探水中花之二
天黒が近づき、楼閣の燈火がひとつ、ふたつと点き始めていた。
まだ影も延びていない刻であれば、灯りなど気が早いとも思えるのだが、長雨に腐された客を呼び戻すために、敢えて点けている。
火に群がる蛾のように、まんまと誘われた客たちの間を、韶華は急ぎもせずに歩いていた。
濡れた脚や鞋から水が浸み出し、不快でたまらない。すれ違うごとに、ぎょっとするひとも気に入らない。
もっとも後ろを振り返っていれば、韶華を避けて行くひとの情由は分かったはずだ。歩いた跡に、河から若い男を引き込もうとする妖女の如く、長い水染みが続いていたのである。
報春路に入った時には影が長くなり、水染みは隠された。あとはただ、項垂れた少女が歩いているだけだった。
「来来来、熱烈歓迎……」
美麗な楼閣から佳肴の匂いがあふれ出す。竹皮の香りは飯筒だろうか。烙餠の香ばしさは食気をそそる。まだ調味品が揃っているとはいえなさそうだが、絳雪酒楼はそれなりにやっているらしい。
(あの弄月というひと、まだ居るかな……ああ、そうか)
前に言いかけて忘れてしまったことを、ようやく思い出した。
最近、西街に入り浸るようになった新手の大戸。
静影が探している男とは、弄月のことではないのか。見れば確かに、ああ……と頷ける。とは言いがたいが、説明しにくいのはよく分かる。
「これは……小報告をすべき?」
「それは止めて欲しいなあ。なんのことか分からないけど、通風は不行だよ、黒だよ」
韶華は嗚呼と嘆息して振り返る。
笑う弄月が杯を掲げ、そこにいた。わざわざ外に出てきたようだ。
「ほら、すぐ会ったね?」
「居着いてるんだね……」
「いやいや、きみの言は正しかったよ。ほかの酒楼も行ってみたけれど、西街之最は絳雪酒楼だね。でも藍雪路に行けていないのは、寂しいことだよ」
すでに酔いが回っているのかもしれないが、弄月はやけに浮かれていた。訝しむ韶華に、ふわりと手を差し出した。
「これをあげよう、零花銭」
「いきなりもらう事由がないんですけども……」
「きみにはなくても、私にはあるんだよ。いつも煩苛のが拗ねていてね、しばらく好きにできそうだから……よく見たら、ずぶ濡れじゃないか。泳いだのかい?」
「泳いだわけじゃないんだけど、甘河に嵌まっちゃったから」
どうして、と黙して問う弄月を前にして、韶華は答えを迷った。香草の採取を隠すつもりはないが、男には、対手が必ず問いに応じるものだと信じているところがあった。
「持っているのは花? 誰かにあげるのかな?」
韶華は大息を吐き、弄月に水中花を見せた。呆れるほどひとの遅疑に拘らない男である。
「知らない花だな……これも濡れているね」
「まあね、水中に咲く花だからね。これを採りに河に行ったの。珍しい花が欲しくて……香料になるかなーと思って」
「それも考試のためかい?」
「そう。珍しい花の香油を使えば、珍しい香ができると考えたわけ。それなりに材を集めたつもりだけど、なんか神知こなくて……もうすぐ香を納めなくちゃいけないのに」
事が滞っている理由は、韶華にも分かりかけていた。配方さえ学べば、香が作れると考えるのは間違っている。さらに、方法として書籍に載っていないことばかりやろうとするのは、胡説すぎるのだ。考えは改めるべきである。地道にやれと言われたばかりであるし。
「香を納めるのは、すぐにってわけじゃないだろう。ゆっくり考えればいいさ」
「ん? そうだっけ?」
「あれは第一の考試ではなくて面試のはずだ。その時に出せばいいのだから、かなり間があることにならないか?」
「その時にはお姉ちゃん、宮城にいるんだけど……」
考試を受ける者だけが宮城に入るはずである。だから、韶華があとで届けたいと言ってもできないと考えていた。そうでないならば、確かにまだ考える時がある。
「待って。面試って、候補の数を減らしてからだよね。するとあの五百とか六百とかいう女のひとが、みんな香を納めるわけじゃないってこと?」
「当然だろう。考えてみるといい。いきなり五百、六百と香を納められて、使うのかい? 香料は高いだけでなく稀少なものだよ、浪費していいものじゃない」
「だったら手冊に必須みたいに書かないでよー!」
叫びつつも、団積は変わらなかっただろうと韶華は思う。女たちは面試の候補に残った時のことを考え、香料を買い集めたはずだからだ。
「皇帝が香りを好むからって、騙された!」
「そこまで言わなくても……主文たちが気を回して書いたんだろうしねえ。ほら、香料があんまり高いものだから、申請したけれど使いがきた時、断ったひともかなりいたようだよ」
庶人から選ばれるという望みを与え、やっぱり財貨が条件です。という干法は、ひどいような気もするが不料ではない。杜家のような貧しい者たちに、後宮で生きることは望まれていないのだ。
「令令、詳しいね。でもさ、宮城の偉いひとたちにだって、考えはあるだろうけど……お姉ちゃんが諦めないなら、わたしはやるよ。すっごい佳品の香を作って、驚かせてみせる」
韶華はそう言うと、ぐっと白い小花を握りしめた。とりあえずこれは、皇帝が魚ではないので没案である。
「皇上の好みは知らないけど、お姉ちゃんの才貌に敵う候補はいないだろうし、香が佳ければ行……と思う。なにか香の秘方でも見つかればな」
「そんなに美人なら、嘉慶の十や二十、あるんじゃないのかい。後宮に入るのが良いこととは限らないよ。あれは魑魅の多いところだ……令姉もきみも、気にしないのかな」
「人家のことだというのに、令令は好いひとだね。後宮という場について考えないことはないよ。でも表白に聞こえるだろうけど、妃ひとりだけっていうから、わたしは止めないでいるの。そして姉は……」
韶華の知らないところで、とうに心境を決めている。
「妹妹? どうしたの」
「お姉ちゃん」
韶華と弄月が同時に振り向いた先に朱蕣はいた。傍晩の薄い闇が、朱蕣の苗條な立ち姿を絵のように見せている。眉をひそめているのは、妹が不審な男といる上に、足許に水溜りがあるからだろう。
弄月がおお、と小さく感嘆する。姉が褒められるのを見るのは好きだが、韶華はまず、謝らねばならなかった。
「ごめんなさい、遅くなったみたいで……」
「なぜ濡れているのかしら?」
「河に嵌まりました。あっ、あっ、落ちたとか溺れたとかじゃないから!」
こんなふうにと身体を傾け、転んだ形をつくろうとしたが、朱蕣の怒りは変わらなかった。
「河ですって? なにをしていたのかしら、著涼は困るのよ? ふたりも熱を出されては」
「ふたりとは?」
弄月の目には、韶華が姉に叱られている図が映っていないらしい。徹底して主観に生きる男である。
唖然とする朱蕣に代わり、韶華が答えた。
「ええと……妹がいるの。六才なんだけど、身体が弱くて」
「妹か! いいなあ、女の子か。可愛いだろうなあ……三姐妹になるのかな。私もひとりくらい児女が欲しかったよ、羨ましい。家にいるのは息子でね、塊頭ばっかり大きくなってさ……」
弄月は嘆息に続き、遠い目した。よほど女の子が欲しかったらしい。それなりの地位にある家の者にしては、珍しいことである。
棠梨の国では女が家を継ぐのも認められているので、男の子どもが望まれるばかりではないが、大家であればあるほど、息子を欲しがるものなのだ。
珍しいといえば、朱蕣が女の子いいな可愛いよねと騒ぐ弄月に対して、くすりと笑ったことである。
季児を溺愛する父親を思い出したのか、気派な大人が子どものようにはしゃぐのが好笑かったのか、いずれにしても韶華は驚きを隠せなかった。
「さあ、とにかく帰りましょう」
朱蕣が促すのにも、すぐには応じられない韶華に、弄月が毛巾を投げてきた。
「これを貸そう。まあ、私のじゃなくて酒楼のだけどね」
「ありがと……って、返さないといけないわけね」
「韶……妹妹! ありがとうございます。礼は改めてまた……」
「また会えるなら、それが礼だ。朱蕣小姐」
目を見開く朱蕣へ、弄月が呵呵大笑する。その開いた口に韶華は水中花をひとつ投げ入れた。
「忘れてないじゃないっ、嘘つき!」
怒る韶華と笑い出す朱蕣に驚き、客引きも外に出てくる。そしてよく分からないまま討好のための笑みを浮かべ、去って行く少女たちに手を振った。
弄月もまた朗らかに笑い、韶華と朱蕣を見送った。
「花をありがとう。旨かったよ」
どうやら吐き出すことなく味わっていたらしい。魚の化身なのかもしれない。
だからではないが、韶華は弄月をもうしばらく抛っておくことにした。
たまには魚も濁った水に浸かりたいものだ。
静影の探す男が弄月であるとは限らないけれど。




