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もしかして、おんち

 ゆっくりしてねとは言ったものの、ここまで大胆に寛ぐ招かざる客なんてそうそういない。若い子にはその辺りの機微が通じないものなのだろうか。

 娘のおもちゃを部屋の隅に追いやって、物置から丸椅子を運んできた。あらかじめ置いてあった椅子の上には、昨日外に干して取り入れた洗濯物が山積みになっていて座れない。そう、この家は要するに全く片付いていない。

 掃除はしている。数日に一度、掃除機をかける。娘の椅子の足元は毎食後濡れ雑巾をかける。それでもすぐに汚れていく。物が多く、定位置を持たない迷子ばかり。でも、どこに何があるのかは把握できているので、生活で困ることは何も無い。

「事前に連絡をもらって、きちんと誰かをご招待した時には綺麗にしてるんだから」

 私はキッチンのタオルを新しいものと交換しながら、少女を横目に呟いた。彼女に話しかけるというよりも、私は私に言い訳がしたかったのだ。

「一人暮らしみたいな家だね」

「一応三人暮らしよ」

 私と娘のほかに、夫もこの家に住んでいる。そうは言っても、言葉を交わすのは一日の内に十分足らず。業務報告のようなもので、必要最低限の伝達さえ済んでしまえばお互い寝てしまう。仲が悪いわけではなく、夫の仕事が忙しいのがいけないのだと思いたい。

 少女は足を組むと、テーブルの上にあった薄っぺらい地域誌をつまみ上げた。

「ねぇ、カナさんは最近、恋愛してる?」

 カナさんとは私のことだ。本名ではない。彼女を家に上げるにあたり、名前を尋ねてみた。どこぞの物語ではないが、名を聞く時には先に名乗るのが筋かと思い、適当に偽ってみた。それだけ。彼女はそれを知るか知らずか分からないけれど、一拍おいた後に『ハナ』だと答えた。

 私は、彼女の前にあるテーブルの汚れを台拭きで拭う。娘が昼に食べた大学芋の甘いソースが付着したままだった。まだ完全には固まっていなかったらしく、すぐに綺麗になり、ツルリと光る薄茶の天板にはシーリングファンのライトがはっきりと映りこんだ。

「私、もうそんなに若くないのよ」

「女は灰になるまで恋できるらしいよ。おばあちゃんが言ってた」

「おばあちゃんも恋してたの?」

「亡くなったおじいちゃんにね」

「へぇ、いいわね」

 どうでもいいわね。そんなこと。

 私は今や人妻というヤツだ。恋愛なんて、もう知らない。独身時代だって、恋愛だと思っていたのに違った、なんてこともよくあった。では何だったかのかと言うと、そう。重すぎる愛によく似た憎悪だとか、花火みたいに盛大に散った火の粉だとか。滝のような大雨に流されて消えていった笹の葉とか。私はそういうタイプで、なぜ今結婚できている状態にあるのか、本人であるにも関わらずよく分からない。

 相手は若い子だ。ちょっと良い格好をしてみたい。人生そんなに簡単じゃないのよ、なんて顔をして、ちょっと説教臭いけど為になるウンチクの一つも垂らしてみたい。決して、私の人生は順風満帆ではなかったと思うから、何か一つぐらい偉そうな事を言ってみたいではないか。

 そういった背伸びが、そもそもの引き金になったのかもしれない。

「それで、ハナは恋愛してるんだ?」

「聞きたいなら、先に自分の話しちゃってよ」

 理屈でない理屈を並べる人って、可愛いと思ってしまう。どことなく母性がくすぐられて、その期待に応えたくなるのが私の悪い癖だ。

「いいよ。特別に話してあげてもいいかもしれない。でも、先にオヤツを仕込みましょう」

 私は、さっきハナがちぎってしまったローズマリーの枝をキッチンに運んだ。まずは、オーブンの予熱と電気ポットをONにすることから。次に、先週末に夫が庭で収穫した新ジャガを流水で丁寧に清める。皮は剥かない。毒のある芽だけを取って、薄くスライスしていく。それにオリーブオイルをまんべんなくかけて、チューブから出したにんにくペーストを塗り込むと、オーブン皿の上に並べる。さらにその上から刻んだローズマリーを散らしたら、準備は完了。

 ローズマリーの香りは好き。どことなく、消毒液のイメージがある。ハーブだから野性的な香りがするはずなのに、なぜか清潔なものを守り抜くかのような、確固たる一本筋を通したような強さがあるのだ。

 私は鼻唄を歌い始めた。曲名なんて知らない。たぶん、作詞作曲は私。歌詞は全て、『ん』と『ふ』の間の発音を連ねたもので、この音の再現には少々のコツがいる。よく聞くと、僅かに別の階域の高音も出ているこの歌い方は、娘が好きなのだ。よく寝る前の子守歌になっている。

 飲み物も欲しい。お客様用のカップを並べて紅茶をティーポットにセットし、冷蔵庫からチーズを出してきた。チーズがあれば喉が渇くし、口の中の退屈凌ぎにもってこいだ。チーズはまろやかさや、塩気、料理のエッセンスというよりかは、日常を味付けするために存在している。一口大に切って、クラッカーの上に載せた頃にはオーブンの予熱が完了。ポテトをセットして、紅茶を蒸らし始める。と同時に、はっとした。

 部屋の端、おもちゃのぬいぐるみに埋もれるようにして、娘は横たわっていた。小さな背中が微かに上下している。そのインターバルは大人のそれに比べて少し早い。幼子だからだ。

 大丈夫。生きてる。たぶん、私は母親として最低限の責務を果たしていると思えた瞬間、無意識に両肩が少し下がった。

 ハナは、未だに地域誌と睨めっこしたままだった。クラッカーとティーポットとカップを載せたお盆をテーブルに運ぶ。ハナはすぐに腕を伸ばして未だ空のカップを一瞬持ち上げた。何だ、空なのかと目が訴えたのを私は鼻で笑って受け流す。

「もしかして、音痴?」

「誰が?」

「カナさんしかいないでしょ」

 この子に出すのは、渋いほうじ茶の二番茶ぐらいでいいかもしれない。

 私は、ハナと同じ歳ぐらいの頃を思い返した。すぐに口の中が苦くなる。早速チーズ乗せクラッカーを頬張った。バリバリと噛み砕く音が、静かな部屋では異様に大きく感じる。でも娘が起きてくる気配は全くなかった。

「いいわ。お茶が不味くなるような話、一つだけしてあげる」

 そう切り出して、私はハナの前にあるカップへ紅茶を注ぎ始めた。


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