を出した園丁が喜色をたたえて笑う。
「さすが武人だよ、大兄。ところでよ、雨が続いて院子の土が流されるんで、それを積まにゃならんのよ。だが最近の若いもんは腰が入らねえ。今天ももう身体が痛いって帰っちまった。だから吾を助けてくれないか?」
「助けろって、それが言いたかっただけだろう!」
静影は苦い顔を見せながらも、土嚢の重さを感じさせない動きで、笑う園丁の開ける戸の内に入った。頼られたら断る男ではないのだろう。
「叔叔、それならわたしもやる!」
「いやいや小妹には」
「するよ。だって、ひとを働かせて零銭だけもらうなんて、できないもの。大兄の両半でも構わないから……払ってくれるよね?」
韶華の氷雪を押し当てるような微笑みから、園丁は目を逸した。さりげなく静影にただ働きさせるつもりだったらしい。
「分かった、払う! 大兄二、小妹一で」
「すごい、一両も!」
「払えるかッ! ここは宮城かい! 師傅の館第でもねえわ!」
「それで、どこに積めば良いんだ」
静影の問いに誘う対手を間違ったと嘆く園丁は、言を返す代わりに、ひとつ置いて見せた。
籬の下部を全て土嚢で塞ぐようだが、古書市の広場に接した面はほとんど終わっておらず、助けを求めたくなるのも、分からないでもない。
「じゃ、頼むぜ!」
韶華と静影は園丁に倣い、黙々と土嚢を積み始めた。
持つ運ぶ積む、というほぼ同じ動きの繰り返しは、不料にも迷いというものを排し、韶華の思考を澄んだものにした。
もっとも、動きの速さについては徐々に遅くなるだけで、静影が二運ぶ間に一、三運ぶ間に一となり、やがて四続けて並べ終えた静影は、韶華の抱えたものを横から取り上げた。
「もう俺が置くから、押して形を整えろ」
「うん……ごめん。つい見ちゃって。だって良い院子で……あ、桂花。類品が揃ってるなあ。蘭も植えてあるんだね。蘭はなあ……あれ? ここって香りのあるものばかり?」
「小妹、詳しいな」
「とりあえずね、如意方と神農本草経くらいは押さえたかな」
「ははあ、赭鞭家ってことかい。じゃあ博物誌より、薬物誌が好みか」
「読んだけど、そこまで本草学を修めたいわけでもなくて……」
「香りものを求めてるってことかい」
「そうそう! 百花仙子録か、幻といわれる芳香要術が読みたかったなあ」
「仙子録なら読んだよ。吾には難しくて一巻で諦めたがな。しかし芳香要術か……ありゃあ零本だから、読もうと思っても読めんわな」
韶華と園丁のはずむ会話の旁で、静影はひとり黙って土嚢を運び続けた。彼らの言っていることがなにひとつ分からないから、やむを得ない。また、遮るのも徳に欠ける気がして、こうなると疎外感を疎外感と思わないためには、ひたすら動くしかなかったのである。
残数のほとんどを独力で為し、静影はゆらりとふたりのそばに立った。
「……終わったぞ」




