使者来訪
新緑から滴る雫が雨の終わりを告げている。
香草の採取延期は、韶華が決めたこととはいえ、少しばかり焦っていた。
狙う植物は、甘河の岸に生えているので、かなり広い範囲で採ることができる。ただ、花期はそう長くない。
じきに使者が来て、長姉は考試を受けに宮城へ行くだろう。その時には、納める香を作り上げておかねばならない。早くしないと間に合わないのである。
明天が晴れなら、行こう。
そう考えた韶華の腕に、ぽんと触れるものがあった。
「韶姉、これ読んで?」
「いいけど、ちゃんと寝台に横になったらね。熱が下がらないよ」
うんと頷く妹の手から冊子を受け取り、韶華は上掛けを軽く叩いた。
長い雨が悪かったのか、瑠璃はよく寝込むようになっていた。食気もなく、熱もなかなか下がらない。眠りの浅さはとくに気になった。
夜、傍らで話しをする父親が眠ってしまうと、ぺちぺちと叩いて起こすのだという。本来であれば、聞いているうちに瑠璃は眠るのだが、そうならない。父親が疲れているせいではと韶華が言うと、頑固に違うと断じて譲らなかった。
「いつも瑠璃を見てるから、そう思うんだろうけど……でもなんでか忙しそうだよね……不妙なの」
一家の主に言うべきことではないが、構わず韶華は冊子を開いた。
「西方見聞録? なんていうか、偽書くさいんだけど……どこで手に入れたの」
「お父さんの文房にあった」
「ふうん……お父さん、どこに行ったんだろうね」
打手に晴れも雨もないので母親が出かけているのは当然としても、最近は、常に
瑠璃を気遣い、そばにいる父親までふらりといなくなるので、出かける計画の立たないこと、この上ない。
それでも妹が喜ぶのを見るのは好きなので、怪しげな偽書を読んでいると、朱蕣が小椀を持ってきた。
「韶華、これを瑠璃に。蜜生姜よ。苹果で香りをつけてみたわ」
「好好! 苹果、大好き!」
妹の喜びに反して、長姉はなんとも言えない顔色になった。香りとしか言えないくらい、僅かな量しか入っていないのだろう。
「果子で香を作ってみようかな……あ、でも桔子しかないな」
「瑠璃、桔子も好き」
「ねえ、誰か来たみたい……?」
朱蕣が胸を押さえ、ささやいた。音を聞きつけたものの、気のせいかもしれないと疑っていた。
残る姉妹も動きを止める。もしも『あれ』なら了了来た、のである。
「えーこちらは、杜家でありましょうか?」
聞き覚えのある声が門口から響いた。
疾風の速さで二姐妹が駆けつけると、ひとりの男が恭しく函を掲げた使丁を引き連れ、立っていた。
久達に見たせいか、涙で汚れた呪面しか覚えていなかったせいか、使いが香試の王重明であることを思い出すには時が必要であった。
「令叔、お待ちしておりましたわ」
「誰かと思ったら、王先生ではないですか! 歓! 迎! 光! 臨ッ!」
「なぜ名を知って……はッ、おまえか! ここはおまえの家だったのか!」
「家母のですけど」
「そういうことは、言ってないッ! とにかく杜朱蕣、令姉にこれを以って五百六十七女の序次を授けるッ」
すごい数と言うべきか、そんなものかと言うべきか。悩む韶華の隣で、朱蕣は函から取り出された契符と包みを受け取った。
「なに、これ?」
「手冊を読んでな……否、小児には係わりのないことだったなッ! しばし黙っておれ! では……」
韶華をしっしっと手で払い、重明は朱蕣に拱手をした。
「しかるに令姉は、その中にある帛を飾り、期日にそれを持ち宮城に来なければならぬ。尚、装飾に使うことができるのは、包まれているものだけ。譲るのも譲られるのも、新品を買い直すのもまかりならん。知道了?」
「分かりました。宮城に上がる日までに、ということですわね。では、包みの内容を検品して頂けますでしょうか。ひとつの間違いがあっても困ります」
「えっ……ああ、あい分かった。では開け……開け……」
それまで会った候補のうち、内容を確かめろと言った者はいなかったのだろう。重明の結び紐をほどく手つきは、もたもたとしてひどく頼りない。
待つのにに飽きて朱蕣の顔を見た使丁は、その酷薄な目光に激しく冷戦をした。
「あのさ……言っても良いかな、王先生」
「なんだッ!」
「貴下の腰に佩いていらっしゃる抉りは、なにに使うものでしょうか? 結び目をほどく刀ではないのでしょうか? それとも飾り? ああ、飾りかなあ? だってほら、頭がついてたって使ってさそうだしぃ」
怒りにかられ、韶華へ反論しようと顔を上げた重明だが、冷笑を浮かべた佳人の藐視に震え、ただ抉りを使うにとどめた。
「ええ、まず……これが糸。そしてこちらが帛……」
「小さいね、手帛? それに糸も短そうだよねえ? このひと巻、二丈もないと思うよ」
「そうだな……だが、これで正しいはずだ。料想外にひとが多くなって、細切れにしたと聞いたから」
「まああ、そうだったの! あれっぽっちでなにができるのって思ったけど、諦めるしかないわね!」
いつの間に現れたのか、包みをのぞき込む影が一つ増えていた。
「あら、郁李さん。歓迎光臨?」
「なんだか、来客人了って感じ」
郁李は下巴をつんと上げて、口許を袖で覆った。
「朱蕣さんのところには今、使いが来たのね」
流し目の先には、せっせと包みを戻している重明がいた。ふたりの美女には目もくれないが、女たちもそれ以上香試を見なかった。
「わたくしと貴女は后妃を競う敵手よ、馴れ合うつもりはないの。でも、貴女の助言には感謝しているわ。毎毎わたくしを見ては大息を吐くお父様とお兄様が、清秀だって褒めて下さったのよ」
「やっぱり髪飾り、地味にして良かったね」
睨まれて韶華は口を閉じた。下を向いたまま吹き出した香試こそ、睨まれてしかるべきなのだが。
「とにかく……ありがとうと言いに来たの。それで、小意志だけど!」
郁李は軽く手を振り、控えていた妾侍に匳を渡すよう促した。
「これを貴女に。どうせ買い占めにあって、持ってないんでしょ」
「なんと、極品の薫陸ではないか……! それから蒔蘿子の香油? 栴檀は二種あるようだが……」
香試之最と自尊するだけはあって、重明は洩れた香りだけで嗅ぎ分けた。褒めようとはしたのだが、
「む、幼女の匂い!」
「土に還れ、穢れし者よ!」
韶華が勢い良く重明の鼻先で扉を閉めても、異を唱える者はいなかった。
しかし、専長に偽りはない。門口での騒ぎが気になったらしい瑠璃が、眠そうに目をこすりながらやってきていた。
倒れそうになる瑠璃を抱き締め、朱蕣は声を潜めた。
「起こしたのね。でも眠りなさいね、瑠璃……まだ熱があるわ」
「だって、西方……読んでもらってないもん……」
「お熱があるなら、令姉の言うことを聞いて寝ていなさいな。わたくしはもう帰るから」
「待って……郁李さん、お香をありがとう」
「お礼を言われるほどじゃなくてよ。考試で落ちれば香など無用……買い漁るなんて愚かだわ」
「あら、もう諦めているの?」
「失礼ね、諦めていないわよ。でも真に言えば……后妃の壇に乗れなくても構わないのよね。面試まで行けたらいいわ。そこまで行けば、女としての品位を得ることができるもの。わたくしの考試を受ける理由は、それよ……そういう女性、かなり多いと思うわ」
郁李は首を傾げる朱蕣を、笑いを含んだ目で見つめた。真に狙っている女は少なく、その中で朱蕣は特別であると認めるように。
「えっと、わたしからもありがとうと言わせて。令姉にとって香りは重要でないの
かもしれないけど、土茴香の香油なんてそうそう手に入るものじゃないし、僅かでも分けられるような値でもないんだから」
「止めて。馴れ合いはしないって言ったはずよ。わたくし、借りはつくりたくないのよ」
郁李の頬が仄かに赤くなっているのは、韶華の見間違いではないだろう。
「姐姐……悄乎恋恋ッ?」
「な、なにを言ってるのよ、この妹妹はっ」
「熱があるから……」
朱蕣の表白は要らなかったかもしれない。
幼い少女はすでに睡意に負け、女たちの話など聞いていなかった。




