烏黒神来之三
長棒を持った腕が、旁臉を向けた作勢で、下から上へとしなる。
それは、静影が通常行う兵営での花招の際より緩い動きで、韶華に見せるためだと分かった。
「うん、見てる!」
韶華がその通りに応じると、武人は小さく頷き、しかし左手を瞬刻だけ肩の辺りで平らに振る。作勢が正当でないと言いたいらしい。
膠固で知られる男は、こんなときでも繁冗で煩苛であった。
「分かったってば!」
「あなた……あれで、まさか」
突如路数が変わったことを、女も身をもって知った。
門の上に立つ男が、長棒を構えるのと同じに、韶華が構える。左に振る、さらに一次振る。間を空けずに、左側から棒先が回されて来る。それを正確に模倣する。そんなことが、可能なのかという早さで。
「韶華、軸を揺らすな」
「え、そう?」
静影は己の見せる棒を握る幅が、韶華には遠すぎると気づいて、持ち直した。
「好」
棒の動きが滑らかになった。
「本当に、見るだけでいいと……!」
韶華が今模倣しているのは、クシの行刺ではなく、生捕の法子。それも、招数に優れた者のものだ。
見て模倣すれば、必ず動作は遅れる。それでも韶華は応じている。先んじてさえいた。それらは全て、静影が女の動きを読んでいるからこそ、成る。
武人の作勢を写した少女の、焼いた栗に似た髪が揺れた。
「好容気、どういう処境なのか、理解したみたいだね!」
「ああ、あの男に、そんなところまで似ているなんて!」
「あの男……」
女の視線は、韶華の髪にあった。
「思い出したくもない。シャーン・アルース! 死んでも、わたしの邪魔をする。その血にまで現れて!」
「どういうこと……」
女がクシの民なのは間違いない。だが碍事とは、なんのことを言っているのか。
惑う韶華に瞬間、疏忽ができた。
女がなにかを振り捨てる。煌きに目を奪われたのは、韶華だけではなかった。
落ちたものが刃と知った時には、女が柄であったはずの部分を口許に添えているのが見えた。
「韶華!」
女の使うものが吹き矢だと理解した時、韶華の周り全てが緩くなったように思えた。流れる髪の一束さえ、空に止まっているような。
もう遅い。だが、諦めるのかと問われ、韶華のどこかが否と叫ぶ。
それなら少し、課をしようか。
吹き矢は、当面で使うものではない。
だから、狙われているのならば、狙わせてやると良い。
ひとは目を見てしまうものなんだ。
どこかで読んだ課本なのか、それとも誰かのささやきなのか。
それでも、なにをすれば良いのか、韶華には分かった。
女の薄い色の目を撲面から見て、小筒を「そこ」に。長棒は、いつ捨てていたのか、覚えていなかった。
筒に巻かれた華やかな糸が、目前で矢の先を喰らう。命を脅かす重さが、そこで止まった。
そうして韶華は、外れた蓋の行き先を確かめないまま筆を掴み、
「韶華ッ?」
女に跳び掛かった。狙のように。
「なにするのよこの子はっ!」
「暴れても白白っ! 愚人と書いてやるから女人だからって容赦はしないッ。ほらカルティナ!」
驚愕する女の頬に、没と書き込む。
次は用と振り上げた手が、空に置いたまま動きを止める。なぜか動かせなくなっていた。
「あれ?」
指も動く、顏も動く。ただ手だけが動かない。見えない誰かに掴まれているような、そんな形で腕が止まっている。
不審を確かめているうちに、韶華は女に突き飛ばされた。
「こういうのは、動くのッ?」
身体ごと転がるのだから、とりあえず、腕が空に止められていたわけではないらしい。起き上がるために使う手は、通常と変わらなかった。
辺りに女がいないのを見て、韶華は門の上に向かって叫んだ。
「静影、どっちに行……っていないいいっ」
門の上に武人がいない。いなくて当然ではあるが。そのまま居たら、後宮に侵入を計らんとする不審者である。
韶華の目が、尚絅越しの目と合った。
閉まっていた門が、いつの間にか開いている。輿を運ぶ女たちの一行が、門を通ろうとしていた。
***
(霊妃……!)
韶華は慌てて叩拝した。
事もないのに霊妃の姿を見れば、災厄を被ると言われている。
しかしながら、棠梨の宮中では、その神知に敬意を払う者も少なくなった。かつては政にも係わっていた霊妃も、今や降嫁や納后でしか、占を求められない。官吏たちも、工祝に全て任せたら良いと言って憚らない。
それでも、当面にすれば。
地妖に拘りのない韶華でさえ、畏れる心境が勝る。白屋で痩せ女を見るのとは、全く異なっていた。
(そういえば静影、霊妃の一行がって言ってたけど……あのひとを追うのに、なにが中用なのっ)
随伴する巫女が口を開いた。
「そこな者」
「はいッ?」
「結舌しておれ」
是と答えるには、難しい命令であった。そもそも、突如言われる理由も分からない。
それは、先まで太占の儀に加わっていたらしい官人たちも同じで、心煩した声が響いた。
「待たれよ」
「なにか」
霊妃は占以外の言は出さないつもりか、巫女が代わりに応じた。
「那位の言は、御輿をお止めするに能うものであろうな」
「当然。でなければ、話す意思もありますまい」
首を傾げるだけで巫女は応じない。官人は冷めた言を吐き出した。
「先の太占に、我らが申し上げたことは、顧みられませんでした。しかし今、そこの無状な小子によって、神意を受ける霊妃の往来が妨げられたのは明らか。これは工祝からの求め、改口を要するという、卦ではないのでしょうか」
「占は佳と出た。それだけが全て。視たものを、爾らが顧みないというなら、そうするが良い」
説法が有趣だな、と韶華は思った。巫女は、占いに意思を持たせるのは、ひとだと言っている。
聞かされる者にしてみれば、不快だろう。神意を歪めるのは霊妃ではなく、おまえたちだと指摘されているのだ。
当然、返す官人の声には怒りが混じった。
「顧みないのは、どちらでありましょうか。霊妃ともあろう者が、お分かりにならないのですか。あの者に不吉な影が、つき従っているのが!」
「それは、どういうことなのだ」
応じたのは、呂宰相だった。
花紋を好む大臣が来ているなら、あれも。と思った瞬間、弄月の声がした。
「不吉とは穏やかならぬ。しかし神意とて、零件は放過するかもしれぬ。霊妃にも視えぬものを知っているのならば、言ってみよ何鳳翼。余が許す」
霊妃の一行を送るために、ここには皇帝、宰相、達官たちが居る。当然、守候の甲士たちも居る。
静影が女を千秋門に追い込めと言ったのは、彼らに謀略を為す者の存在を教え、且つ、捕える爪牙を得るためだったのだ。
(しまったなあ……せめて逃げてく姿だけでも、見せられたなら)
わずかに遅かった。
韶華の大息の向こうで、何鳳翼が言った。
「では……准許戴きましたので、申し上げます。かの女人の身家は、伝えられるものと異なっております。ゆえに太占も、正当なものとはならないでしょう」
「真か、それは? 妄語であったら、無事では済むまいぞ」
左丞相が大仰な声調で問う。失落しても、それは何鳳翼だけの話だと、言わんばかりだ。
「無事でないのは、今の宮城も同じでありましょう。以前より、宮城に怪ありと愚かな戯言が巡っております。それは、かの女人が後宮に入った刻から、始まっているのではありませんか」
「そう、であったかな……」
左丞相は、そこは信心がなさそうに答えた。
「たとえそうでなくとも、大婚という嘉事に胡説が流るるは小難。それゆえ、小官は、瑕疵なきかを密かに調べておりました。そして、不料な真実の発覚に至り……皇上にどのようにお伝えすべきか、如今まで迷っていたのです」
何鳳翼は続けた。
「かの女人の父は、いずれかより棠梨に到りし流気の者。とは、表面での話。実地には北方の蛮人、キュウの生まれになります」
「キュウ! なんと……獣が巣より来たというのか! 皇上、かようなことを知ったからには条理を正さねばなりません!」
「しかし相公、必ずしも怪しまねばならぬわけではあるまい。白棠には、北方の血を引く者は多いのだぞ」
「呂宰相、そんなことを言って……」
「畏れながら、申し上げます。北方にあるは、今はクシと言うべき国。成ったばかりの友好を、達官が無用にすることはないかと」
静影の声が響いた。
ざわついていた官人が、ぴたりと封口する。それが、怯えから来るものではないと、韶華にも分かった。
キュウは恐ろしい。それでもクシと聞けば安堵できる。ただ、まだキュウをクシとすぐにつなげることは、難しいのだ。
何鳳翼は激発した。
「友好? 左領左右府将軍、そんなことをキュウに与する者に言われて、誰が相信するというのか! 後宮に児女を送り込む一家に対し、貴公が討好する姿を見た者は、一位両位では済まないのだぞ!」
「ならば、本将も問わねばなりますまい。幼き者を守らずして、いかなる防身が成るというのか」
見えないけれど、反応が分かれたのは、明白に感じられた。
なにを言っているのだと惑う官人たちと、なにやら感動している宰相と、韶華と同じく不然と言いたい男の封口と。
韶華は肩を落とした。知りたくもない真実の発覚が、そうさせた。
(静影……そのひとはね、多半、わたしのことを言ってるんだよ……)
皇帝の妃となる女人の妹、それに構う男とくれば、討好と言われるもやむなし。
ところが膠固と言われる真卒な武官は、討好していると言われて思い出すのは幼い瑠璃だけで、韶華に対して討好している打算は、全くないのであった。
(いいけど……いいんだけど! 確かに、数落ばっかりだし!)
少しだけ自身を可憐に思い、何鳳翼にも同情した。認真に言い返された内容が、送料したものとここまで違うとは思うまい。
何鳳翼の糾する声は、辛うじて続いた。
「貴公はっ……自身の処境をもっと考えるべきだ。あの蛮国を、クシと認めるのも良いが、棠梨の陛衛にあって、それはあまりに浅薄ではないか。誰よりも疑わねばならぬ身だろうに!」
「何鳳翼よ、徐将軍とはそういう男なのだ。坏心を探すより先に、まず信じなければ、と思うのだ」
皇帝である弄月にまで疑えと言うのは、何鳳翼にも難しかったらしい。短い結舌の後、ひとつだけ申し上げる、と付け加えた。
「キュウであろうと、クシであろうと、他国の女を後宮に入れるのは、問題ありますまい。ある意思、それこそが後宮というもの。百官も、空閨を案じておりましたから、納女考試を喜んでおりました。ですが、かの女人は、大婚に佳かろうとも、適う者ではないと思われます。宮女として小主に置き、群臣より正当な妃をお迎え下さい」
「正当な妃を迎えよ、と言うのか。それは、百官の合意とみなしてよいのだな」
弄月に応じて、左丞相が是と答えた。
「如今、納められる女人というと、猛然のことゆえ、申し上げるのは難しいのですが……そうですね……」
一句ごとに、つっかえるようなためらいがある。流利に言えば、不審を買うから迷う模倣、というわけでもないようで、立即には想起できなかったらしい。まさか皇帝の翻意があるとは思わなかった、ということだ。
韶華も混乱していた。結舌していられたのは、霊妃がそうしろと予め言っていたからである。
弄月が大息とともに、頷いた風色があった。
(ん? 誰かが、ささやいた……?)
韶華からは見えないので、どうにももどかしい。
「うむ、猛然のことで、余も言うべき刻を計っていたが、それが来たようだ。ここにいる者は忘れていないだろうが、かの北方の国に送っていた、謝元宝が戻って来た」
「おお、謝公が。では、急ぎ戻りませんと……」
呂宰相に続いて、官人たちもざわつき始めた。霊妃を送るのも器重だが、政こそが彼らの本分である。
「慌てるな、呂よ。少し情勢が変わったことを、理解してから会ってもらわねばならん」
「固然でございますが……」
「空閨はあってはならぬこと。余は、徐小君を亡くした後に、正当な妃を迎えるべきだったのだ。百官がそれを期望していると知った今、迎えねばならないと思うまでになった」
「百官、大婚を迎えられますことを、心より喜んでおります」
「閨閥の争いを避けんがためとはいえ、みなに心事を与えたな。余は北方の国との友好の証に、喜んで、かの国の翁主を皇后として迎える!」
「はあ?」
霊妃の忠告はよく効いた。
皇帝に返すには不行儀が過ぎるこの声は、好運なことに、韶華のものではなかった。




