少女閑話
ここのところ杜家では、みなが揃って忙しそうにしていた。
全てが長姉朱蕣の考試のためなのだが、ゆっくり三姐妹でお喋りなど久しくしていないと、季児の瑠璃は不満だった。
身体も弱く、幼い少女はひとりで外に出かけて遊ぶことが許されていない。だから二姉韶華が臥遊――景勝地の絵を見、その土地に行ったかのように楽しむ――につき合ってくれるか、父親がお話しを聞かせてくれるかで、退屈をしのいでいた。それがない今、つまらないと怒っても当然だろうと思っている。
「お父さんまで……どうして忙しいの」
一家の主としては困るだろうつぶやきを幼子はして、目を瞑った。
息をすると胸が痛むので、寝ていなければならない。とはいえすでに短い眠りを繰り返し、眠くないものはどうしようもない。起きてしまおうか、と思うものの、ぼんやりするだけなのも嫌だった。
父親は文房にいるはずだが、まるで存在を感じられず、雨と白屋に吹き込む風の音だけが聞こえていた。
かさかさ、かさりと紙片がこすれる。風の立てる音だろうか。
瑠璃が臥遊図を散らかしたままだから、もしかしたらどこかへ飛んでいってしまうかもしれない。
そういえば二姉は、しわしわの図をそっと伸ばし、卓子に置いていた。重要なものだったら、なくしたらいけない――と、瑠璃はそっと起き出した。
紗障の下部は板で補修してあり、少女の目の高さでは居室は覗けない。ために、するりと内に入り込んで初めて、それに気づくことになった。
黒い衣の男である。
魁頭で髪を一つに束ね、切れ長の目も苛烈な魄力のある、見知らぬ男だ。
誰と問いかけようとしたが、瑠璃は言うのを止めた。知っているような気がしたのだ。
しかし、いくら考えても思い出せないところからすると、家に居る者は知り合いであるという思い込みであったらしい。だから瑠璃は、男に対して正しい呼びかけをすることにした。
「どろぼーう?」
男は動かなかった。
怒っているようには見えない。困っているようには、見える。もしかしたら、と瑠璃は考え、できる限り低声で尋ねた。
「窮鬼……?」
動きはない。
どうしたらいいか分からなくなって、瑠璃は文房の戸を振り返った。父親を呼ぼうと考えたのだ。
そこにはすでに、痩せ女――子を置いて逃げた女の情が凝り固まった妖怪に間違われる父親が、戸の空子から、ふたりをじっと見つめていた。
「お父さん」
良かった、あのね、窮鬼がね。と瑠璃が男を示そうとして再び振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。あれと思う幼子の身体は、窮鬼が消えたのと同じくらい静かに、父親に抱き締められた。
「瑠璃……あれは狗盗だから、忘れなさい」
「そうなの? でもうちに盗むものはないよね……あっ!」
卓子の上を見て、瑠璃は涙眼になった。韶華の図片が消えていたのだ。
「ひどい、盗ってっちゃった……韶姉のなのに……」
「あれは捨てるつもりだったんじゃないのかな。そうでなくても、韶華なら覚えてしまっているだろう」
「そうだけど、だけど……」
ぐずぐずと鼻を鳴らす瑠璃を慰めるため、父親はしばらくの間、夜に話をしなければならなくなった。
やがて朱蕣と韶華が戻り、父親はさりげなく図片は捨てたと自ら告げた。
「ええっ? 捨てたの。なんだが哀れー」
「哀れって、韶華……もしかして、要るものだったのかい?」
慌てる父親に、韶華は短く唸ってから否定を返した。
「要るものだけど、もう覚えてるんで、要らないともいえる。というか、あれだけ書き直しされてできたものなのに、わたしが見たのは一瞬だよ。それですぐ子どもに踏まれるし、お父さんに捨てられるしで、あれを地図って認めたのって」
ひとりだけじゃない。
と、口にしかけ、韶華は姉と父親の探る視線に気づいた。
「ほら……か……片刻だけってことになるじゃない、ね? 資材をすぐ無用にするなんて不容な感じ?」
「誰が?」
父親はなおも食い下がろうとする。
「誰が、っていやええと……わたしが? まる写しだったら試作する必要はないけど、新しく作るのは、やっぱり難しいよねー」
「そうだね、難しいんだよ……」
父親に思い当たるものがあって幸いである。なんとか支吾ことができた。
(の、かな。危なかった……いやそんな必要ないかもしれないけどまあ、うん)
韶華は大息をつき、散らかった臥遊図を拾い始めた。この妹の不平表明に気を取られ、父親はあれをどこに捨てたのだろう、という疑問を、再び思い出すことはなかった。
***
ぺたりと額に押し付けられた図片を、静影は静かに指で退けた。
当前に立つ男の顔色には、怒りではないが、徒事に係わらねばならなかった憤りが表れている。
珍しいなと思いつつ、静影はまず図片を見ることにした。
「やはり地図か。だが……」
送料とは異なっていた。書き込まれた路地や運河は、あくまでも所在を示すもので、謀議に使うような把柄を表してはいない。植生についても、毒草とはいえ薬草とみなしても構わないような類のものだった。
植物名に添えた書き出しが、どれも香の有り無しということから、書き手が香の材を探しているものと思われた。
しばらく見ている間に、静影はいくつかの植物に小さな印があるのに気づいた。
「採取する打算でいるんだろうが、そんなに危ないところは……『無香、忘憂草はかわい』って、よく分からん……必要な説明か、これ」
返事がないので静影は顔を上げ、男を見た。
「なんでそんなに古板になってる?」
「貴公に言われたくないな」
「そうだろうな。でも悪いのはおまえだろう。居所を教えないし、それなのに女子どもを着け回し……分かった、今のは俺の説法が悪かった。見逃す代わりに、盗みに入らせたのも悪かった」
盗み、と聞いて男の眉がぴくりと応じる。
「もしかして見つかったのか。狗盗と言われたとか」
「無可奉告」
もう話はないとばかりに男は背を向ける。止める理由は静影にもなく、出て行かせるままにした。
静影が考えるべきことは別にある。この点を記された場に現れるであろう者を、どうするか、だ。
「係わる必要は……ないんだがな」
そもそもそれは彼の本分ではないし、気にしているのもおそらく彼ひとりだ。
だが、誰も捜さないだろう男を捜そうとするのと同じで、あの不備さを抛っておけないのだ。当人に言えば、怒られるかもしれないが。
大息を呑み込み、形にならない言も呑み込む。
静影はただ、地図に散らばったいくつもの点を見つめ、考え込んだ。




