承前之一 不夜城賦
西方の国々を天衝く山脈の向うにして、東に果てなき大海を望み、棠梨国は四方を統べる。
一人の支配するこの国が、国防の愁いであった北方の大国と和を為した今、並ぶものなき大国となったことを疑う者はいない。
そしてその大片な国土の安寧は、万世を思う帝の貴き言が、近臣によって伝えられ、百官によって為されることで成る。
つまり業務は百官に掛かっている。
毎次の行も、常常差し挟まれる行も、明智ある官人である限り、いかなる事由があっても怠慢は許されない。
というわけで、王言は軽浮に発して欲しくないのである。
事が増えるから。
「莫大焦急ッ! なんだってこんな預定が緊巴巴まで詰まってるんだ!」
美貌の官吏が卓上の紙片を握り締め、叫んだ。毒が吐き出されると知名な丹花から、罵声は尽きない。
届けたばかりの文件が、屑に成り果てるのを見ながら、副手は同時に伝えてくれと求まれた言を口にした。
「もう礼部は儀式の条理で大量なので、兵部で下賜物を分けて欲しいと……兵部なら、まだ間があるだ」
「そんなもの不在ッ。オレたちだって大射の準備が……というか、これは中書省からなのか? 下賜がどうのってことなら、太府寺じゃないのか」
「そうなんですけど、大婚、しかも皇后冊立の礼もあるということで、追加された部分なんです。通常の祝い品類の行ならば、太府寺でもやっていて……」
副手の消えそうな声を聞きながら、張天帥は嘆息した。
各署で押し付けあった業務が、回り回って元の中書から下されたということだ。
大婚という稀な儀式は、儀に係わる官府の力量を、ありとあらゆる部分で食いつぶしている。
兵部とて例外ではない。宮城の守りを固めるのに特別な歩煩が増えたため、馬や輿、車、武具の差配に労心している。
なにより、祝賀のために殊方からやってくる使節を、大射の儀式に連れて行かねばならなくなった。
大射は選ばれた官人たちが狩の技を競うもの。この青女月にいつも行われているのだが、それを大婚で停めるくらいなら、乗便にやってしまえという皇帝の考えが採用されたのである。
つい、日前に。
兵部尚書に虚ろな笑みで告げられて、虚ろな拱手を返さなかった者はいようか。
もっとも、呼ぶなら呼ぶでもっと早くに決めていてくれたら、調べる時も稼げたのだ。
狩を主とする儀ながら、集められるのは武官だけではないので、小弱な文官のために関心を加えるのも、兵部の任である。
招かれた異国の者たちが、どのような技巧であるのか知らずして、準備を為さねばならないことが、張天帥には許し難い。
「やりすぎても、やらなさすぎても、外交問題だってのに……下賜物を配るまで、オレたちの行にするってのは、どうせ賜射の賞も出すんだから、兵部に回しとけってことだな」
「そのようで……」
「まあオレたちは決められたことをやるだけで、決める処境じゃないから、やるしかなかろう……で、あれはどうした。もう出てるはずだが」
張天帥の鋭い視線を受けて、副手は表情を歪めた。
来る。きっと来る。
これを言えば、必ずそうなる。
そうなるだろうと知っていたから、同事たちでで主持を押し付けあっていた。
だがもう、言わざるを得ない。
「ええ、それが……その、殺生の解禁についての制は、まだ……でていないと」
「は?」
不料にも、上司の声は静かだった。
代わりに、目に九泉の邪鬼も逃げ出すだろう冴えを宿していた。今なら棠梨に伝わる子への執着に凝り固まった女妖、痩せ女に比するに違いない。
しかし、兵部郎中の動気だか打乱だかよく分からないものは、副手にも理解できる。
殺生が解禁されなければ、肉がとれず、食べられない。
そもそも殺生なくして狩ができるものか。宴酒の座を肉なしですませる打算なのか。というか、廟への牲はどうすれば。
このことは、他の官府の同伴も惑乱しつつ副手に問うていたから、如今の業務の滞りは、おそらくほとんどこれが由である。
誰か一人に言ってやれ。
と、誰もが思っているから、誰も言っていないのだろう。
呂宰相も大方な人物ですからー、と理解のある模倣で、副手はそろりと逃げ出した。
宮の樓道の後方、嘉事の最中に呪う声が響いた。
「蔬でも喰ってろ!」
***
「おお、皇上、眠らないで下さい。まだ文件が残っております」
眼晴を落ち窪ませた呂宏達が、弄月を揺さぶった。
軽く揺すったところで起きないと分かっているので、力を込めて動かす。皇帝の首ががくがくと動くが、構いはしない。
本来なら、玉体への暴虐として不敬に問われそうだが、とにかく起こさないことには始まらない。いや、終わらないのである。
弄月より先に、旁に控えていた楷書手が起きた。手許から、書き上げたばかりの制書がずり落ちそうになっていた。
「はッ……皇上ッ、お目覚め下さいッ。我らが一人の言なければ、なにひとつ進みませぬッ」
「ああ……起きた」
弄月の乱れた前髪の間で、疲れきった目が開いた。
「過ぎたる夢を見ていた……無事全てを済ませ、佳人の大腿上枕で燕している、夢を……」
「それは真実、幻夢でございますッ」
哀しい指摘に打ちのめされそうになるが、弄月は筆をとった。
「どうしてこうも文件が多い。それに、直に玉爾を押せばいいじゃないか……」
「是ッ、固然、こちらに用いました制書と詔書には、改めて皇上の玉爾を頂きますよッ。ですが」
牢騒を一蹴する楷書手の言につなげて、呂宏達は大息を吐いた。
「これらの文書を御承認頂いたという文件が要りますので……多量になりましたのは、納后までは我らも構えておりましたが、皇后冊立まで進めなければならないとなると……しかも、杜娘君の料におかれましては鴻蘆寺は必須。実のところ、同時の業務があまりに多く、儀礼の次第などは、挺庭の補助に依らざるを得ず……東宮の内坊が中用であれば良かったのですが」
弄月の不考慮は、思わぬ弾となって皇太子に向かった。
東宮後宮が正しく存すれば、太后や太皇太后といった皇族がいなくても、内坊の女官たちを使って後宮の儀礼を監督できたのである。
それがないために、挺庭の助け――今、後宮にいる者、すなわち朱蕣当人に頼っている。嫁してくる当人に婿側の差配をさせているのである。
もし皇太子妃がいたとしても、皇后となる女人の北方の翁主という假の名を伏せたまま補助させるのは、難が多すぎただろうが。
「すまない……朱蕣……」
「いえ、もう……あちらではどうなっているのか、誰も知らず……」
「どうして分からないんだ」
「恐ろしくて、後宮に謁者を向かわせられないのですよ」
そっかあ、と口から魂が抜けるような声で弄月は答えた。
このままでは新人と見面する夜、力尽きて爆睡することを恐れていたが、それより先に、鉄拳で昏睡を覚察しなければならない。
せめて宴酒が豊かだといいなとも思うが、疏食しか出せない情形にあることを、未だ弄月は理解していなかった。
大婚の期日が知らされて以後、宮城に夜は来ていない。
不夜城を大国の証だと思うのは、殊方より至る使者たちだけ。
だが、誰も眠ってはならぬと謳われても、内実はどこも似たような懸崖辺に違いない。
灯りの果て、暗夜の下、どこにでも蠢くものはいた――