納女敷求之一
「だからさあ、こうして頼んでいるんじゃないか」
路地で少女に話しかける男の声は弱々しく、ひどく困っている様に見えた。
とはいえここは、都城の西端――妓楼や賭場の並び立つ藍雪路である。
だから韶華も男が真に困っているのではないと分かっていた。それは打手である母親の言を思い出すまでもない。
「頼むよ、これを家に届けて欲しいんだ」
言いながら封信を差し出す男の指は、ふくふくとして丸い。
鶉衣を着ているように見せかけ、その実、金蘭の下衣を重ねたどこかの宗子。負けが込み、債務の取り立てが厳しくなってきたので、親に頼んで払わせようとでもいうのだろう。
その身につけた肉で払ったらどうよ、と思いつつ、韶華はわざと子どもっぽく首を傾げてみせた。
「哥哥のお使いをしたら、零花銭はもらえる?」
「好きなだけ払うよ。決まってるじゃないか」
「そう? もらえたとしても、わたしの手が零銭を握る前に、後ろに立ってるひとに取り上げられて終わりじゃない?」
韶華の呟きを受け、男の後ろにぴたりと張りついていた大男が、鬼神のように、にやりと笑った。
誰と言わなくても分かる。取り立て人である。
「そこは気にしなくてもいいぜ、小妹。この大兄が返すと言うんだから、零銭くらいは見逃すさ」
「見逃せなくなってきたから、張りついているんじゃないの?」
「そうとも言うな」
笑う大男に韶華は大息を返した。
「まあでも、全て回収するまで待つつもりはあると……だったら、考えを変えるといいよ」
「どういうこった」
「払えるけど払わない……それって額より面子なわけよ。この敗家子にとって、親に知られることのが嫌なわけ。ばれないよう、朝夕に少しずつ返し続けたらいいよ……と言えば、喜んでそうすると思うよ?」
韶華の言う通り、債務を父母に隠したままでいられると思った男の顔は、ぱっと明るくなった。
「少額だったら、明天からでも払えるよ! どのくらいがいいかな」
「朝三両、暮四両」
「それで少額ッ? 凶狼だな!」
「じゃあ朝三十銭、暮四十銭?」
「全く変わってない!」
今世、一両は十銭である。愚弄されたと思った男が怒鳴るのも当然である。
「あんまり少なくして、返済に長くかかるのも困ると思うんだけど……それじゃあ朝四十銭、暮三十銭で」
「おれは狙か! 知能が猴子なみだとでも言うのか! 朝夕を足したら同じだろうが!」
「違うから。朝三暮四より朝四暮三であることが重要なの! 同じに思えるなら、狙以下だからね?」
「なんだとッ」
いきり立つ男の前で、少女は両手を軽く広げ、肩をすくめてみせた。彼らの国ではあまり見ない所作であるが、意味はしっかりと伝わった。
やれやれ。言わないと分からないなんてね。
「いい? これは朝にきちんと食べ、その日の活力を満たしてから働いてもらうっていう方案なの。ねぎらうには、晩を多くするのが正しいけど、働くっていう効果を考えるなら、やっぱり先に栄養を貯めさせて、力を出せるようにしないと」
「なんだってッ……! じゃあ狙公は、狙をこき使うために策を弄してエサをやってたっていうのか!」
「ほかにどんな理由があるのよ」
韶華が朗らかに言い放つのを聞きながら、大男は少女の二つに分けた結髪が揺れるのをぼんやりと眺めていた。
わずかに黄みを帯び、褐色の艶を持つ栗のような髪色は棠梨国では珍しい。西の街界隈においては、それだけで少女の名が知れる。
香青路の女打手に三女あり。その行第二、杜韶華こそ――聡明さがあらぬ向きに突き進んでしまっていると学堂の老師たちを激しく嘆かしめた、世にも希なる才媛である。
「知らなかったなあ。そうか……朝に……」
「これからは朝を軽く考えないで。胆を嘗めるのよ」
怪しげな理屈を捏ねる澄んだ声に、男は何を感銘しているのか深く頷いている。
実を言えば、大男も頷いてしまいそうになっていた。流されるのを押し止めるように、慌てて男の肩にぽんと手を置いた。
「まあ、なんだ、話がまとまったところで……明天からの朝四暮三ってやつを書面
にしてくれねえか?」
「うん、分かったよ」
「じゃ、ちょいと賭場まで戻って……連れて行け」
大男の顎を上げた先、いつの間にか増えていた賭場の手下たちに若い男は委ねられた。
「なんかよく分からねえが……小妹、助かったよ。あれの扱いには困ってたんだ」
「どこの賭場か知らないけど、支払いの期日も決めずに遊ばせてたの?」
「いつもなら、そんなことしないぜ? ただ、どういうわけか、うちの老板が待つ気になっててな……」
言いにくそうにする大男から韶華も察した。あの郎子には、ほかの賭場に取られたくない理由がいくつもあるのだ。
「親に知らせるべきだったかな……ま、藍雪路まで来るくらいだし、難有りなのは変わんないか」
「そうさ、小妹が気を遣うような輩じゃねえよ」
「でも、あのひとが都の甘河に浮かぶようなことがあったら、あんたたちは官方とお話ししなくちゃいけなくなるからね」
「しないしない。そんなこたぁ、しねえって……じきに国の慶賀があるって時に、お偉いひとを煩わせるなんてなあ」
「慶賀ッ?」
韶華の鋭い問い返しに一瞬怯んだものの、大男は緩やかに頷いた。
「最近、妓楼に来る若いのがやたら荒れててな……いや、話を聞けば分からんでもない。決まりかけてた婚約が急に延びたり、許婚が解消されたんだとよ」
「えっと……国中で退婚が多発してて、慶賀?」
「違うって。良いとこの女に、もっと良い話が出たってことだよ」
大男は懐かしむように遠くを見つめた。
「小妹の齢じゃ知らないよなあ……もう何年前になるかな。帝の愛妃、華容仙女と謳われた徐小君が亡くなられたのは。帝が一人の位に就いてすぐ……いや、皇太子が生まれてからだったか? まあとにかく今日まで棠梨国の後宮は、ずっと空だったわけだ。それがどうやら……皇上も思うところあって、後妃を迎えるおつもりらしい」
「後妃……つまり天子さまが、ってことね。太子さまが後宮を募るのではなく」
「そうか、皇太子もそろそろだよな。だから後妃は庶人から考試で選ぶのか」
「考試? 庶民?」
韶華の声の低さをよそに、大男の心はさらに昔へと飛んでいた。
齢を経て、見たいものだけ見るようになれるというのは幸いである。少女の目に浮かぶきらりとぎらり半ばの鋭い光や、口の端に現れた怪しげな笑みなど見ても、楽しいものではない。
「後妃……後妃ね……でも天子の妃には違いない……太子の新しい後宮じゃ貴族で占められるだろうし……それって何人くらい?」
「驚いたことに、後妃に選ばれるのはおひとりだけって話だ。まだはっきりと知らせがあったわけじゃないがな。妓女どもまで浮かれてるぜ。考試は庶人であれば、誰でも受けられるそうだ。小妹も受けてみたらどうだ? まだ笄も挿してない小児のようだがな」
「もう十六になってるっ!」
「うごおっ」
すねを蹴られ、うずくまる大男を残し、韶華は走り出した。杜家のある香青路に向かって。
それは当初とは異なる方角であり、為すべき用を放り出したことを示す。いつもなら韶華も一つのことに入れ込みすぎないようにしている。だが、この時ばかりは藍雪路に行かねばならなかった理由も、奥で待っている者のことも、きれいさっぱり忘れ去っていた。
「蕣姉……お姉ちゃん! わたしたちの夢が……待っていた時が来たよ!」
少女の叫びが、小さな路いっぱいに響いた。
***
都城の花が彩りを減じ、新緑を迎えるまでの僅かな間は、打手にとって一息つける時期である。
春の宴の熱が引いてしまえば、賭場も妓楼もない香青路では、借料の揉め事くらいでたいした紛事は起こらない。少しでも長く家にいられるのは、打手を稼業とする女には嬉しいものだった。
杜淑英は寝台の端に座り、愛しげに季児の丸い頬を撫でた。
「まだ少し熱があるわね、瑠璃……咳は治ったようだけど」
「韶姉が瑠璃に飴を作ってくれたの。ちょっと苦かったけど、喉がすっとして、咳が止まったよ」
「そう……」
「もっと苦い飴なら、もっと早く治る? そうしたら、瑠璃も学堂に行ける?」
幼子の問いかけに、淑英は答えるかわりに微笑みを返した。
瑠璃の身体の弱さは、杜家の長きに渡る心事だった。生まれた時から、あと一年を無事に過ごせるかどうか怪しいと言われ続け、ようやくこの春、六つになったのである。
もっとも学堂へ行く齢に達したこと自体、奇跡のようなもの。金銭に余裕のない杜家では、瑠璃がよほど悪くなった時にしか医院には行けない。薬といえば韶華の本草学の知識に頼るしかなかったのだ。
「それだって正式に学ばせてやったものじゃないのに……あの子には頼るばっかりね……でもね、焦ることはないわ、瑠璃。あなたはゆっくり身体を強くして行けば良いのよ」
「ん……」
淑英はまどろむ瑠璃の掛け布を引き上げると、そのまま眠りを妨げないよう、夫の寝具の繕いを始めた。が、すぐに揺れる白屋を感じ、眉をひそめた。
「韶華? もう少し静かに歩い……」
「お母さま、韶華はっ?」
「朱蕣?」
淑英の意表を突いて寝室に飛び込んできたのは、韶華ではなく朱蕣だった。香青路の仙女、杜家が誇る佚女たる長姉が、佳人にあらざる勢いで妹を探していた。なぜか紙片を高々と掲げて。
妹がいないと見るや、朱蕣は母親にその紙片を向けた。
「嗚呼、お母さま、これを見て下さる? 到底好機到来!」
「ええと? 棠梨国万世に告げ……」
淑英が読み終わらないうちに、風のように韶華が駆け込んできた。
「聞いて、到底好機到……あっ! お姉ちゃん、それは!」
「韶華も聞いたのね。わたしは市に行く道で、張太太にこれを頂いたのよ」
「もう篇子が……じゃあ本当なんだね、考試って」
「間違いないわ。何枚でもあるわよ。香青路のみんなからも、もらったから」
ばさばさばさーと卓子の上にばら撒かれた紙片は、しわがあったり折り跡があったりと、初めの持ち主の癖を表してさまざまであった。
「みんな、お妃さまなら蕣姉って、思ってくれてるんだね」
「良いひとたちよね」
「納女敷求……?」
二姐妹の熱狂をよそに、淑英は紙片に仰々しく書いてある納女の字をただ見つめた。
納女。それは臣下より女を納めよ、という憶測を交えたならば、動乱の元となりかねない令である。母親としては、単なる「好機」とみなすのは難しい。
「そりゃあ、朱蕣が良家に嫁いでくれたら嬉しいわ。でも後宮だなんて」
「でもさ、お姉ちゃんだけでも楽な暮らしができれば、わたしは嬉しいな……瑠璃の薬だとか、少しは考えるけど……」
韶華の声は、母親の眉間のしわが深くなるごとに、どんどん小さくなった。
「許して下さると言って、お母さま。わたしはずっと考えていたのよ。良い嫁ぎ先を見つけて、杜家の生活を刻苦のままに置かせはしないって。だけどわたしも十八になるし、良家の令息をたらし……見初められるのを待つより、嬪従の応募をもって宮中を攻めるべきかしら、と。后妃ならば願ったり叶ったり。碩人たらんと励んだ日々が、報われるでしょう」
「選ばれるのはひとりだって話だし、だったら貴族の后妃と寵愛を争うこともないし……」
口を結んだままの母親を、二姐妹は息を止めて見つめた。
「それって、姉姉がお妃さまになったら、瑠璃は大厦に住んで、佳肴を食べられるようになるんだよねっ?」
突然の明るい声に、母子はそこが寝室であることを思い出した。休ませていたはずの季児が上掛けを跳ね飛ばし、三人をきらきらした目で見上げている。
「瑠璃ってば、起きちゃったの?」
「起きるよ! 楽しみだもん! お姉ちゃんたちが、お妃さまになるの!」
「それは……蕣姉だけね……おひとり限りなんで……」
「韶姉はお妃さま、嫌なの?」
篇子によれば、考試に参加する条件は、「今」未婚であること、ただそれだけである。標梅であろうと姑子であろうと構わないようで、恐ろしいことに妙齢という括りさえない。
杜家においては韶華も参加の質を得ていることになる。考試がどういったものかは分からないが、同族から挑むひとの数を増やすのは、戦略の一つとして正しい。
しかし。
「わたしはお姉ちゃんみたいな美人じゃないから……」
「そんなことないよ。いつも瑠璃を欺負る永児とか景景は、韶姉を見たら顔を赤くして逃げるもん。きっと恥ずかしいんだよ。照れてるんだから!」
「いや、それはね……」
拳で妹を泣かせた代償を払わせているからであって、決して「照れ」ではないだろう。
「だいたいね、さあ、貴方の妃はここにいるわ! とか言って、いきなりわたしが現れて応と返す男は……どうなの。己の意志ってものがないの? わたしのことをなんだと思ってるの」
「えっと、好好?」
「ありがと、瑠璃……でもその、わたしを見てそう言うひとは少ないわけ……うちでは、わたしだけ平凡な顔だからね……お姉ちゃんは言うに及ばず、瑠璃も可愛いし、お母さんも若い時は香青路の佚女として有名だし? お父さんの美貌は今でも通じるくらいなのに」
「韶華……! あなただって、わたしの愛児だわ」
淑英は口ごもる韶華の頬を両手で挟んだ。
「鼻は高くないし、黒真珠のような瞳でもないけど、頬はふっくらとして柔らかいわ。それに声が澄んでいてよく通るでしょう。なにより賢さは抜きん出ているし、顔が……顔が凡そ平らかでどこが悪いの!」
「平凡を強調されて喜ぶのは難しいですお母さん」
しかも形は褒めてない。
韶華は軽く息を吐き、握りつぶしそうになっていた篇子を広げ、覗き込んでくる淑英と朱蕣の見やすいように卓子の上に置いた。
よく見れば、最下段に約定書面の如き細やかな字で、なにかが示されている。
「読みにくいなぁ。ん? お姉ちゃん、府上での申請には当人が行くんだって。それと、なんだろ……要るものが」
「嫌だ……韶華……」
突如差し挟まれた呪い言――ではないが、杜家の女たちの視線が、寝室の脇から聞こえてくる低い響きの元へと集まった。
柱に身を寄せ、長い髪を肩に流した背の高い男の姿がそこにある。失業中だが杜家の家長、三姉妹の父親、かつては仙女と見紛うまでの美貌の持ち主。
いつからか苛酷な生活のために顔から活力を削ぎ落し、ついでに身体からも肉を削ぎ、灰色の髪の一束を唇に噛んで眼底に暗い光を湛えた姿は痩せ女――棠梨国に伝わる、貧しさから我が子を置いて逃げた女の情が凝り固まった妖怪――そのものであった。見慣れているので、誰も気にはしないが。
「朱蕣……おまえだって嫁にやりたくないのに、耐えているのに韶華まで……ひどい……お父さんを置いて行くな……寂しい……」
「お父さん! 瑠璃が、瑠璃がまだいるよ」
「瑠璃は誰にも渡さないよ」
ふっと微笑みを浮かべて幼子を見守る姿は、父親というより妖怪に近い。いずれ季児を好きなるであろう男の多難を思い、母と姉たちは肩を竦めた。
「珍奇なこと言うけど、お父さん。わたしもまだお嫁に行かないよ」
「そう……なのかい?」
韶華のげんなりとした顔の前に、骨ばった指先が紙片をひらつかせた。
「良かった……! じゃあ韶華が落としたこの封信は、情書ではないんだね。瑞頌老師」
「うはあっ!」
神速の勢いでそれは父親の手から奪われた。
「違うから違うんだからああそうだわたし忙しいのでちょっと出かけるねっ」
「お姉ちゃん、待って!」
妹の切ない呼びかけを後にして、ようやく韶華は、藍雪路に行かなければならなかった理由を思い出していた。