もしかして、ランチ
念のため、R15だと言っておこう。
あれは、高校二年生の夏だった。一夏の恋という言葉があるように、きっと夏の日差しには媚薬成分とまではいかなくとも、人間を興奮させる作用があるにちがいない。制服の着こなしも校則通りで、何の変哲もないツインテールを胸元まで下ろしていた地味な私に、初めての恋人ができたのはそんな季節だ。
体育の授業は五段階中必ず一をいただいていた運動音痴の私。所属していた部活は囲碁部で、それは見た目の地味さをさらに加速させるのに一役買っていたと思う。囲碁部には軟式野球部を兼部している珍しい先輩が一人いて、彼こそが私の相手だった。
「先輩」
と私が呼ぶと、日焼けした真っ黒な肌に白い歯が浮かぶ。近所で三輪車を得意げな顔で乗りまわすガキンチョと同じ笑顔で、少し可愛い。
日陰者の溜り場である校舎の端にある和室は、茶道部と日替わりで使っていた。エアコンも無い蒸し暑い部屋の中。い草の香りが燻されてように充満する中で、正座して碁盤に向き合う私。向かい側にはあぐらをかいた先輩。私が青白い手で白石を置くと、弾かれたように、そのすぐ隣へ黒石が寄り添ってくる。先輩は早打ち。私が長考している間はニヤニヤしながらこちらを眺めているだけで何も考えていなさそうだから、きっと頭の回転が速いのだ。碁石が碁盤に叩きつけられる音だけが響く。古典的で不規則な邦楽。私の地は少しずつ先輩に侵食されて痩せ細り、最後には二目を作ることができずに死んだ。その地は征服されて先輩のモノになったのだ。
わざわざ地の目数を数えることもなく明らかに私が負けているのに、先輩は黒い指を碁盤に突き立ててカウントしていく。
「俺の勝ち」
碁石を両手で集めていると、白石が一つ零れ落ちて畳の上を少し駆けた。すかさずそれを追いかけると、碁石を求めて彷徨う私の指先が先輩の大きな手の中に吸い込まれていく。
「一緒に帰ろう」
私達は自転車通学だった。家の方向は真逆なので、一緒に帰ることはできない。
「でも」
私の家は高校から三十分あまりかかる。大きな川を渡るので、風向きによってはもっと時間がかかることもある。ちなみに先輩は受験生である。本来ならば、この時期になると部活に顔出しすることだけでも望ましくない。
「途中まで送ってあげる」
結局先輩は、器用に立ち漕ぎしながら私の横を付かず離れずの距離を保ちつつ、ついてきてしまった。変な人。変だけれど嫌ではなかったので、私は先輩を突き放すように自転車のスピードを上げることはなかった。
「ここまででいいです」
途中、無人駅の近くに差し掛かった時、私は横断歩道の手前で、熱したフライパンみたいな地面に足をつけた。先輩は私の瞳の力に何かを感じたらしく、ようやく頷いてくれる。だけど。
「寄り道しようよ。ちょっとだけ」
駅前というにはお粗末過ぎる場所。以前は店だったかと思しき古い家屋が、路地奥に向かって連なっている。その上には、今にも地球の引力に負けてしまいそうなぐらい深く垂れ下がった電線が数本。その片隅、コンクリート剥き出しの壁沿いに自転車を並べて止めて、私達は駅の構内へ入っていった。
当時は、改札らしい改札なんてなかった。長い歩道橋のようなスロープを登りきると、一段高くなったところにプラットホームがあって、高い建物が無い田舎においてそこは、ある種空に浮かぶ異空間である。寂れた近未来フレイバー。という味のソフトクリームが、つんっと角を立てて青空バックにそびえている。もしかすると、明太子味も混じっているかもしれない。真横から指す夕方の赤光が、あらゆるものの輪郭を必要以上に強めて、その秘めたる存在感を影として地面に投げ出している。
いつの間にか、手を繋いでいた。
西陽で橙に染まった誰もいないホーム。掲示板下の壁。足元には日焼けして色褪せたゴミ箱。私は先輩と壁に挟まれて、そこから逃れるべく膝を曲げる。でもそんなこと許されなくて、先輩の黒い腕が伸びてきて、制服の白いブラウスの中に滑り込んだ。
「この身体、理想的」
それまでの暑さがすっと遠のいた。
「だめ。電車来るから。誰か、来るから」
「三十分に一本しか通らないのに?」
「でも、それがすぐこの後かもしれ……」
私の唇に、先輩の左の指が押し当てられていた。
「していい?」
「一回だけ、だよ」
唇に、だと思ってた。
制服の前のボタンは所謂スナップボタンという類のもので、少し引っ張るだけで中に着ていたキャミソールが御開帳となる。それを素早くたくしあげて、ブラをずらすと、汗で濡れた胸の切っ先が熱い空気に触れた。物理的な吐息を感知したのか、先輩を感じたのか。まだまだ明るい時間帯。学校帰りの駅のホームなんていう公共の場所で、あられもない姿にされた私はパニックになって、声すら出すことはできなった。
同時に、興奮が最高潮になる。年頃で、ハリのある胸が男性の餌食になっているということ。自分ではなく誰かのそんな行為を盗み見ているような気持ちになって、きゅんっと下半身が疼いた。これが、私ではなく私以外の、例えばもっと美人でお化粧もしていて、可愛い声が出る女の子だったならば。そう思うと、言い表せぬほどの焦燥に近いものが身体の中に蓄積して、それを早く解放したくてたまらなくなる。けれど、先輩はそんな私の気持ちになんて、全然気づいていない。
「この形が好き。出るとこ出てんのに、腰すっごく細いのも好き。その顔も」
先輩は私の身体の他の場所の輪郭も指先でなぞりながら、口元に迫る先端を強く吸って引っ張った。痛いと思って目を瞑った瞬間、突風が頬を殴りつける。
電車が来た。
「ねぇ、オーブン鳴ったよ」
ハナは男遊びするようなタイプには見えなかったから、ちょっと脅かしてるつもりだったのだ。私のような大人が子どもである彼女に語って聞かせるにあたり、ギリギリ許されるラインを狙っていたつもり。なのに、ハナはこれといった反応を何も示さない。ふーんとでも言いたげに、テーブルへ肘をついたままだった。
「お腹空いてるの?」
「だったら?」
オーブンレンジは、二度目のメロディをさえずった。ハナのためではなく、構ってちゃんのオーブンレンジのためにキッチンへ向かう。オーブンレンジの扉を開くと、芳しいローズマリーの香りが鼻腔へ届いた。突き抜ける清涼感。あぁ、私の青春もローズマリーのようでありたかった。
ミトンで掴んで取り出したオーブン皿から、白い皿へポテトを移していく。大自然の恵みを凝縮したかのよう。停滞していた部屋の空気が、一気に食欲の渦へと変換されていく。
私は、皿を持ってテーブルへ戻った。
「もしかして、これがランチ?」
「うん。朝ごはんもまだなの」
なるほど、だからずっと不機嫌だったのか。私は皿をずいっとハナの前へ押しやる。さっさと食べれば良い。
「話のオチもまだだね」
彼女の不機嫌が、またもや私に乗り移った。
オチも何も、私の話のクライマックスはこれからだ。