古書神来之一
静影に地道にやれと言われたことは、韶華の心目によく響いた。だから持っている香料だけで試作を始めることにした。
期日まで余裕ができたので焦りは消えたが、作ってみると、また別の焦りが出てくる。
豊かな財貨に支えられ、育った者と己の違いを知ることになったのだ。
韶華の頭の中には、書籍で読んだ全ての香りの配方が入っている。けれど香りそのものは、嗅いでみなければ分からない。字で覚えた香りは、まさに描かれたものでしかない。
とにかくやってみなければ、と配方通りに作ってはみたが、大概、処方は佳品と記されているので、でき上がってみて初めて、韶華の主見において評判を下すことになる。
だが韶華には、この主見にどれほどの値がつくのかが全く分からない。幼いころから真正に触れた者ならば、分かるのかもしれないと思うと、郁郁葱葱としてくるのだった。
「さすが張家の大娘ですよ。子どもに使わせるものが真正って……怖いわあ」
指で几案を軽く叩き、黒沈香の小壺を匳にしまった。玩具にも拘らず、まさかの真正品である。
こうした真の香に囲まれて生き、真の香木を使って香を作る者たちに、韶華が勝てるとは思えなかった。
「なにか秘方があればなあ……って、地道にやると決めたではないですかっ」
韶華は牀子を引いて、窓の外を見た。
緑は美しく、漫歩には良い時だ。考えが浮かばないのならば、外に出よう。そして新しいなにかを探してみよう。なにかが秘方を載せた書籍を指しているような気もするが、それは悪く考えすぎだ。
そうだ、古書市に行こう。
待て、と止める者はいなかった。
決めてしまえば、もう借口は必要ない。韶華は閉じた作房から開けた天の下へと飛び出して行った。
***
日に日に木々が緑を乗せて、鮮やかな季節へ移り変わろうとしている。
雨模様の時は過ぎ、美しい青天が古書市に向かう韶華の矩歩を軽くしていた。
韶華の作房は家と同じ香青路にあるが、裏から出て猫か狗くらいしか通らない細い路を使うと、すぐに大路へと入れる。
この路によって、少女の姿は気づけば消え、思わぬ場に現れる。韶華は附近の子どもたちから幽明を行き交うひとと思われていた。
韶華はいつものように小路に入り、大きな妓楼の天井を通り抜けて表の路に出ようとした。
「おやおや、きみは猫だったのかい? 塀の上を歩くとは」
見上げると二階の涼台から手を振る弄月がいた。
このところやたらに彼を見る気がする。が、それも運なのかもしれない。
「良いのか悪いのか、分からないけど……絳雪酒楼に泊まってたんだ?」
「ここしばらくはね。鳴風楼にいたけど、追い払われてしまってね」
「なにしたんですか……渾厚で知られる老板なのに」
「どこに行くのかな? また花を採りに?」
あいかわらずひとの話を聞かない弄月である。こういうところが、追い払われる理由になっているのだろう。
韶華は少しだけ静影の後援をしてみることにした。弄月を困らせてやりたくなっただけともいうが、たまには懲りたらいいのである。
「大人のこと、探してるひとに会ったよ。見つかったら、怒られるんじゃない?」
「おや、黒風に会ったのかい。珍しいね、あいつが女の子と喋るなんて」
「あれ?」
弄月を捜しているのは、静影ではないのか。ただ黒風と言われ、すぐに藍雪路で見た影が思い出された。
そういえば初めて静影と会ったのも、あの路である。もしかしたら、彼が探しているのは黒風なのかもしれない。しかし弄月と黒風には係わりがあるようだ。静影とも没関係とは思えなかった。
「なんか違う……みたいなんで、気にしないで。わたしが会ったのは、徐静影っていう金石人がですね、この界隈にいるであろう大戸を探し……」
弄月が固まったのを見て、韶華は口を閉じた。やはり、である。
「いつから?」
「え?」
「いつからあれが探してるって? もしかして、きみ、もう私のことを言った?」
否と答えたあと、呆然とする弄月が聞いていないように見えて、分かりやすいように急いで首を横に振る。それでも男の顔色から焦りは消えず、ごとりとなにかを落とし立ち上がると、韶華に向かって身を乗り出した。
「どこで会ったんだい? また会うのかい? もし会っても、黙っていてくれないか」
「まあ、あまり会いたくないんで、言わないと思うけど……わたしが黙ってても、見つけられてしまうでしょう?」
弄月がいかに奇人であっても、そして探そうと思うのが静影ひとりだけだとしても、真に探す者がひとりとは考えにくい。少なくとも、探してると言われて弄月は黒風という者を思い浮かべたのだ。
韶華の疑問に対して弄月は、
「いいんだ。見つけられても、あれに見つからなければいいんだ」
と言って、落としたものを拾い上げた。
「黙っていてくれたら、いいことを教えるよ。きみが花を探しているというから、私も久久に思い出したことがあるんだ。ほら、これが甘棠の苑園の臥遊図」
「そんなものが! っていうか、それ……図片じゃないよね」
弄月が見せたのは銀色の丸い容物である。亀の卵くらいの大きさで、上下に開けられるらしく、中間に留金があった。吊すためか腕に通すためか、細い鎖も付いている。
持ち歩くための香入れなのかもしれない。二階からでも、芳しい香りが漂ってくるのが分かる。
弄月は韶華を手招くと、涼台から再び身を乗り出した。銀球を渡すつもりであるらしい。
応じて韶華も手を伸ばし、銀球を受け取った。銀製であるにも拘らず、送料より軽い。表面に緻密な彫り込みがあり、これが弄月の言う臥遊図のようだ。
「開けてごらん」
「でも開けたらこぼれ……うわあ」
香入れではなく、小さな香炉だった。掛け金を外したところで、粉末がこぼれるおそれはない。炉は十字に重ねたふたつの環の内で支えられ、球をどのように動かしても上を向くようになっている。
「はあー……こんなの見たことない。令令も香が好きっていうだけあって、すごいねえ。香炉を持ち歩くんだ。袖が燃えたり、火傷したりしない?」
「そこまで頑固に使いながら歩いたりしないよ。うん、でもやっぱり令令と呼ばれるといいなあ」
「あー、花図だけなの? 字は彫ってないんだ」
「あっても細かくて読めないよ。甘河は分かるね、右上が四棠苑、その下が俗称、烏鬼の庭。左には」
「西苑。宮城のあたりにあるのは、後宮の苑かな。やっぱりここは花が多いみたいだね。いろいろ咲いてるんだ……」
いっそ朱蕣に考試の正中、後宮に忍び込んでもらって――と非心な考えが浮かぶが、慌てて振り払う。韶華自身が入るならともかく、姉にそんなことはさせられない。
「きみも不成だよ。いいから上を見なさい。山の線があるけれど、それが北斗丘。ここには天妃園という、誰でも入れる薬草園があるんだよ」
韶華の非心に晶瑩が加わる。不妙と感じた弄月は、もう終わりといわんばかりに手を向けた。
「さあ、もういいだろう。いろいろな花咲く苑が甘棠にあると分かっただろう」
「分かりました、全く甘棠は華英なりし都ですねえ。ありがとうございまっす」
塀の上からでも少女の背では返す手が届かず、弄月は下りて行くと言った。
急ぎたい韶華はそれを断り、帯に差した小筒の鉤先に鎖を引っかけ、弄月に香球を返した。
「笛か筆を持ち歩いているのかい?」
「いつもではないけど、筆と、笛でないものを持ち歩いてますよ?」
韶華の言に含むものを感じて、弄月は敢えて問い返さなかった。
「令令のことは黙ってるよ。でも早めに帰ったらいいよ。怒られるのが短くて済むでしょう。あのひと、怒り出したら全て言い切るまで怒るじゃない。そのせいで、膠のように固いって言われて悩んでるらしいし。あんまり心事で煩わせないようにね」
「おお……詳しいねえ」
「いや! そんなには! さ、古書市はまだやってるかなー」
韶華は塀の上という路なき路を行き慣れた矩歩で進んだ。




