古書神来之二
香青路の白屋の内で、朱蕣は韶華を探していた。
隠れるところもない狭い家だが、呼んでも妹が現れないので探すしかない。父親が籠っている文房にいないと分かっているので、季児の寝ている居室をそっとのぞき込んだ。
「あ、蕣姉。なあに?」
「やだ、瑠璃ったら、起きてたの」
うんと頷き、幼い少女は寝ころがったまま図片を掲げた。
不行儀よと窘めても、朱蕣は微笑みを浮かべる。新しい臥遊図が増えて、機嫌が良いだけかもしれないが、最近の瑠璃の面色はとても良い。それが嬉しいのだ。
「本当は寝ていて欲しいけど……韶華に読んでもらったら? でもどこに行ったのかしら……」
「韶姉は、いつもの作坊だよ。行く時、これを置いてってくれたの。これねえ、花の絵と名がいっぱいかいてあるんだよ。盗まれ……じゃなくって、お父さんが捨てちゃったのを、書き直してくれて」
「どういうこと……」
盗むという洩れた言が気になり、朱蕣は小さな妹を見つめた。
そして姉の目を見ていたはずの幼子は、ぱっと顔を伏せた。これは明らかに言ってはいけないことを言ったという動きである。
問い詰めようとしたが、朱蕣は大息で終わりにした。父親も係わっているようであるし、韶華がいないのなら、ひとりで謝りに行かねばならない。
「わたしは少し出かけるけれど……お父さまとみんなの帰りを待っていてね」
「うん! 蕣姉はどこ行くの? 楽しいところ? すぐ帰ってくる?」
「いやね、報春路までよ。そんなに時はかけないわ」
幼い妹に言い当てられた気がして、朱蕣はどきりとした。心目のどこかで、ひとりで行けると喜んでいたのだ。
どうして、とは問わない。弄月にまた会ってみたいと思ったことに、気づかない振りはできなかった。
幽明往来自在の韶華と異なり、朱蕣は正しい路を通って絳雪酒楼へ向かった。
だからふたりはほぼ同じ時に香青路を出たにも拘らず、すれ違いになった。朱蕣は塀を行く韶華を見送った弄月が剛剛、樓梯を下りて一階に来たところに着いた。
ほとんどの客の目が佳人に向いたせいで、弄月が朱蕣に気づくのは難しくなかった。席に着かず、葫芦瓶だけ持って外に出たのは、閨女に対する礼儀である。
「やあ……令妹はもう行ってしまったよ。古書市がどうのと言っていたが」
「妹を探していたのではないんです。大人に謝らねばと思って来ました」
「謝る? 礼ではなくて?」
「礼とも言えますわね……また、会ったから」
言ってしまってから朱蕣は少し考え込んだ。
一、ここで目を伏せ、口許を覆う。二、すかさずさっと顔を斜めに動かし、僅かな頬の赤みを見せつける。三、対手の呼気の動静を確かめ、止まったところで、はい要求。けれどまだ目を上げてはいけません――とは、妓楼の女たちが教える媚態作法だが、朱蕣は使うかどうかを迷っていた。
果然として動きが止まったのは片刻となった。朱蕣はすぐに顔を上げ、弄月を見た。それでも顔色を見るまではいかず、領子で目は止まる。しかしそれで良かったのである。
「その領巾……もしかして手巾?」
弄月が首に巻いているそれには、見覚えがあった。朱蕣が韶華に持たせたものに似ているのだ。衣も袍も帛を着ていて、領巾だけ棉なので浮いていること莫大である。酒楼に返す毛巾と見比べ、やはり間違いないと頷く。
「それだけ棉だし、杜鵑の刺繍があるもの、うちの手巾だわ。韶華ったら、ここで落としたのね」
「そうそう、また会うだろうから、返そうと思って持っていたんだ。これだけ刺繍の巧妙な手巾なら、忘れないだろうと。忘れてたみたいだけどね……まあ、言わなかったのは、私もそうか」
「ごめんなさい。韶華……妹は必ず思い出せると考えてるから、いろいろな事をあとにするのよ。今はわたしのために忙しくて……」
「あの子の名か、韶華とは。よく合っている。青冥に響く楽の音のように、風韻な子だ」
朱蕣は花がほころぶような笑みを浮かべた。韶華の優しさ、強さをここまで風雅に表した者はいない。そうして妹を誇りに思う姉の微笑みが、弄月の心目を打ったことには気づかなかった。
「この刺繍は、きみが? これだけの技があれば、紅娘はさぞかし張り切るだろうに。どうして考試を受ける必要がある。それでいいのか。皇帝の後妃になるというのは、愛してもいない男に嫁ぐことになるのだぞ」
花の笑みは退き、朱蕣の気色から軽やかさが消える。
「わたしには、成さなければならないことがあります。そのためには力が欲しい。ただ微笑み、美しいものに囲まれ、優しい夫君と愛児とともに生きることはできません」
「恐ろしいことを言う。己の権勢を世に知らしめたいのか。それとも一族の出世でも望むか」
弄月の定罪するかのような言に、朱蕣は鮮やかな笑みを返した。
命の短さを表す朱の花は、その名の通り、花開き、すぐに散り、そしてまた次を咲かせる強さを持っていた。
「わたしの欲しいものはないのです。否、家族を守れるものだけが欲しいと言えるでしょう。きっと……訊けば韶華も同じことを言うわね。でもそれは、わたしがすること。妹はわたしと違って、もっと広い世で、好きなように生きることができるはず。諦めさせてはいけないのよ」
「ではきみは、なにを諦めているのか」
「まさか、諦めてなんて……いえ、そうかもしれないわね」
弄月から手巾を受け取り、朱蕣は移り香に一瞬、目眩いを起こしそうになった。
「もしわたしが自身にそれを許すなら……できるならば……わたしは貴男のようなひとと恋をして、他日……利落としたひとのところに嫁ぎ、幸せになってみたかった。誰も振り返らない、羨みもしない、幸せと呼ぶにはささやかすぎるもので構わないから」
「ええと……私とは恋だけ?」
「だって貴男、利落としてるの」
「してないね。ごめん」
朱蕣にびしりと言われ、弄月は項垂れた。
「わたしは決めたのよ。そういった小さな幸せを自身に許さないと。だから后妃の位を求めるの……まあ、それに類するものなら、なんでも構わないのだけど。妹と考えたのは例えば……」
一、後宮の女主。一、黒道の女帝。一、天地の覇王。
指を折り、挙げる例えが怪しい方角に向かっていた。全て妹、韶華の案なのではないかと弄月は思った。答えは彼の知るところではないが、覇王を除けば当たっている。覇王は妹、瑠璃の言である。多半、意思は分かっていない。
「相手と好合となれるかどうかは、あとで考えるわ。知らない男に嫁ぐのは珍しい
ことではないし、わたしほどの魔力があれば、著迷にさせるのも難しくないでしょう。そういうふうに努めてきたのだし」
「それには同意しよう」
「とにかく、妹のためにいろいろとしてくれて、ありがとう。それから無状も謝ります。ずっとここにいるようだけど、飲みすぎは不成よ。もし良ければ、妹の作った健胃薬を持ってくるけれど……」
「才能にあふれた子なんだねえ。効くのかい?」
「ええ。房束の息子さんは絶不、お酒を飲まなくなったんですって」
「毒でも盛られた?」
朱蕣は坏心なく首を傾げてみせた。
酒楼の客引きが怯えているのと、弄月が背粱を震わせているので、脅しは充分に
効いたようだった。




