求香料之二
棠梨において地図は、許された者だけが持つものである。固然、庶人でも手にできるものはあり、素図や、地名と観光名勝を印した臥遊図などがそれに当たる。
しかし韶華の持つ紙片は心細に書き込まれたもので、しかも臥遊図と似て非なるものだった。街道から港口、小さな運河に至るまで示され、植物の名称も書き加えられている。
これがなにかと問われたなら、植生図といえるのだろう。静影も単なる植生図であるなら抛っておいたのである。
「待て、なぜ薬草だけでなく毒草まで……それに西苑って。西苑にある毒草の所在をどうして知っている」
「毒草なんてないですよー。薬草じゃないですかやだー。大兄、詳しーすごーい。さ、帰ろうか、妹妹!」
韶華は図片を口袋に押し入れ、愚人の振りをした。
忘れていたが静影は武人である。韶華がこの先することを妨げる――かもしれないのだ。
静影の顔が歪んだところを見ると、充分に弄假たとはいえないようだが。
「ではさようならー」
「待て……」
眉間にしわを寄せ、大息とともに武人が言う。もう無法かと韶華は目を閉じて、鼻先に古い龍脳の香りがあることに気づいた。
「熱が下がったばかりなら、雨に濡れるのは良くない。これを使え」
「雨……? あ、真正だ」
「じゃあな。早く帰れよ」
またそれか、と韶華は言おうとした。いきなり柔らかなものを頭上から被せられなければ、そうしていた。
韶華の視界を遮ったものが男ものの披肩と気づき、急いで顔面からよけた時には、もう静影は去りつつあった。
「ちょっと待っ……」
言うべきことを考える暇はない。だから韶華は一言、ありがとうと叫んで、走り去るひとを見送った。どうやって返すの、と問えば良かったのだと気づいたのは、家に帰ってからである。
「心遣いは……嬉しいんだけど、ふたりで使うには小さすぎませんか」
「瑠璃は濡れてもいいよ」
「不許!」
きゃあと笑う妹に披肩を被せ、韶華はもう見えなくなったひとの影をそっと目で探した。
(知らなかった……植物に詳しいって。封信には書いてなかったしね)
静影を知った気になっていたのを、恥ずかしく思う。
ひとを知るのは難しい。どれだけ封信を受け取っても、一つの面しか見ることはできない。字だけでひとは表せない。
(それに……)
専欄を読んで静影は『瑞頌老師』を敬愛すべき人物と思っているけれど、同じことを韶華に思うかは、分からないのだ。
それをひどく寂しく感じる理由もまた、分からなかった。
***
「韶華! 瑠璃!」
家の前で姉妹を出迎えるのは、痩せ女――貧しさから子を置いて逃げた女の情が凝り固まった妖怪――ではなく、長い灰色の髪が濡れるのも構わず、外にいた父親だった。
「お父さん!」
嬉しげな季児の声を聞きつけ、母親の淑英も戸から顔を覗かせる。披肩に狭苦しく収まるふたりを見て、ひどく驚いた顔をした。
「それじゃあ濡れるじゃない。ふたりとも早く入って。郎君も」
「瑠璃、その披肩は……男」
「はい急いで急いで瑠璃。それから着替えて」
「分かってるよ、だ。あのね、言うの遅くなっちゃたけどね、瑠璃が韶姉を迎えに行ったのは、知らせたいことがあったからなの。びっくりするよ。見て」
「まず披肩を返し……うわ」
卓子の上に顔を向け、韶華は驚きの声を上げた。
部屋に入る前から感じていた芳しさは、静影の披肩からするのだと思っていた。だがそれは、卓子に置かれた小さな袋や匣からあふれ出るものだった。
むき出しで置いてある木片が香木であることは明らか。だからつまり、匣の中にも香木が、香料が入っているのだ。
「驚いたでしょう、韶華。わたしも驚いたわ、瑠璃がいなくなってて」
朱蕣の笑みは美しくも冷徹である。得得だった幼い妹は、振り回していた披肩を
二姉に返し、急いで長姉に謝った。
「ごめんなさい……」
「次はちゃんと言ってね? 雨よけに手巾を渡……あら、韶華。それはうちの手巾じゃないわね。そういえば前に使ったの、あなたが干した? みつからないのだけど」
「あれ? 返してなかったっけ。置き忘れたのかな。あとで探すね。それより……これ、どうやって手に入れたの」
韶華は披肩を父親の目から隠しながら、卓上に注意を向けさせた。
「わたしは全く買えなかったんだよ。高かったし、もう買い占められてて」
「打手費の先払いをお願いして、なんとか手に入れたのよ。ほんの少しだけれど、
白木香もあるわ」
なんとか、と言いつつ母親の手が棒を振る動きをしたので、どんな方法だったのか、韶華は深く考えないことにした。
「でもね、お母さんが買ったのは、本当に少しなのよ。ほとんどは……みんなが持ち寄って下さったものなの。考試を受けると言ったら……朱蕣にって、あちこちから届けられて」
「わたしも歩いていたら、これを頂いたの」
朱蕣の指した小さな袋は厚みがなく、揺らすと軽い音がする。薬さじほどの量の桂丁が入っているようだ。ほかに白果舎の字が刻まれた匣や、捕蝿紙に見える出処不詳の細長い紙片もあった。
「これを見て」
眼角をぬぐい、淑英が牡丹の絵の匳を開ける。内には子どもが使うような可愛らしい大きさの壺が並び、薬さじが添えられていた。
「これは張夫人が下さったの。香合わせの玩具だそうよ。古いものだけれど、かなり上質な香料が入っているんですって」
確かに黒沈香、龍脳香、栴檀香の札が
それぞれついている。だが地道と考えるのは難しい。真正であれば、どれほどの値となるか知れない。
けれど佳品と信じて譲ってくれたのは真実だ。それは夫人の偽らざる心で、韶華は匳を手に取り微笑んだ。
「うちが窮鬼と相好だって、みんな知ってるでしょう。だから少しでも助けたいって。お供えの香火を砕いたりね……ほら、これなんか」
淑英は奇妙な紙片を持ち上げてみせた。
「これは景景が持ってきたのよ。裏に米糊がついてるんだけど、香商の店頭で振り回せば、散らされた粉末が着くって考えたそうよ」
「ああうん……その努力は嬉しい……かな。努力は」
「景景のなんか、そんなのちょっとだよ。お母さんのがすごいし、お父さんと瑠璃だって、書籍の芸草をぜーんぶっ、取り出したんだよ! お父さんは、蕣姉のためなら虫に喰われても耐えるって! それに小せつもごが」
「言わなくて良いよ、瑠璃!」
慌てて季児の口を押さえ、父親は袋詰めの芸草をどんよりと眺める二女に淡い笑みを向けた。
「芸香ばかりじゃ足りないだろうから、知己の黒道……に詳しい者に頼んで、少しだけ貴重そうなものを分けさせた、させてもらったんだ」
「まあ、その工作があったわね! お母さんも狙ってみる!」
「お母さん、もう充分だから! お父さんも、瑠璃も……ありがとう。これだけあれば、香は配方できるよ。誰もが蕩ける香りを作ってみせるからね、お姉ちゃんのために」
「韶華ならできると信じてる。わたしも渾身の謀略を以って、みんなの思いに応えるわ!」
「謀略は止めて謀略はっ。それよりお姉ちゃん、出かける準備をしてるけど、明天じゃなかったの? これから出るなら、わたしも行くよ。この香料を誰にもみつからないように、作坊に隠しておかなくちゃいけないからね!」
韶華は戦利品を静影の披肩にさっと包み込んだ。
「それならあなたも、わたしと行かない? 作坊に寄ってからでいいから」
「いいけど……そんなに荷が多くなりそうなの?」
朱蕣の誘いを荷持ちの副手と取った由の言だが、佳人はゆるく不是した。
「買いものじゃないの。それは急がない……これから行くところで、風聞にどれほどの真実があるか、韶華にも判定して欲しいのよ。これは明天では遅いかもしれない。西街ではないけれど、宮中から使いが来始めていると……聞いたの」
「行く」
韶華は即答した。




