もしかして、アンチ
信じられない状況のはずなのに、私は飛び退くこともできなかった。
「あのね、高校なんて行かないっていう手もあると思う」
冷静かと思えばそうでもない。上ずった自分の声を聞いて初めて、焦りの大きさに気づく。
「無責任だよ」
ハナの手に力がこもる。胸の曲線が大きく歪んで、二つの突起が桃色のTシャツを破かんばかりに突いていた。
「行きずりの相手みたいなものなんでしょ、私は。だから、適当なことしか言わないんでしょ」
「だけどハナは、そうしてほしいんじゃなかったの? いきなり他所の家に上がり込んで、何を期待してるのよ」
ハナが私の胸をやわやわと揉んで、やがて左側のトンガリに鼻と唇を擦りつけてきた。
「無責任だよ。何でも肯定するなんて、ほんと酷い」
「じゃあ、どうして欲しいの?」
好きにされるがままの私は、次第に息が荒くなってきた。本音と建前と、理性と欲望とが喧嘩している。そして何より、遅々として進まないこの状況。何がとは言えないそのプロセスが、私を焦らし続けて、早くどこかに向かって走り出したくなる。どこか。どこへ?
その時。
「んなっ!」
ハナの口が私の服から少し遠のいた。胸の先端が少しヒリヒリする。ハナが噛みついて、彼女の唾液がTシャツに花を咲かせた。
「もしかして、さっき話してたのは嘘なの? もしかして、こういうことに対して、アンチなの? 違うよね? 喜んでるよね?」
「でも、これは」
たぶん、今の私は言葉と表情が一致していない。
「ねぇ、カナさん。私がカナさんのこと、性的に好きって言っても肯定してくれる?」
言葉が出ない。その代わりに、網戸越しの風が薄いレースのカーテンを少し揺らした。
「私はね、肯定するのは癖なの。それが、これまで私が私を守る手段だったから」
少し大きな声を出すと、ハナの手は私から離れた。
どうやら、結局もう一つの昔話をすることになってしまったようだ。もう不味くなるお茶も二つのカップには残っていない。それを見ると、余計に喉の奥に乾きを感じた。
「私はね、女の子が好きだけど、とても怖いの。それに、あまり信じられない」
ハナは、完全に聞く態勢に入っていた。再び、丸椅子の上で三角座りを決め込んでいる。
さて。私が女の子を遠くから見つめたりするようになったのは、いつの頃からだったか。小学校高学年の時には、既にそういう習慣があったと記憶している。これは、そもそも私がその女の子の輪というものに入っていなかったということに起因する。だからこそ、成り立つ構図だった。
今でもそうだけれど、私には友達が少なかった。当たり障りない会話は大抵の人とできる。でも、クラスの行事などでグループを作るとなれば別。気づいたら私以外の女の子は和気あいあいと『いつもの』仲良し組でまとまっていて、私はいつも先生の手を借りてどこかのグループにお邪魔していた。私が入っていったところで、嫌がられることはほとんどない。親切にもズケズケとした物言いで有名だった子には「何となく近寄りづらいだけなんだけどね」と言われたことはある。私は誰かと壁を作ろうと思っていたわけでもないのだけれど、知らぬ間にそういうことになっていたのだ。
でも、私は女の子と仲良くなりたい。だから、彼女達の機嫌を損ねたくてはない。女の子は自分が他人からどのように見られているかという客観的視点を小さな頃からもっていて、それを強く意識している。話す相手のほんのちょっとの仕草や態度で様々なものを見抜き、相手における自らの評価を知る。そしてもちろん、輪の中では序列と秩序があって、それを壊すことは許されない。だから、最も序列の低い私ができることなんて、褒めることと肯定することだけだった。
「だって、わざわざ否定しても誰の得にもならないでしょう?」
「上っ面」
「そうよ。でも他の子も同じだった。輪の中にいるか外にいるかの違いだけよ」
「でも、中にいないと『女の子』に近づくことはできないんだよね」
「そう。こうやって本音で話せる女の子なんてなかなかいなかったものだから、偽ってるわけじゃないけど、ちょっと無理を重ねる必要はあったかも。それにね、普通の女の子はたぶんこんなこと考えない。もし近づきすぎてバレたらどうしようって思うと怖くって」
ハナはふっと笑った。その笑顔があまりに自然すぎて、力が抜ける。同時に、ハナの存在感が女の子として強くなる。もっと、もっと本音を語ってしまってもいいんじゃないかって、誤解してしまう。
「その一方で、私は女の子を憎んでもいるの」
「どうして?」
「私も同じ女の子なのに、どうして受け入れてくれないの?って」
「あぁ」
愛憎は紙一重。『女の子』というその美しくて尊い光のような存在の影に、憧れと妄想を涙と愛液を潤滑油にして混ぜ合わせた禁断のパンが闇の中に転がっている。ひもじさのあまり一口齧れば最後。狼男が満月の光を浴びたかのように、一見普通の優等生がある日突然街中で無差別殺人を引き起こすかのように、電撃にも似た衝撃をもって遺伝子レベルの組み換えが行われる。もはや前にも後ろにも進めない満員電車のように、揺れ動く心と向き合い続け、なるべく息を潜めて生きるしかないのだ。
「それは、分かるよ」
ハナの頷きに、私の独白に拍車がかかる。
「彼女達は、知らず知らずのうちに私を虐げてきたの。いつしか私は、頭の中では彼女達を凌辱するようになったわ。私が大好きな『女の子』という形をしている人達を一人一人引っ剥いて、堪能するの。彼女達は私とちがって、そういうことを女の子にされるのは屈辱的でしょうね。でも、当然受けるべき罰を受けているだけなの。だからこれは、とてもバランスが取れた善行のような気がしてね」
「でも、辛いんでしょ」
もう笑っちゃうぐらいに辛い。
「そう、苦しいの。想像力が豊かになって、脳内の映像がリアルになればなるほど、どうして目の前にいないの?ってパニックになって。だけど、実際にはやっちゃいけないって分かってるから」
憎くなる。何より自分が憎くなる。どうしてと尋ねる相手もいなければ、責任を擦りつけられる相手もいない。出口がないと分かっている迷宮の中を彷徨っては、案の定行き止まりに突き当たって膝に土をつける。
「ほんと、馬鹿でしょ?」
「私には、肯定する癖なんてないからね」
ハナの答えはすげない。でもここは、馬鹿だと肯定して、これからもお互い秘めたるものは秘めておく責任があるのだと力説することで、大人のフリを貫きたきったのに。
「私はね、こういう方法で解消してるの」
なんて言うから、私達はついに関係を深めてしまうことになる。