表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
116/117

承前之一 不夜城賦

 西方の国々を天()く山脈の向うにして、東に果てなき大海を望み、棠梨(トウリ)国は四方(せかい)を統べる。

 一人(天子)の支配するこの国が、国防の愁いであった北方の大国と和を為した今、並ぶものなき大国となったことを疑う者はいない。

 そしてその大片(こうだい)な国土の安寧は、万世(たみ)を思う帝の貴き(ことば)が、近臣によって伝えられ、百官によって為されることで成る。

 つまり業務は百官に掛かっている。

 毎次の(しごと)も、常常(ときどき)差し挟まれるしごとも、明智(りょうしき)ある官人である限り、いかなる事由があっても怠慢は許されない。

 というわけで、王言(おことば)軽浮(きまぐれ)に発して欲しくないのである。

 (ようじ)が増えるから。



莫大焦急(クッソウゼえ)ッ! なんだってこんな預定(よてい)緊巴巴(ぎりっぎり)まで詰まってるんだ!」

 美貌の官吏が卓上の紙片を握り締め、叫んだ。毒が吐き出されると知名(ゆうめい)丹花(くちびる)から、罵声は尽きない。

 届けたばかりの文件(しょるい)が、屑に成り果てるのを見ながら、副手(アシスタント)は同時に伝えてくれと(たの)まれた(ことば)を口にした。

「もう礼部は儀式の条理(てじゅん)大量(いっぱい)なので、兵部で下賜物を分けて欲しいと……兵部なら、まだ(ひま)があるだ」

「そんなもの不在(あるか)ッ。オレたちだって大射の準備が……というか、これは中書省からなのか? 下賜がどうのってことなら、太府寺じゃないのか」

「そうなんですけど、大婚(天子の結婚)、しかも皇后冊立の礼もあるということで、追加された部分なんです。通常の祝い品類(もの)(しごと)ならば、太府寺でもやっていて……」

 副手の消えそうな声を聞きながら、張天帥(チョウ・テンスイ)は嘆息した。

 各署で押し付けあった業務が、回り回って元の中書から下されたということだ。

 大婚という稀な儀式は、儀に係わる官府の力量(キャパシティ)を、ありとあらゆる部分で食いつぶしている。

 兵部とて例外ではない。宮城の守りを固めるのに特別な歩煩(だんどり)が増えたため、馬や輿、車、武具の差配に労心(くろう)している。

 なにより、祝賀のために殊方(がいこく)からやってくる使節を、大射の儀式に連れて行かねばならなくなった。

 大射は選ばれた官人たちが狩の技を競うもの。この青女月にいつも行われているのだが、それを大婚で()めるくらいなら、乗便(ついで)にやってしまえという皇帝の考えが採用されたのである。

 つい、日前(せんじつ)に。

 兵部尚書に虚ろな笑みで告げられて、虚ろな拱手(へんじ)を返さなかった者はいようか。

 もっとも、呼ぶなら呼ぶでもっと早くに決めていてくれたら、調べる時も稼げたのだ。

 狩を(おも)とする儀ながら、集められるのは武官だけではないので、小弱(ひよわ)な文官のために関心(てごころ)を加えるのも、兵部の任である。

 招かれた異国の者たちが、どのような技巧であるのか知らずして、準備を為さねばならないことが、張天帥には許し難い。

「やりすぎても、やらなさすぎても、外交問題だってのに……下賜物を配るまで、オレたちの(しごと)にするってのは、どうせ賜射の(ほうび)も出すんだから、兵部に回しとけってことだな」

「そのようで……」

「まあオレたちは決められたことをやるだけで、決める処境(たちば)じゃないから、やるしかなかろう……で、あれはどうした。もう出てるはずだが」

 張天帥の鋭い視線を受けて、副手は表情を歪めた。

 来る。きっと来る。

 これを言えば、必ずそうなる。

 そうなるだろうと知っていたから、同事(どうりょう)たちでで主持(たんとう)を押し付けあっていた。

 だがもう、言わざるを得ない。

「ええ、それが……その、殺生の解禁についての(みことのり)は、まだ……でていないと」

「は?」

 不料(いがい)にも、上司の声は静かだった。

 代わりに、目に九泉(あのよ)邪鬼(ようかい)も逃げ出すだろう冴えを宿していた。今なら棠梨に伝わる子への執着に凝り固まった女妖、痩せ女に比するに違いない。

 しかし、兵部郎中の動気(いかり)だか打乱(ぶちギレ)だかよく分からないものは、副手にも理解できる。

 殺生が解禁されなければ、肉がとれず、食べられない。

 そもそも殺生なくして狩ができるものか。宴酒の座を肉なしですませる打算(つもり)なのか。というか、廟への(にえ)はどうすれば。

 このことは、他の官府の同伴(なかま)も惑乱しつつ副手に問うていたから、如今(げんざい)の業務の滞りは、おそらくほとんどこれが(りゆう)である。

 誰か一人(天子)言ってやれ(奏上しろ)

 と、誰もが思っているから、誰も言っていないのだろう。

 ()宰相も大方(おっとり)な人物ですからー、と理解のある模倣(ふり)で、副手はそろりと逃げ出した。

 (たてもの)樓道(ろうか)の後方、嘉事の最中に呪う声が響いた。

(くさ)でも喰ってろ!」


***


「おお、皇上、眠らないで下さい。まだ文件(しょるい)が残っております」

 眼晴(めもと)を落ち窪ませた呂宏達(ロ・コウタツ)が、弄月(ロウゲツ)を揺さぶった。

 軽く揺すったところで起きないと分かっているので、力を込めて動かす。皇帝の首ががくがくと動くが、構いはしない。

 本来なら、玉体への暴虐として不敬に問われそうだが、とにかく起こさないことには始まらない。いや、終わらないのである。

 弄月より先に、(わき)に控えていた楷書手が起きた。手許から、書き上げたばかりの制書がずり落ちそうになっていた。

「はッ……皇上ッ、お目覚め下さいッ。我らが一人(いちじん)の言なければ、なにひとつ進みませぬッ」

「ああ……起きた」

 弄月の乱れた前髪の間で、疲れきった目が開いた。

「過ぎたる夢を見ていた……無事全てを済ませ、佳人の大腿上枕(ひざまくら)燕して(くつろいで)いる、夢を……」

「それは真実、幻夢(まぼろし)でございますッ」

 哀しい指摘に打ちのめされそうになるが、弄月は筆をとった。

「どうしてこうも文件(しょるい)が多い。それに、直に玉爾を押せばいいじゃないか……」

(はい)ッ、固然(もちろん)、こちらに用いました制書と詔書には、改めて皇上の玉爾を頂きますよッ。ですが」

 牢騒(ぐち)を一蹴する楷書手の言につなげて、呂宏達は大息(ためいき)を吐いた。

「これらの文書を御承認頂いたという文件(しょるい)が要りますので……多量になりましたのは、納后までは我らも構えておりましたが、皇后冊立まで進めなければならないとなると……しかも、杜娘君(朱蕣さま)(みぶん)におかれましては鴻蘆寺(外使せったい)は必須。実のところ、同時の業務があまりに多く、儀礼の次第などは、挺庭(こうきゅう)の補助に依らざるを得ず……東宮の内坊が中用であれば(つかえたら)良かったのですが」

 弄月の不考慮は、思わぬ弾となって皇太子に向かった。

 東宮後宮が正しく存す()れば、太后や太皇太后といった皇族がいなくても、内坊の女官(じょかん)たちを使って後宮の儀礼を監督できたのである。

 それがないために、挺庭の助け――今、後宮にいる者、すなわち朱蕣(シュシュン)当人に頼っている。嫁してくる当人に婿側の差配(てつだい)をさせているのである。

 もし皇太子妃がいたとしても、皇后となる女人の北方の翁主(プリンセス)という假の名を伏せたまま補助させるのは、難が多すぎただろうが。

「すまない……朱蕣……」

「いえ、もう……あちらではどうなっているのか、誰も知らず……」

「どうして分からないんだ」

「恐ろしくて、後宮に謁者を向かわせられないのですよ」

 そっかあ、と口から魂が抜けるような声で弄月は答えた。

 このままでは新人(はなよめ)見面(たいめん)する夜、力尽きて爆睡することを恐れていたが、それより先に、鉄拳で昏睡を覚察(かくご)しなければならない。

 せめて宴酒が豊かだといいなとも思うが、疏食(しょうじんりょうり)しか出せない情形(じょうたい)にあることを、()だ弄月は理解していなかった。



 大婚の期日が知らされて以後、宮城に夜は来ていない。

 不夜城を大国の証だと思うのは、殊方より至る使者たちだけ。

 だが、誰も眠ってはならぬと謳われても、内実はどこも似たような懸崖辺(がけっぷち)に違いない。

 灯りの果て、暗夜の下、どこにでも蠢くものはいた――


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ