もしかして、リンチ
電車から降りてきたのは二人だけだった。咄嗟にしゃがみ込んで、先輩の両脚の間の隙間から見えた風景だ。胸元はすぐに両腕で覆ったので、おそらく他人には見られていない。はず。
「帰ろっか」
「はい」
私は身支度を整えると、萎れた朝顔のように俯いたまま立ち上がる。先輩から伸びた長い影を踏みつけるようにして、よたよたと後を追いかけた。ただただ虚しかった。
「それだけ?」
ハナは心底つまらなさそうに溜息をついた。
「まだ終わりじゃない」
「なんでそんな男と付き合ってたの? 馬鹿じゃない?」
「馬鹿さ加減で言えば、私も先輩も甲乙つけがたいところがあるわね」
「自覚あるんだ」
「たぶん、ハナが思っているようなことが原因じゃないよ。もっと深刻で甘美な理由があるのだけれど、聞きたい?」
聞きたくないと言われても聞かせるつもりだった。ハナはどう答えようか迷っている様子だったので、一方的に私の話を再開する。
◇
私は、妄想していた。
さっき私がされたことを他の誰かがされていたらどうなっただろうかと思うと身体に宿った熱が冷めないばかりか、破裂せんばかりに膨張していく。きっとこれは何かの欲望だと直感的に理解した。
例えば、あのシチュエーションを誰かに置き換えるとしたら、あの子が良い。私のクラスには様々なタイプの女子高生が揃っていて、とびっきりの美人でなくても、そこそこ見た目が良い子が揃っていた。その中でも、口を開けばキツイことしか言わないが、スタイルが私好みド真ん中の子がいるのだ。
彼女の裸は、高一の終わりに行った修学旅行で見た。大浴場の女子高生は大胆になる。まさか私みたいな希少種が潜んでいるとは知らず、躊躇いもなく全てを脱ぎ捨てて近づいてくる。私が湯船の端で肩まで温泉に浸かっていると、彼女は掛け湯しようと身を屈ませた。お椀形をもう少し膨らませた感じの胸がぷらんと下に垂れ下がって、揺れる。私が凝視しすぎたのか、こちらをキッと睨みつけてきた。
「湯加減、熱すぎない?」
どうやら、私の心を見透かしたわけではないようだ。彼女はしかめっ面のままお湯に入ると足を大きく開いて私の隣を陣取った。白い太ももは水中ではより白く光り、股の間にある薄らとしたものがふわっと広がる。それを掻き分けてもっと奥を見せて欲しい、触らせてほしいと言ったら、何と言うだろう。彼女なら、何が起こってもきっとこのしかめっ面を崩さないような気がして、私はごくりと唾を飲み込んだ。好みの女の子の裸なんて、そうそう見れるものではない。脳に念写するが如く強く強く目に焼き付けていく。
その時、彼女は急に立ち上がってこちらへ背をむける。それは、私にお尻を差し出す形になる。まさに目と鼻の先。毛穴さえ見えそうな距離だが、キメの細かい彼女のお尻はツルリと光っているだけ。真ん中からはおしっこみたいにさっと水が流れ落ちて、最後にはポタポタと雫が水面を揺らしていた。
それだけでも十分なご褒美だったのに、彼女はさらに身を屈める。となると、あそこが見えそうになる。薄く覆われたもので周囲よりも濃い色をしたそこを確かに目に捉えたと思った瞬間、彼女は立ち去ってしまった。
その後私は、何度も何度もこの瞬間を夢に見ては後悔する。なぜあの時事故を装って彼女に触れなかったのだろうかと。後悔は日を重ねる程に重くなり、ついには自分の胸に彼女の身体を重ねるようになる。もし私が彼女好みの男だったら、こんなふうに彼女を好きにできたのではないかと考える。
でも、どう見ても私は女で、少なくとも女の身体をしていて、性別的に男である人のこともそれなりに好きになれるのであった。
その頃からだ。私には女性の好みはあるけれど、男性の好みは無いということ。女の子ががんばってると、つい手伝いたくなるということ。可愛い女の子に話しかけるのは、なぜか勇気がいるということ。
もしかしたら、と思ったこともある。世の中には身体と心で性別が一致しない人々がいるらしい。でも、私はそれに当てはまらない。私は自分が女であることが嫌ではないし、女らしいことをするのも好き。例えば、かぎ針で編みぐるみを作るとか、簡単な料理をするとか。でも、男の子に性としての興味がもてなかった。だから、きっと私は『ちょっとだけ』変わってるんだと思ってきた。その『ちょっと』は私の希望的観測のちょっとであり、きっと世間的にはちょっとどころではないかもしれないことも薄々気づいていた。このことを誰かに話すなんてことは、今の今まで思いついたことすらなかった。
「そう、今の今まで、トップシークレットだったの」
「なんで喋ったの。秘密を無理やり教えられるとか、正直重いんだけど」
ハナは仕方ないなと言いながら、こちらに近づいてきた。完全に誤算だった。私とて、ここまで話すつもりはなかったのだ。しかも、初対面で若い女の子相手にだ。墓場まで持っていくはずだった話をどうしてしてしまったのか、当人ですら確固たる理由が見当たらない。敢えて言うならば、私達はこういう出会い方をしてこういう話をする運命たったのだ。一つだけ心当たりがあるとすれば、彼女、ハナは私の好みにある程度適っているということ。だから、私は気を許してしまったのかもしれない。
けれど、ハナの反応も理由を尋ねたくなる程不思議。どうして平気な顔をしているのだろう。てっきり、怖がって、もしくは気持ち悪がって、逃げ出すと思っていた。ちょっと脅かして、世の中にはいろんな人間がいるのだという事実を目の当たりにさせる。今夜は悪夢を見れば良い。そして二度と他所の家に不法侵入しなくなるならば、私は彼女に良い教育を施したことになる。そういうストーリーになる予定だった。
なのに、ハナはまるで新しいオモチャを見つけた幼児のように嬉しそう。純粋な喜びをその口元に浮かべている。
「つまんないけど、良いお話だったよ。私にとってはね」
やがて、満足気な顔に変わる。私は二人の間に横たわる微妙な間を埋めるために、慌ててテーブルに手を伸ばした。でも白い皿の上には焦げたローズマリーの葉が少し散らばっているだけ。チーズ乗せクラッカーの最後の一つを食べたのも私。仕方なく膝の上に戻した手は行く宛を無くして小さく固く丸まった。
「じゃ、約束通り、私も話すよ」
相手はただの若い女の子じゃない。それを肌で感じた私の中では、恐れと期待が渦巻いていた。彼女が話すのは、きっと普通の話じゃない。
「いいわ。聞いてあげる」
偉そうに言ったつもりが、声が震えた。
「私はね、相手が集団だったの」
私の話を要約すると、当時付き合っていた先輩に野外で卑猥なことをされたということ。その流れからの、『相手が集団』。つまりそれって。
「レイプ?」
「エッチなことはされていないけれど」
「もしかして、リンチ?」
「うん、たぶんそれ」
ハナは肩をすくめる。外の太陽は横切った厚い雲に覆われたらしく、ふと部屋の中が暗くなった。
「でもね、カナさんが思っているようなのじゃないよ」
ハナは丸椅子に座り直す。
「聞いてくれるよね?」